忘れられた冬
悠理。
忘れられた冬
大好きな人がいたような気がする。
目の前を走る車のナンバープレートを見ても、向かいにある店の看板を見ても、それは全くわからない。
でも昔、とても昔に大好きだった人がいたような気がする。
気が付いたのは小学校高学年くらいの頃。生まれて初めて告白をされたとき。
その子に対してそういう感情はなかったけれど、なぜか私はその時に「好きな人がいる」と告げたのだ。
思ってもいないことを口にしたとその時は思った。しかし、人は自分の考えられる範囲の事しか口に出すことはできない。
ならば一体どういうことだろう。そう思ったのは次の日くらいだっただろうか。
そして今目の前にまた一人、失恋するであろう男が立っていた。
数年前、寒い寒い夏の冷房が効いた社内で初めて彼と出会った。
自己紹介を済まし、部下となる彼に名刺を交換する。そして渡された名刺を見ると、どこか見覚えのある名前だった。
「杉浦・・・みちる・・・」
気が付けば私は口に出して読んでいた。
「ちょっと女性みたいな名前ですよね。でも、割と気に入ってるんです」
爽やかな笑顔は、見覚えのないものだった。
そしてその日、小さな歓迎会が執り行われた。
主役は二人。杉浦君と、新しい事務の女性。
勿論人気だったのは事務の女性で、杉浦君は私の隣で静かに飲んでいた。たまには話しかけられることもあったが、少人数ということもあってかそれほどではないようだった。
ぼーっと飲んでいる彼に私は話かける。
「杉浦君、あそこに入らなくていいの?人気者になるチャンスなのに」
「いいんです。僕は飲み会とか、そういうの苦手ですから…。先輩も静かに飲んでいたいタイプですか?」
グラスをゆっくりと置き、にへらと笑う。少し懐かしい感じがした。
「私はこういう会に参加するほうが珍しいからね。お酒は好きだけど、ゆったり飲むのがいいかな」
多分、私のことだから無表情に話しているのだろう。顔が怖いとよく言われる。
しかし彼は笑顔を崩すことなく話を続けた。
「ちょっとほっとしました。そういう方がいるといいですね」
翌日はよく晴れた日だった。誰かが引っ越してきたのか、外が騒がしい。
確か今日は土曜日だった気がする。
特に何もすることもなく今日も終わるのだろう。いつもそうだ。
窓すら開けずに、カーテンすら開けずに、そしてもちろん玄関もあけずに引きこもりを貫く。
そもそも来客など大してないのだ。友人とも縁が切れ、そして親すらも連絡をしてこなくなった。
朝起きれば会社に行き、夜になれば自宅で眠る。休日は何もせず、たまにコンビニに行くくらいの楽しみも何もない生活。
生きているとは程遠いだろうか。
私にとっては最低限生きているつもりだし、何よりも生きるだけのことに楽しみがあるかないかなど関係ない。
もしも神様がこの世界を作ったとして、そういう仕組みにしたのは私にとって幸いである。
外がどんどんと騒がしくなる。どうやら私の部屋の直ぐ下にお引越しのようだ。
大きなあくびをしながらキッチンに向かい、コップに水を汲む。すると、階段を駆け上がる音と共に玄関の呼び鈴が鳴った。
私はため息を一つ吐くと、玄関の扉に手をかける。安いアパートのうちにカメラ付きの何たらは無い。
無言で扉を開けると、そこには見知った顔があった。
「あれ…?」
見つめあう男女二人。そこに恋心など無い。
私が黙って開いた扉を閉めようとすると、慌てた様子で制止される。
「こ、この下に引っ越してきました杉浦といいます!よろしくお願いします!」
早口でそういうと、困ったようにこちらを見る。
「いや、知ってるけど・・・」
「ですよね・・・。先輩ってもっときちんとしてる人だと思ったので、ちょっと照れました…」
笑顔でそういうと自分が何を言っているのか気付いたのか、顔を赤くして帰っていった。
天然・・・なのだろうか。
短パンにダボダボのシャツで出迎えた私も悪いが、この程度で照れるというのもどうだろう。
その日の夕方に降った雨は何だか切なく感じた。
分かってはいたものの、どうしても杉浦と名乗る彼が気になる。
「・・・どこで見たんだろう。」
覚えがあるのに、何も思い出せない。今までもあったことなのに、何故かモヤモヤが収まらなかった。
私は急激に死にたくなるのを抑えつけ、薬を飲んで眠った。
日曜日の事は何一つ覚えていない。
気がつけば月曜日だった。
仕事に行こうという気が全く起きない。だからと言ってそれ以外に何がしたいというわけでもなかった。
体を起こしケータイを覗くと、2件の着信があった。…上司からだ。
出なかったからと言ってどうというわけでもないが、昨日の着信を今日のしかも朝早くに返すのもどうかと思ったので無視する。
立ち上がろうとすると、目が眩んだ。
「・・・またか」
最近は多い。ストレスか何かだろうか。どちらにせよどうでもいいことだ。
洗面所で顔を洗い、頭を上げるとまた眩んだ。今日は調子が悪い。
どうしてこうなってしまったのかは全く分からない。何故過去の記憶の一部が抜けているのかも、たまに日付が飛んでしまうことも、日に日に立ち眩みが多くなっていることも。私にはどうでもいいことだ。
朝食は取らずに着替えを済ませ、家を出た。
階段を降りると丁度家を出たばかりの杉浦君がいた。気付かれないように早足で進もうとするが、また目が眩んでしまった。私はバタリと音を立てて倒れる。
「先輩!?」
流石にこれはよくない。
駆け寄ってくる杉浦君の存在を認識しつつも、私は体を動かすことができなかった。
「先輩大丈夫ですか?僕が分かりますか?」
膝をつき、私の頭をのせる。あぁ、それではスーツが汚れてしまう。
「大丈夫。よくあるんだ。ありがとう。」
口は動くらしい。
「大丈夫なわけないじゃないですか!救急車呼びますからね!」
杉浦君は焦りながら自分のかばんを漁り、ケータイで電話をかけようとする。私は体の細部まで重いものの、できる限り急いで口を動かした。
「そこまでじゃないから。とりあえず、私の部屋に連れて行ってもらってもいいかな。その後はほっといてもらってもいいから。」
ケータイから私に視線を移し、杉浦君は怒った顔をする。何故かすごく懐かしく感じた。
「わかりました、とりあえず部屋まで行きましょう。立てそうですか?」
「ちょっと手を貸してもらってもいいかな?」
私がそう言うと杉浦君は私を背負う。先程から感じる懐かしさは何だろう。
「そ、そこまでじゃないからいいのに・・・でもありがとう、助かるよ。」
杉浦君の表情は全く見えないが、きっと不安そうな顔をしているのだろう。入社した会社の教育係が自分の目の前で倒れたのだ。仕方がない。
意識も少しはっきりしてきた気がするし、今日は会社は休みだろうけど明日は問題ないだろう。
「先輩」
杉浦君が少し悲し気に言う。
「いいですか、ここは先輩の部屋ですけど、今日僕は上がり込んで看病させてもらいますし、場合によっては病院にも連れていきますからね」
私の部屋につき、杉浦君は敷きっぱなしの布団に私を寝かせる。
「会社には連絡しておきますから、先輩は少し休んでください。さっき言ってた薬ってどこですか?」
心配そうな目で私に問いかける。やはり、杉浦君には何か違和感を感じた。
「そこのチャンネルが入った入れ物にある。お水は水道水でいいから持ってきてもらってもいい?」
それを聞き、手早く私のところに薬と水を持ってくる。
「では外で電話してきますからここで安静にしててくださいね。あと、スポーツドリンクが家にあるので持ってきます」
この感じる懐かしさが何なのかは、後に知ることになる。
でもその頃はまだ違和感としか思えていなかった。
十分くらいして杉浦君が戻ってくる。
「そんなに急がなくても、会社も私も逃げないよ。薬だって飲んだからしばらくすればよくな・・・」
ビニールの袋を持ったまま杉浦君は玄関に立ち尽くしている。
その瞳は確かに潤んでいた。
「杉浦君、どうし・・・」
「すぐに飲み物用意しますね。あと、この部屋暑かったりしませんか?良ければその扇風機付けますけど」
まるでその涙を隠すかのように捲し立てる。
慌てて靴を脱いでコップに飲み物を注ぐ杉浦君を見て、何故か少し切なくなった。
外を見ると青々とした木の葉が揺れている。そよ風が入り込むこの部屋はまるでいつも自分がいる場所とは思えなかった。
遠くの木に鳥が止まっているのを見ると、切なさが少し和らぐ。
「お待たせしました、先輩。扇風機どうしますか?」
「ありがとう。外からの風で十分だよ。今日はこんなにいい天気だったんだね」
杉浦君の手からコップを受け取り、一口飲む。
私はそれをお盆の上に置くと、隣に座る杉浦君の頭をぽんぽんと叩く。
自分でもびっくりした。私が自身こんなことをする人間だと思っていなかったから。
「ありがとう。もう大丈夫だから仕事行っていいよ。帰りに一応うちに寄ってもらってもいいかな?」
杉浦君は少し俯くと、苦笑いをした。
「今日は僕も休みをもらったので大丈夫です。指導係の先輩が休みっていうのもあってか、簡単に休ませていただけましたよ」
「そうだったんだね・・・ごめん。研修期間終わってるから有休あると思うけど、まだそんなに日数ないよね・・・」
杉浦君の方に顔を向けるとまた涙ぐんでいた。
目が合うと、ゆっくりと瞳を閉じる。そして口を開いた。
「先輩は覚えてないかもしれませんが、僕、昔先輩と家が隣だったんですよ」
少しだけ開いた瞳はとても切なげだ。
「事故にあって記憶障害になって引っ越したって当時聞いて、ショックだったんです。仲が良かったと自分では思っていたので」
こちらに顔を向け、笑顔でそういう。なつかしさの理由はそこにあったのかもしれない。
確かに私は子供の頃事故にあい、記憶を一部無くしていた。
「今こうして出会えてうれしさ半分、ボロボロの体を見て心配半分なんですからね」
杉浦君はとても表情豊かだ。私とは正反対と言ってもいいかもしれない。
「僕はいつも先輩の後を追いかけて追いかけて、そして憧れていたんです」
杉浦君は笑顔で話を続ける。
「小さい頃の話なので本当かどうか怪しいですが、でもその後もずっと忘れられずにいたんです。気持ち悪いでしょう?」
苦笑いをしながら私を見る。
「そんなこと思わないよ。むしろ忘れていた自分に憤りを覚えるかな。」
私はできる限り笑顔を作った。それでも笑えてはないだろう。杉浦君に気持ちが引っ張られる。
「なんとなくね、懐かしい感じはしていたんだ。でも、正体が分からずにずっと放置していたの」
私はこぶしを握り締める。切り忘れていた前髪が目に刺さると、私はそれを耳にかけた。
「私ね、告白とかそういう雰囲気になる度ずっと何かが引っ掛かってて恋愛どころじゃなかったの。でもこれですっきりした」
できる限りの笑顔で答える。杉浦君は目を丸くしていた。
「それって・・・もしかして、先輩も・・・?」
じわじわと涙が溢れてくる。
「そうだね、多分そうなんだと思う。だって私、こんなにうれしい」
大好きな人がいたような気がする。
目の前を走る車のナンバープレートを見ても、向かいにある店の看板を見ても、それは全くわからない。
もしかしたらそれは、記憶障害のせいかもしれない。
でも昔、好きだった彼とこうして奇跡的に出会えた。
恋愛ができないと気が付いたのは小学校高学年くらいの頃。生まれて初めて告白をされたとき。
他人に対してそういう感情はなかったけれど、なぜか私はその時に「好きな人がいる」と告げたのだ。
思ってもいないことを口にしたとその時は思った。しかし、人は自分の考えられる範囲の事しか口に出すことはできない。
ならば一体どういうことだろう。そう思ったのは次の日くらいだっただろうか。
しかし今ならわかる。それがどうしてだったのか。
忘れられた冬 悠理。 @yurimusic4
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