荒川BLACK・WIND

GPZ900R

オーバーチュア

1-1話 ハヤテと荒川の黒い風

 団体女子ロードレース・インターハイ最終日。

 一位を走る選手がゴール前の最終コーナーまで到達した。

 モニター越しにレースを見る実況者と解説者。

 道の両脇に設けられた仕切りから身を乗り出すギャラリー。

 それぞれが吐き出す歓声が、ゴール付近の空気を激しく震わせている。


『さぁ、三日間のスケジュールで合計約350kmに及ぶ険しい道を選手たちが走り抜けてきました。特に今年の最終コースはほとんどが上り坂であるところから歴代最難関と言われています。そんなコースをモノともせず、二位と十分という圧倒的な大差をつけてゴールに迫るのは神崎ハヤテ! 今、その姿が、見えたぁぁぁ!』


 傍観者ギャラリーたちのボルテージは、一着の選手が姿を見せた瞬間に最高潮まで高まる。

 スピーカーから発せられる実況の声が、ギャラリーたちの歓声によりかき消される。

 そんな中、ハヤテはただペダルを踏んでクランクを回し続ける。

 二位の選手は何コーナーも隔てた向こうにいる。優勝は揺るがないそんな状況でも、彼女は歓声を送る人々に手を振ることもしなければ、ましてや雑誌記者たちが放つまばゆいカメラのフラッシュになど目もくれない。

 勝ち誇るそぶりも、そんな気持ちも、彼女には微塵もない。

 ただ速く、もっと速く。そして、全速力でゴールに突っ込みゴールテープをその身で切り裂く。それだけだった。


 ──大会が終わって一か月が過ぎた。

 大倫たいりん女子高校の敷地を囲うフェンスや、校舎屋上に設置されている柵には、<祝・インターハイ優勝>の祝幕がいまだに張られている。夏休み明けの登校から二週間も経っているというのに。

 校門の前に立っている先生には『来年も期待しているぞ!』と激励され、校舎裏にある駐輪場に向かう途中では他の生徒から『おめでとうございます』と声を掛けられる。

 最初のうちは嬉しかったし、『ありがとー!』と返していた。だが、次第に面倒になり、今では手を軽く振る素っ気ない返しをするだけになった。

 今日の全ての授業が終了し、帰りのホームルームで締めくくられた後、私は帰りゆく生徒の中に混じって駐輪場に止めてあるママチャリにまたがる。


『ハヤちゃん!』


 横からあだ名で呼び止めてきたのは、同じ自転車競技部の同級生の山路やまじ芽衣めいだ。

 地毛がほんのり茶髪の短髪で、体格は小柄。元気にあふれていてクラスでは意外と人気がある見たいで、背の高いカッコイイ系女子、特にバスケ部の生徒に頭をなでられたり抱きしめられたりしている。人形みたいな抱き心地が癖になるのだそうだ。

 彼女は主にマウンテンバイクに乗っていて、自転車の整備が上手い。それもあって、今年の大会なんかはメカニックとして活躍している。

 ブレーキのワイヤー類の調整なんかでは、私も何回か見てもらっている。


『何の用よ?』

『スポーツ誌の記者さんが取材に来たんだって』

『行かない』


 ロードバイク専門誌の記者たちだ。練習に支障があるからと何度も断っているのにまた来たのか。この前なんか、校門の近くで待ち伏せされていて、下校するところを狙われた。さすがに学校の先生を通して抗議したが、先生たちは学校が有名になることをあてにしているのか、効果がいまだに現れない。


『適当にあしらっておいて。奴らのせいで、登下校はママチャリで来ないといけなくなったんだから』


 自宅から学校までの道のりは約13キロ強。

 学校が明けてからら今日まで、マスクで顔を隠した状態で、しかもママチャリで往復するように。ロードバイクだとすぐに発見されるし、マスクで顔を隠さないと一発でバレるし、そうなると朝のホームルームのギリギリまで付きまとわられる。

 何回か学校の先生に止めさせるように抗議したが、まったく改善されない。

 体力的には大丈夫だけど、マスクをした状態だと蒸れて気持ちが悪い。それに、これがしばらく続くと思うと気が重い。

 いろんな面でダメージを負わされているのに、なんで取材なんかに応じないといけないのか。


『でも、部活の練習は?』

『それも行かない』

『また荒川で一人で練習するの? 最近、ずっと練習に来ないからみんな心配してるよ』

『別にいいじゃない。私がいなくても』

『良くないよ。同じ部活の仲間なんだから』


 仲間、ね……。今年のインターハイでは、チームメイトは全員先にバテて役に立たなかった。完走したのは殆ど自力だ。

 仲間じゃなくて、足手まといの間違いだろう。


『心配してくれてありがとう。でも、遅い連中と走っていても私にとって何のメリットもないわ。練習には気が向いたら参加するから、先生や皆にはそう言っといて』


 それだけお願いした私はペダルを思いっきり踏み込んで、勢いをつけて駐輪場を飛び出した。

 大急ぎで帰宅した後、学校かばんを部屋のベッドに放り投げ、レースウェアに着替えてヘルメットを被り、玄関を出て横にあるガレージに停めてあるロードバイクにまたがって荒川に向かった。

 新荒川大橋の近くに着いた頃には、空は秋の茜色に染まっていた。

 土手の上から見下ろす荒川沿いに整備された管理道路は、この時間帯は多くの人が行き交っている。野球の練習帰りの集団、他校の学生、自転車通勤のサラリーマンなどなど。今日は金曜日だけあって普段よりも多い。

 本日の自主練習のメニューはタイムアタック。コースは普段通り、河口付近まで行って葛西橋を渡って反対側に回って帰ってくる、という単純なものだ。

 最高記録は1時間12分36秒。

 目標は、距離にして40km強ある自分が設定したコースを1時間以内に戻ってくること。

 下校の道のりで、体も心も十分に温まっている。


『それじゃあ、今日も行きますか』


 カチッと靴底のツメをペダルにはめ込んで、近くの坂から一気に下って管理道路に入る。

 バイク侵入防止用の柵は開かれていて、時速40㎞オーバーの加速を殺さずに通り抜けられる。

 ここを走っている時が一番好きだ。ただただペダルを回して加速しているときは何も考えないで良いから。そして、終わったころには、自分を縛る目に見えない何かを振り切れたような気がする。

 鹿浜橋をくぐった先にある坂。入る直前まで加速して、上り始めでギアを三つ一気に落とす。上りのスピードダウンを最低限に抑えて、上りきったところでギアを上げて加速し、水門の橋を過ぎたところの坂をギアを最大にして一気に下る。

 そして、しばらくは平たんな道が続く。

 坂だけでなく、S字コーナーの立ち上がりが自分の理想通りに上手くいく。弱い向かい風なのに、心なしかいつも以上にスピードが乗っている気がする。


『もっと行ける!』


 道ゆく人、ママチャリの集団、そして同じ方向へと走るロードレーサーまでも。すれ違うもの全てが止まっているかの様に感じる。

 インターハイの時と同じだ。

 頭で何も考えてもいないのに、心が熱い何かで満たされ、高鳴るハートがパワーを生み出す。それが全身を一瞬で回り、ペダルを踏みクランクを回すたびに車体が加速する。


 ──この日、目標の一時間は切れなかったが、タイムを2分縮めることができた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る