1-3話 ハヤテと荒川の黒い風
「うちの自転車、もう結構ボロボロだな……」
家族三人で囲んだ食卓で、ご飯を食べ終え茶碗の上に箸を置きながら父親はチラリと向かいに座る母親の顔を見る。
「そうねぇ、あれっていつ買ったんだっけ?」
「かれこれもう四年ってところだな」
家族共用で使っていた白いママチャリ。
フレームは汚れでくたびれて見える。
チェーンは油と走行でまきあげた土ほこりが混じったもので動きが悪くなってしまっている。
ブレーキはワイヤーが伸びて前後共に利きが悪くなってしまった。
買って四年には見えない劣化した見た目。ろくにメンテもしていないから当然と言えば当然だ。
「思い切って買い替えないか?」
「そうね。悪いところ全部直したらけっこう高いものね」
両親の会話がすんなりと話がまとまって終わってしまうところに、私はすかさず割り込んだ。
「私の自転車も欲しい!」
チャンスだった。
友達と遊びに行く。
少し離れたところにある図書館に行きたい。
そんな事情で自転車を使いたいと思ったとき、何度か両親の使いたいタイミングと被ってしまったことがあった。遊びで使いたい私の事情が、スーパーのタイムセールや市役所に書類を出しに行くといった両親のイベント事に勝てるはずもない。
そんなときはいつも歩いていくことになってしまって、でかける道中しばらくイライラしていた。
この時の両親の会話は、そんな日常のストレスを解消する絶好のチャンスだった。
「ハヤテ専用か……しかし二台置いておくスペースがなぁ」
難色を示す父親。
「ガレージなんてあんなに広いじゃん!」
「そうか? けっこう狭いぞ? もう一台増えるとなったら通りずらくなる」
「そんなんお父さんのバイクがあるからでしょ? 月に数回程度しか乗ってないの知ってんだから。邪魔だっていうならアレの方がよっぽどじゃん!」
「なんてこと言うんだ。あれは俺が取材に行くときの足だぞ?!」
お父さんにとっては大切なものなのだろうか、あのバイク。ガレージのスペーサー呼ばわりしたのが気にさわったのか、お父さんの口調がすこし強くなった。
でも、ここで引くわけにはいかない。
「いいじゃん! 買ってよ私専用!
私が使いたいのに二人が乗ってて乗れないときどうしてると思ってんの?!
歩いてるのよ! しかも友達が自転車だったら私だけ走ってるのよ!
おかげさまで持久走大会は──いぃっっっつも、陸上部の子より順位上なんだからね!
いい加減私専用が欲しい! 欲しいったら欲しい!」
「持久走上位? 結構なことじゃないか。その調子で走ればいい。楽をするな」
楽をするな。よく先生たちが使う便利な殺し文句だ。
楽なんかじゃない。
夏の話だ。自由研究で図書館に行く約束をした日。待ち合わせの場所に行こうとしたら、目の前でお父さんが、かっさらうようにして自転車に乗って買い物に行ってしまった。しかも歩いて10分ほどの距離のスーパーへ。
約束だからと待ち合わせ場所に歩いていって、友達の自転車にバックを乗っけてもらって、陽の反射熱の激しい炎天下の中を走ったことがある。着いた頃には汗だくになって自由研究どころじゃなかった。
その時、私を見た友達の表情と「もしかして、ハヤテちゃんちって貧乏?」なんてセリフは今でも鮮明に覚えている。
そんな私の気も知らないで、平然とした口調で、この父親は。
「──ふざけたこと言わないでよ! 私がそれでどんなに苦しくてみじめな思いをしてるか分からないでしょ!? 勝手なこと言わないで!
お父さんよくアマゾンでいろんなもの買ってるくせにずるいよ!」
「俺の稼ぎで買ってるものだ。こずかいはやってるだろ? それ貯めて自分で買うんだな。それか働いてな」
「…………」
無茶を言う。中学生でもバイトができればそうしたい。
これ以上、何を言っても無駄か。
そう悟った私は持っている箸と茶碗をテーブルにたたきつけたくなって、でも我慢して下を向く。
その時だった。
「ハヤテ、良いわよ。好きな自転車買ってあげる」
お母さんの一声に、私は頭を上げて聞き返す。
「ほんとに、いいの?」
「ハヤテは再来週誕生日じゃない。そんなに声を荒げなくても、誕生日プレゼントで買ってあげるわ」
「やったぁぁぁ!」
興奮しすぎて自分の誕生日という切り札を忘れていた。
お母さん、本当にありがとう。優しい声色で、誕生日プレゼントとして決断してくれて。
そして、ここからお母さんによる公開処刑が始まる。
暖かいお母さんの表情が突然一瞬にして冷酷そのものに変わり、お父さんの方を向く。その冷ややかな視線に、お父さんの額から汗がにじむ。
「そうだ。あなたのバイク、明日近くの中古車屋に電話して査定に出すから」
「なんでだよ!?」
当然、お母さんのこの提案にお父さんは立ち上がって抗議する。しかし、母親は動じず、冷静に理由を並べた。
「中学生の娘に自分で買えなんて無茶を言うからよ。それに、今でこそあなたはプロの漫画家だけど、夢を追いかけてた
「それは…………」
「あの頃、私の住んでたアパートに居候させてあげたのは誰だったかなぁ」
「
「あの時ってあなた
「結さんです……はい……」
過去が掘り下げられ、お父さんのどんどん顔がどんどんと青くなっていく。立ち上がった時の勢いが一気に萎えて、ゆっくりと椅子に腰を下ろしていく。
お父さんザマァ。
「あのバイク売れば、あの時の貸しのいくらかは帰ってくるわね。うまいことプレミアついてれば高く売れるかも♪」
「大変申し訳ありませんでした。あのバイクは高校生の頃のバイトしてやっと買った思い出の品なんです勘弁してください」
「じゃあ、今週末ハヤテの自転車選びよろしくね♪」
「いかようにも……」
こうして、私は週末にお父さんの
大型のショッピングモールだけあって、いろんな自転車があった。
同じようなママチャリを家様に選んだお父さんは、私の自転車選びを始める。良さげなものを見つけては店員さんを呼んで、私を自転車に跨らせた。
「これなんか良いんじゃないか? 前後にカゴが付いててデザインもかわいらしいし」
「うん……いいかもだけど……」
ここに来る途中、私は流れる景色の中で自転車屋を見つけていた。その時、窓越しに見えた煌めく自転車が頭の隅にずっと残っていて、それが気になってしょうがなかった。
「……他のお店も見てみちゃダメ? ここに来る途中にあったの」
「へぇ、どのへんだ?」
「えっと……コンビニを曲がってそれから郵便局を……えぇっと……」
普段は通らないような道をバイクできたものだから、店の場所も名前も言葉で表現しずらい。
「大丈夫だよ。来た道を引き返すから」
お父さんは嫌な顔せず、バイクに乗って、一緒に来た道を引き返してくれた。
商店街の入り口を横切る大通りをまっすぐ進んで、交番を少し通り過ぎた先にある、ブドウの木が伸びたレトロなお店。
入るとそこは魔境だった。
新車、中古車、修理の自転車か分からないけど、所狭しと並ぶ自転車。
段ボールやタイヤが積み重なった物置のようなところ。
人の通れるスペースは、大人一人と自転車が横並びに通れるくらいの広さで、床には所々に取り外した小さなパーツや切ったワイヤーが落っこちている。
でも、そんなの気にならなかった。
ショーウィンドウのところに吊るして展示してる一台のロードバイクが私の心を一瞬にして奪い去っていたからだ。
「……あれが良い」
水色じゃない。緑色かというとそうでもない。
言い表すなら、ヒスイ色。
外から差し込む光と店の照明に照らされて、星が瞬くように車体がキラキラと輝いている。
車体の太いパイプには、F95-crossXと書かれている。
ハンドルは横に伸びてから輪を描くように下に伸びていて、カマキリに腕のような持ち手が左右についている。
店主のおじいさんが、下に並べてある自転車を描き分けて、吊るしてあるそれを下ろしてくれた。
「跨ってみてごらん」
おじさんの勧めで跨ってみる。
いっぱいに前のめりになって、腕を思いっきり伸ばして、やっと手がハンドルに届いた。
ペダルにはつま先立ちでようやく足が届く。お父さんが前から支えてくれているから倒れないけど、体に合っていないのは明らかだった。
「少し大きすぎるな。別なのが良いんじゃないか?」
プルプルと震える私をみてお父さんが言う。
「……これが良い」
今の身体のサイズには車体が大きすぎるのは解っている。
それでも、これ以外考えられない。
全てわかっている。
それでも、これが良い
そう必死に目で訴えかけたのをよく覚えている。
すると、お父さんは店主のおじいさんにこんな質問をした。
「乗れると思います?」
「う~ん、明らかに辛いね。でもまぁサドルは一番下まで下げて、ハンドルさえどうにかすれば乗れるんじゃないでしょうか? 見た感じ、この娘中学生ですよね? だったら高校生になったころには元に戻しても乗れるくらいには背が伸びるんじゃないかなぁ。試しにハンドルを付け替えてみましょう」
私が自転車から降りると、おじいさんは山積みの段ボールの中から中古のフラットハンドルを引き抜いて、それをあっと言う間に自転車に取り付けてくれた。
もう一回跨ってみる。
足は床まで十分に足が届くようになっていて、ハンドルもしっかりと握れる。
「これが良い!」
「これいくらです?」
お父さんが値段を聞くと、おじいさんは近くにあるカタログを手に取ってページをめくった。
「えっと……税抜きで定価が30万だから、二割引きに税込みにして……、ハンドルのグリップは別になるな。
25万でどうでしょうか。今つけてるハンドルは差し上げます。他には新品のペダルとボトルケースにブラケットがセットです」
私は値段の違いに開いた口がふさがらなくなる。
お父さんが買おうとしているママチャリの値段が2万だから、この自転車は文字通り桁が違う。
「ダメだ」きっと、そう言われるに違いない。
でも、その予想は大きく裏切られた。
「わかりました。これください」
その優しい声に、はっとなった私はお父さんの顔を見つめる。
見つめ返してくるお父さんの表情は、どこか嬉しそうで、とても温かく感じるものだった。
「……いいの? だって、これママチャリより全然……」
「気にしなくていいよ。これが良いんだろ? お誕生日、おめでとう」
○○〇
懐かしい夢を見た。
あのお店のおじいさんの予想通り。私の身体は成長して、ハンドルは付け替える前に戻って、サドルもちゃんとした高さに合わせて乗れるようになった。
ハンドルを元のドロップハンドルに付け替えるときに知ったことだけど、この自転車はメーカーに注文した特別仕様だったらしくて、このカラーは一台しかないらしい。
それに乗って、私はインターハイを征したんだ。
最初にして最高の一台と巡り会えた。まさしく、これは運命の出会いと言えるだろう。
夢のおかげか、なにか落ち着いた気分になれた気がする。
2時間の睡眠を経て、私は愛車にまたがる。
今日味わされた嫌なことは思いっきり荒川を走ることで忘れよう。
『久しぶりにゆっくり走ってみようかな』
私はライトを灯し、ペダルを踏み、いつも走る荒川に向けて走り出す。
時刻は8時を少し過ぎたくらい。
この時間帯から走るのは初めてだ。放課後すぐに帰宅してタイムアタックや練習をするから、夏なら日が完全に落ちきる前には練習が終わる。
街灯のおかげでライト無しでもまあまあ見える夜の公道。しかし、荒川の管理道路は真っ暗闇で、ライトを付けていても見通しが悪いことこの上ない。無灯火でなど走れたものではない。
暗くて何が落ちているかわからない。この前、今まさに走っている管理道のど真ん中に千本以上の釘がバラまかれていたなんて事件があったのを、テレビのニュースでやっていた。
さすがに一週間も過ぎた話だから大丈夫とは思うけど、思い出してしまうといつも走って慣れた道でも怖くなる。
しかし、そんな緊張も5キロも走らないうちに消え失せ、いつもの走行ペースになっていった。
遠くで見えるテールランプの光にも、あっという間に追いついて、抜いて、引き離す。
荒川を走り続けているうちに、呼吸を乱すことなく出せるようになっていた、私の平均速度は時速40km。
「この速度に追いつけるロードレーサーは存在すると思うか」と問われれば、「いない!」と即答できる自信がある。
『……これじゃあいつもの練習と変わらないわね』
いけない、いけない。
今日くらいはゆったりと走ろうと思ってきたのだ。それに、管理道路の各所に設けられているゲートは、夜の間は全て閉じられている。どうせそこで減速する事になる。
時速25km程度までペースを落とす。
『ここまで速度を落とすと流石にゆっくりに感じるわね。普段の練習のスピードが当たり前になっているって事かな?』
葛西橋を渡って折り返し、小松川橋を過ぎたあたりでの事だ。
『なに?』
ドロップハンドルのグリップエンドに取り付けてあるサイドミラーに、小さな光が反射する。
後ろを振り返ると、自転車のライトの光が遠くで灯っているのが見える。
おそらくスポーツタイプの自転車だろう。普通のママチャリのライトはフロントホイールの回転によって灯るため、体感ではあるが光の強さに安定性がない。逆に、私の使っているようなバッテリータイプのライトは充電が持つ限り一定の光を放ってくれる。つかないかと思われがちだが、意外と見分けがつく。
『……別にいいか』
誰かと競っているわけでもない。それに、ロードバイクでも一般人が時速25kmを維持するのは意外に体力を必要とする。
しかも、光の見える位置は500メートルほど後方だ。
追いつかれることはないでしょう。そう思っていた。
だが、ミラーに映り込んだ光は、次第に大きくなっていく。
ゴォォォォォォという不気味な走行音まで聞こえ始め、それも徐々にボリュームが増してくる。
『速い!』
何が迫っているのだろう。背中がひりつく。
練習じゃ感じることのない類のプレッシャー。まるで、大会で私の隙を後ろから見つめる速い選手が放つような威圧感だ。
視線をチラチラと、ついミラーに向けてしまう。
ついに不気味な音を出す自転車のライトが私の背後を照らした。サイドミラーはライトの光に満ちてしまい、まぶしくて何も見えない。
追いつかれた? あの距離から、この短時間で?
2分も経っていない内に追いつかれた事実に心の中で驚愕する。
一体どんな乗り手なのだろう。どこのメーカーのロードバイクなのだろうか。
背中を照らすライトが右に揺らめいた。追い抜きをかけてくる。
『うそでしょ!?』
チラリチラリと横目をいっぱいに。視界に割り込んでくるその自転車は、私の想像を超えたものだった。
有名なメーカーのロードバイクを私は想像していた。
しかし、横に並んだのはロードバイクじゃない。
見た目は一言で言い表せば『巨大』そのもの。
漆黒に黄色いラインのはいったツートンカラーのフレーム。鍛え上げた男のような片腕のサスペンションフォーク。何よりひときわ目を引くのは、前後に備え付けられた、極太のホイールとタイヤ。バイクについているようなものと見違えてしまうほど。
MTB《マウンテンバイク》だ。
巨大なMTBは、私の前に出た瞬間にさらに加速する。
何が起こっているのか。だけど、相手の加速と、開いてゆく差に、体がつられて無意識にギアをトップに入れる。
行きと違ってゲートの設置間隔は長く、荒川大橋まではゲートは存在しない。しかも道はほぼ直線だ。緩いカーブがあるが、それもほとんど直線と大差ない。
十分追い抜く余裕はある。
しかし、差はどんどんと開いてゆく。最大ギアでの加速なのに引き離されてしまう。追い抜くどころかスリップストリームにすら入れない。
『もっと……速く!』
ギアは前後共にトップギア。
ペダルが重い。段々と回すじゃなく、踏みつけるようにペダリングが変わっていく。
これ以上の速度は出せない。
足がしびれてきて、痙攣をおこし始めた。
リズムが乱れてスピードが落ちていく。
「もう……無理……」
ペダリングを止めたとたん、がくがくと膝から下が震えだす。
そんな失速する私をMTBは引き離し、緩やかなコーナーを抜けたあたりで見えなくなった。
私は近くにある土手の階段の前で止まる。膝の震えで落車しないように、そっと愛車から降りる。
上がり切った呼吸と、膝から下の痙攣は、まるでゴール前のスプリント勝負でも繰り広げたかのような感覚だ。
『……何だったのよ、いったい……』
何か虚しさのようなものが心に残る。
その心と全身から吹き出す汗を撫でるように、暗闇の荒川に風が吹く。
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