第5話 実感なんて、欲しくなかった

 休日の昼過ぎ。

 歩き始めてから、小一時間は経過していた。

 スーパーやコンビニは通常営業。歩く度にちらほらと家族連れを見かけ、周囲に幸せを振り撒いている。私服姿の学生達も、青春を謳歌している真っ最中のようだった。

 そしてそれは、いくら歩き続けても変わることは無い。


「……まあ、そうだよな。たかが一組の、それも学生カップルが別れただけだし」


 この程度のことで世界が改変されるのなら、とうの昔に世界は滅んでいる。

 いや、そもそもだ。悩み事を真剣に考え込んでる自分が一番バカだったのではないか、とまで思わされてしまう。

 ……もっと楽観的に考えるべきだよな。

 そう考えると、少しだけ、肩の荷が下りたような気がした。


「アイスでも買って、帰るとするか」


 今日は特別、と言い聞かせて俺はアイス屋へ向かう。

 距離もあるし、価格も少し高め。

 けれども、今の俺にはそれくらいがピッタリだ。

 ルンルンと気持ちをはやらせて、店の自動ドアをくぐる。

 が、しかし、その直後だった。俺の心臓が止まりそうになったのは。


「カ、カノン……?」


 視界の中心に見知った顔が映った。

 もちろん店員じゃない。客として、私服姿の彼女も店にいたのだ。それも――


「カノンちゃん、どれ食べたいん? 今回は奢ってやるよ」


「おお! まぢか! 流石、私の彼氏」


 男だった。金髪で耳にはピアス。体格なんて比べるまでもなく、俺に勝っていた。

 正反対だ。何から何まで、俺とは正反対。

 尋ねたい事はたくさんあった。この一週間、ずっと考えていたこともある。

 でも俺は、この状況を知ったうえで、一体何を尋ねればいいのか。

 ここにいる理由か? いやいや、まずは挨拶だろうか。それとも――

 

――俺と付き合っていた当時から、浮気をしていた可能性か。


 しかし、それを聞いたところで、今の彼氏からボコボコにされるのは俺だ。

 深く考えを広げていく度に、心がズキズキと痛み始めて止まらない。


――苦しい。


 ついさっき、楽観的に考えようと決めたばかりのはずなのに……‼

 どうやっても俺は、その二人の様子から目を逸らすことが出来なかった。

 すると、彼女と目が合う。合ってしまった。

 またも心臓はビクリと跳ね上がり、汗が噴き出す。

 手のひらや額からはジワジワと。背筋では汗の雫が伝っている。

 終いには呼吸も徐々に荒くなり、カノンの彼氏が俺の方へと寄ってきた。


「あのー、大丈夫っすか?」


 野太くて、いくら寄りかかっても折れそうにない声。

 やっぱり、俺とは正反対じゃないか……っ。

 拳には力が入り、彼の顔を直視できない。

 劣等感か。それとも、強い敗北感か。

 きっと今、俺は失礼な事をしている。向こうは心配しているだけなのに。

 だけれども、どうやったって返す言葉を紡げなかった。


「ん? あれー、ダイチじゃん。久しぶりー」


 唐突だった。まさか話しかけてくるなんて。

 俺は反射的に顔を上げたが、すぐに目を逸らしてしまう。咄嗟だったので、顔には急繕いの笑みだけだ。


「や、やあ……。久しぶり……」


 こんな定型文のような挨拶が、今できる俺の限界だった。

 密かに俺は、奥歯を噛む。


「何? カノンちゃんの知り合い?」


「そうそう」


 言って、彼女が次に発した一言は、俺に、たった一つの事実を悟らせた。

 今ままで情報でしかなかった、あの事実を――


「私達、同じ高校のクラスメイトなの」


「……あ」

 これが――『別れ』だったんだ。


 体が熱くて。空気が不味くて。聞こえる音全てが雑音に変わって。心の中にいる彼女さえも、離れて行ってしまうようで。

 だから……、だから。


 とても――寂しかったんだ。

 

「……あ、あれ?」

 何故か頬には水が伝っていた。目尻も熱い。

 声は掠れて、上手く発声できない。

 徐々に全身も震え始め、気づけば俺は店を飛び出していた。

 それから走って。走って。走って。ずっと、止まらず走って――

 目的はない。目的地だってあるわけない。

 でも……だとしても、走らずにはいられなかったんだ。

 どこへでもいい。どこへだっていいから、こんな気持ちを捨てられる場所へ――

 俺はその日、真夜中になるまで家に帰らなかった。

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