第10話 誠実
アレクシアさんはそう言いながら妖艶に微笑み、フレアスカートの前をそっとたくし上げる。
長いスカートでも、するすると上げていくと徐々に日本人ではありえないほどに白いふくらはぎが、肉付きの良くセクシーな魅力にあふれた太腿が、露わになる。
彼女の前に立っているのは僕しかいないし、その後ろには古びた家と道場で陰になっているから僕にしか彼女の痴態は見えていない。
そう分析をして現実逃避をしている間にも、彼女はさらにスカートをたくし上げていった。
下着の色がわずかに見える。陰になってよくわからないが、色はピンクか。
女子の下着を生で見たことに対する、全身が沸騰するような強い興奮と同時に。自分自身に対する嫌悪感が激しく押し寄せてきて、僕は固く目をつむった。
暗闇になった世界で、安堵するようなため息が聞こえた。
同時に布が舞い落ちるような音がかすかな海風の音に混じる。
目を開けると、アレクシアさんがスカートから手を放していた。
「ほら、誠実でしょウ? ワタシに襲い掛かってもおかしくないのニ、非道を働かなかっタ」
彼女の少し上ずった声が聞こえる。息が荒い。
そして常に堂々と振舞う彼女が、初めて会話する相手と視線を逸らしていた。
「でもこれは、随分と恥ずかしいですネ。ヤーパンのアニメでこういうシーンを見たことがあるので、試してみたのですガ」
いつもクラスメイトから囲まれて、別世界の人のようなオーラを持っていた彼女が年相応に照れている。
「まア」
彼女の声の調子がいたずらっ子のようなものに変わる。
薄暮の中、年相応の笑顔を浮かべた金髪碧眼の女子がそこにいる。
「誠実というより、『ヘタレ』なだけですネ。ワタシに欲情した視線を向けつつも一瞬だけで、すぐに目をそらしましたシ。ヘタレの典型的な反応でス」
やっぱり彼女は人生経験豊富だ。
でもいいようにからかわれたのが悔しくて、悪態が口をつく。
「海外の人は進んでるって、本当なんだね」
僕は少し皮肉交じりにそう言った。
ほとんど交流のなかった僕に下着を見せようとしたくらいだ。その先の行為もきっと「経験豊富」なのだろう。
でもそれを聞いたアレクシアさんは、眉根を寄せ、初めて怒りの表情をあらわにした。
「失礼ですネ…… あんなことをしたのはアナタが初めてですヨ。ワタシがそんなに安い女に見えましたカ」
彼女と目を合わせる。嘘を言っているようには見えない。
彼女の気分を害したことを、素直に謝っておく。
アレクシアさんは軽く咳払いして、口調を切り替えた。
「冗談はこのくらいにしテ。あなたの家にお世話になる以上、お金はお支払いしまス。家賃と柳生流の教授料込みで二十万ユーロほど」
二十万ユーロ。日本円で言うと二千万円くらいか。
現実を理解するために思考の海に意識を静める。
教授料。教えを乞うために払うお金のことだ。
古流が活発だった戦国時代、闘争術である古流は命を守るための手段だった。
命を守るにふさわしい値段で、人はより優れた手段を探し求めた。
柳生は一万石以上で徳川家に召し抱えられたし、古流の一つ、大東流柔術の師範は教授料でいくつも山を買ったという。今のお金で言うと数十億円以上の大金を、古流を教えるだけで手に入れたことになる。
そうなればこれくらいのお金は、妥当なのだろう。いや、きっとそうだ。
現在でも、古流や中国拳法では数時間の講習会で一人数万円を徴収する。
思考の海から舞い戻ってきたとき、僕の答えは決まっていた。
「アレクシアさん。君みたいな熱心な子が来てくれて嬉しい。入門を歓迎するよ」
僕は一切の嘘偽りのない言の葉を口にし、柔らかい笑顔を浮かべ、彼女に手を差し出す。
異国の地からはるばるやってきた子の願いを聞き入れないなんて、人として恥ずべきことだ。
決して金に目がくらんで判断を変えたわけじゃない。
祖先代々受け継ぐ道場を残すために、必要なことだ。
自分の提案が受け入れられたアレクシアは、にこやかな笑みを崩さずに人差し指を一本立てた。
「でも、お支払いするにはもう一つ条件がありまス。あなたに、聖演武祭に参加して北辰一刀流に勝利、優勝していただくことでス」
「どういうこと?」
出場できないのはわかっているけど、聞かずにはいられなかった。
「まず一つ。聖演武祭にすら出場しない流派の剣を習っても、本国でバカにされるでしょウ。それに、あなたの実戦を見てみたいからでス。戦場で使うための剣が、数百年の時を経てどう扱われるカ。動画で類似したものはいくらでも見られますガ、やはり生で見たイ」
聖演武祭に出場する。
剣道のルールでは使えない技を、思う存分使って柳生流の実力を世に知らしめる。
そして日本でもっとも有名な北辰一刀流に勝つ。
ずっと夢見てきたことだ。でも。
「でも、僕が出場なんて無理だよ。聖演武祭の出場には武道や格闘技の大会で好成績を残すか、大会組織員会に所属する人の推薦が必要になるんだ。僕にはそのどちらもない」
沈んだ僕の声音に、彼女はいつもと変わらない明るい様子で答えた。
「ご心配なク。ウチのシーメンス社が出資しているのをお忘れですカ? ワタシから父に頼んで推薦を出してもらえばいいだけでス」
「そんなことが、できるの?」
「というよリ、すでに手続きは済ませていまス。あなたが了承すると確信していましたのデ。近日中に大会参加の案内メールが届くと思いまス」
アレクシアの表情は自信に満ちている、という感じではなかった。
ただ当たり前のことを行ったという感じで、普段の表情とあまり変わらない。
でもその当たり前の表情こそが。降ってわいたような幸運が現実だと、僕の心に何よりも雄弁に刻み付ける。
じわじわと胸の奥に喜びがこみあげて、それが一気に全身に広がって。僕は拳を突き上げて叫んでいた。
宵闇の空に、潮の香る海の近く独特の空気に、僕の声が吸い込まれる。
引っ越しのトラックから荷物を運び出している人たちが僕の方を怪訝な目で見つめていたけど、何も気にならない。
今はただ嬉しい。一度はあきらめた夢が、こんなことで実現するなんて。
「喜んでいただけたようで、何よりでス」
アレクシアさんが目を細め、柔らかく口元を緩ませながら僕を見ていた。
耳を澄ませると、潮の混じった風の音と、遠くの砂浜に寄せては返す波の音がかすかに聞こえる。
白い波浪が立ち、少し荒れていた海の音が今は優しく僕を包み込んでいた。
でも次の瞬間、自転車のブレーキ音がけたたましく鳴り響く。
「ちょっと! アレクシアさん! どういうこと!」
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