1-2話 ハヤテと荒川の黒い風

『──それでは、まず自己紹介からお願いします』


『はい。大倫女子高校二年、自転車競技部の神崎ハヤテです』


 しつこい雑誌の記者と学校の先生たちが手を組んでしまったようだ。

 私はついに、帰りのホームルームが終わった直後に捕まってしまった。今、学校の応接室で取材を受けている。

 三人掛けのソファの真ん中に座らせた私の両脇を、理事長と部活顧問の先生が固めている。

 革製の高級感あふれる広いソファで、座り心地はとても良い。理事長が自分の来客を待たせるための特別な部屋に置かれているだけのことはある。……のだが、理事長は悪い意味で、顧問の先生は良い意味でガタイが良い。そのため、見た目広く感じた高級ソファは、座ってみると酷く窮屈に感じる。二人の重みが原因で、ソファのギチギチという悲鳴の様な音まで聞こえるくらいだ。

 テーブルを隔てたソファに座る記者は、膝に乗せたパソコンに私のコメントを打ち込んでいく。そんな私たちの様子を、カメラマンが監視衛生みたいにぐるぐると動きながらシャッターを切る。

 早く帰って荒川を走りたい。適当に答えて早く取材を終わらせよう。


『えー、次に普段の練習について教えてください。ハヤテさんは今年のインターハイにおいて、男子でも達成困難と言われるスーパーレコードを叩き出しました。その為に普段どの様な練習をしているのですか?』


『はい、いつもは──』


『海外より取り寄せた最新式のロードバイクと、体育館にある最先端サイクルトレーナーで練習させております。サイクルトレーナーは屋外で想定される様々な走行条件を設定して練習することができます。雨の様な路面状況が悪い日でも、屋外とほぼ変わらないハイレベルな練習ができるのです。我が校は──』


 いきなり理事長が割って入り、長々とした学校自慢を喋りだす。


 言っておくと、私は屋内のサイクルトレーナーで練習したことなんて一回しかない。

 理事長が言っているように、学校のサイクルトレーナーは、様々な道と走行環境を設定することができる。備え付けのディスプレイで実際の道を映しだすこともできるし、そのおかげで実際の道を走っているかのような練習をすることができる。

 自動車学校にあるバイク用のシミュレーターを想像してもらえば良い。要はあれの自転車スポーツバイク版だ。

 スポーツバイク未経験者が初めっからシミュレーションをやった時は「こんなこともできるの?!」と素直にすごいと感じるだろう。

 だが、いざ実際の道を走るとなると勝手が違う。初めにサイクルトレーナーを体験してしまった初心者ほど、仮想と現実のギャップに振り回される。

 シミュレーションでは再現しきれないことが現実の道を走るときには大きく感じる。特に、サイクルトレーナーでの練習に落車は無い。落車してしまう人もいる。私自身、部の練習に参加しているときに何人か見てきた。

 幸い、私は中学生のころからロードバイクにまたがって好き勝手走っていたから、ギャップでの落車はしないでいる。

 逆に、仮想シミュレーション練習では確実に曲がれるとふんでいたのに、画面に「落車しました」と表示されたことはある。

 落車の原因として「コーナーへの侵入速度が速いです。もっと速度を落としましょう」とコンピューターに言われたときは、ボトルを画面に向けて投げつけてやった。

──といった具合で、サイクルトレーナーでの練習はやっていない。肌に合わないから。

 

 やっと理事長の話が終わり、質問が変わる。


『すごい設備がそろっているのですね。それでは神崎さんは普段はサイクルトレーナーで練習しているのですか?』

『いえ、私は使っていないです。主な練習メニューは家から学校までの道のりと、往復50km以上の荒川での走り込みです』

『ハードな練習内容ですね。それは誰かから言い渡されたものですか?』

『いいえ。すべて自主的に──』

『私が言い渡した練習メニューです』


 今度は顧問の先生が、意味の解らないセリフで割って入ってきた。


『サイクルトレーナーでの練習だけでは実際の道を走行するときに違和感が生じます。特に、ハヤテは入部当初から光るものを持っていたため、特別に荒川での走り込みを言い渡しているのです』

『実際の道での走り込みに関しては危険ではないかと思うのですが、その点はどのように対策をしているのでしょうか』

『荒川のサイクリングロードであれば、公道を走るよりは格段に安全であり、夜の走行もライトなどを点灯させれば、他の利用者の迷惑になることもございません。彼女は私の指示したこのメニューを毎日こなし、そしてインターハイで素晴らしい結果を残してくれました』

『今や日本最速と名高いのも納得がいきます』

『ハヤテは当校の誇りですよ。ハハハッ』


 何を言っているのだろうか。このクソ野郎どもは。

 この後も、こいつは理事長とも一緒になって、私が立てたインターハイの記録は自分の手柄だとでも言うかのようなコメントを残した。


 地獄のような取材が終わり、解放されたころには私の走りに対する情熱はすっかり冷めきっていた。

 家に帰った私は、ベッドに大の字で転がって天井の模様を見つめる。


『……くだらない』


 私が今まで練習してきたのは、理事長に自慢話をさせるためでも、顧問の先生に手柄を立てさせるためでもない。

 ただ誰よりも早く走ること。それだけだ。

 インターハイでの記録は、毎日の練習の積み重ねで手に入れた聖なる勲章のようなものだ。

 それを、たった一回の取材のやり取りで、汚された。そんな気分だ。


『辞めちゃおうな……部活も……走るのも……』

 

 カバンの中からLINEの着信音が響く。

 確認すると、芽衣からのメッセージだった。


「もう家に帰った? 取材の内容、記者さんから聞いたよ。

 お疲れ様。


 今度の休みにさ、一緒にどこかに走りにいこ♪」


「ありがとう」とだけ返信して、同時に時間を確認する。


『17時半か……少し寝たら走りにいこ……』


 アラームを2時間後にセットしたスマホを枕元に放り投げて、部屋の明かりはつけたまま、静かに目を閉じた。

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