第19話
『探偵』なるもの?
尾行実習の途中、倉科は名古屋駅近くカフェーに入り、喉を潤した。カウンターに腰かけ、タバコを吹かしながら大林の件を考えた。
(アリバイが完全じゃないのかぁ…。里香とは男女の関係、部屋には大林の荷物が残されていた…。こりゃ滅茶苦茶に容疑が濃いんじゃないか? 警察は大林の地位や人間関係からあまり疑っていないようだけど……)
勿論、倉科は友人として、大林の無実を証明する手伝いをするつもりでいる。通常、探偵は民事事件の裁判資料を収集するのが主で、刑事事件に関係することは殆ど縁がない。
例え、刑事被告人から無罪の証拠を集めて欲しいとの依頼があったとしても、検察・警察と言う国家権力が収集した有罪証拠を凌駕する反対証拠を発見することなど限りなく不可能に近い。
理想を言えば、訴追された被告人に有利な証拠を探し出して、弁護士と協同して無罪を勝ち取るような活動をする探偵が望ましいのではあるが…。このようなことは、日本では全く考えも及ばないことであり、アメリカのように訴追側と被訴追側の権限が比較的平等な国でも稀である。
事実、その数少ない事例の中で、衆目に値するのがO・Jシンプソン事件(1994年)である。有名な黒人フットボール選手であるO・Jシンプソンが前妻とその友人を殺害したとして起訴され、訴追側の物証、本人の供述から有罪は確実視されたが、探偵が収集した証拠により無罪を勝ち取った。
探偵が集めた証拠は捜査官の人種差別的言動と人種的偏見による取り調べの事実だった。もっとも、陪審制度や人種問題が絡んでおり、そのまま日本に当て嵌めるのは難しいであろうが…。
倉科はタバコの火が灰皿で燃え尽きるのをぼんやり眺めながら、『探偵』なる者について考えを巡らせていた。
(探偵業法はできたけれど、裁判制度とか探偵の能力とか、いろいろあるものなぁ…。社会的認知度も低いし、いつまでたっても裏稼業的イメージが抜けないなぁ……)
大林のアリバイ捜しを考えていた倉科は、日米探偵比較から探偵業の将来にまで思いが進んでしまった。
「いずれにしても東京へ戻ってからだな」
倉科は自分に言い聞かせるように独り言を声に出した。
尾行実習が終わり教室に戻った。探偵志望者達は、ぐったりと椅子にもたれかかり、中にはよほど疲れたのか机に突っ伏す者もいる。彼等はわずか3時間程度の尾行でもどれだけ体力と神経をすり減らすか、実感できただろう。
倉科は「失尾」せず「発覚」せず、を念頭において尾行することがいかに大変で有るかを力説し、受講生達が犯した失敗の数々をあげつらった。彼等は尾行技術の稚拙さを実感し、参りました、と全面降伏のような風情で倉科の言葉に耳を傾けている。
敏腕弁護士竹橋
その夜、倉科は名古屋市内で弁護士を開業している友人の竹橋登と久々に飲んだ。栄の超一流クラブ「ゼロワン」。ここは、中京地方を支配している政・財・官のお歴々の社交場だ。
案内されたテーブルに腰を降ろして、見渡せば、周囲は人品卑しからぬ紳士の方々が、選りすぐられたホステス達と談笑している。
倉科と竹橋の交友は、かれこれ二十年以上だ。竹橋は学年も年齢も一年先輩だが、なぜか気が合った。共に大学卒業後も3、4年程、司法試験の勉強に明け暮れた。竹橋は合格して弁護士になり、受からなかった倉科は紆余曲折した道を歩んで探偵になった。
弁護士となった竹橋に引け目と嫉妬を感じた倉科は、あんなに親しかったにも拘わらず年賀状などの時候の挨拶以外、長い間、連絡を取らなかった。倉科がようやく探偵・調査業で生きる決心をした頃から、二人の友情が戻ってきた。
その頃、すでに竹橋は名古屋高等裁判所管内では有能な弁護士との定評を得ており、さらに日弁連(日本弁護士連合会)の有力委員会における主要メンバーでもあった。
倉科は、こうやって竹橋と会っていると、長い間、自己の挫折感から逃れられず、ことさらに竹橋を敵愾心の的としていた自分が今更ながら恥ずかしい。
「調子はどうだい?」
ホステスも交え4人で乾杯の後、竹橋がグラス片手に尋ねた。若い頃から小柄で、小太りの「とっちゃんぼうや」風の容貌だったが、中年太りも加わってまるでダルマのようになっている。
「あまり景気に影響されないのが探偵でね。今、面白い案件に出合っているんだ。殺人事件の関係者が、自分のアリバイを捜して欲しいって依頼なんだ」
倉科はタバコを取り出しながら答えた。隣に付いた女の子が慌ててライターを倉科の前に差し出し、火を点けた。
「へーっ。探偵はそんなことまでやるんだ?」
竹橋が驚いたように倉科の顔を見た。
「竹橋先生、こちらの方、探偵さんなの?」
竹橋に付いたホステスが、興味津津の面持ちで倉科の顔をみた。
「おう、東京から来た名探偵だぞ。君のことを調べてもらおうかな?」
ホステスの頬を指先で突きながら竹橋がからかっている。
「いやぁだ、私、何も悪いことなんかしてないもん」
竹橋に身体を預けながら、わざとぞんざいな言葉で甘えるように答えた。ニコニコしている竹橋を見て、倉科の観察眼からすると二人は相当親密な関係にあると思えた。
(いかん、いかん。どうでもいいことだ)
倉科は職業病とでもいえる自己の観察癖に苦笑した。
ホステス達とのどうでもいい会話がひと段落すると、二人の話題は、政治経済から法律問題までに及んだ。たまに会うといつも学生時代に戻ってしまい青臭い書生論義が続いてしまう。中年過ぎのオヤジになっているにも拘らず。ホステス達は、手持無沙汰で退屈そうにしている。
「ところで倉科、お前が何年か前に付き合っていた音大生とはどうなったの? バイオリンの女の子」
突如、竹橋が綾乃の話題を振ってきた。えっ!? どうして綾乃の話がでてくるの? 倉科は面食らってしまった。思い起こしてみると、以前、竹橋が東京へ裁判の仕事で来た時、綾乃を紹介したことがあった。俺だって、こんな若いガールフレンドがいるんだぜ、と自慢するために。
「随分昔のことだなぁ。武士の情け、物語の顛末は平にご容赦」
倉科は少しおどけたようにして答えを濁した。
「確か、同じ音大の卒業生だと思うんだが…。年も同じ位で、バイオリンをやっていたそうだ。四重奏とか何とか言っていたなぁ…。お前のガールフレンドと知り合いじゃないかと思ってね。二か月ほど前に交通事故で亡くなったんだ」
竹橋は何かを思い出すような表情でタバコを取り出した。やっと出番の来たホステスが素早くライターを差し出した。
「その女の子の名前、鈴木正恵じゃないだろうね?」
竹橋が目をむいた。
「何だ、お前、知っているのか?」
「お前も会ったことがあるだろう? 俺のガールフレンドだった綾乃の親友だよ。あと残り二人と四重奏で活動しているとの話だ。何年も前のことだがね。今はネット上の噂でしか知らないよ」
倉科は、興味無さそうに、スマート・フォンで彼女達四人の画像を捜し出し、
「これだよ」
と、竹橋に示した。
しかし、何故、竹橋の口から鈴木正恵の名前が出るのだろうかと、訝しがった。
竹橋は倉科の疑問を敏感に感じ取り、経緯を説明した。
「彼女の父親が経営している会社の社外取締役に就いているんでね。中京地方では上位ランクの売り上げがある会社だよ」
「ふーん。何か訴訟にでもなっているのか?」
倉科は、こう尋ねながらも、弁護士が話すのだから当然、鈴木正恵の交通事故が裁判沙汰になっているのだと思った。
竹橋は顔を曇らせながら、倉科のほうへ身を乗り出して、
「事故なんか起こすはずが無い、とオヤジさんが断言するんだよ。バイオリン以外はドライブが唯一の趣味で、全国走破したことも、ラリー大会でも上位に入賞しているってね」
「F1レーサーだって事故を起こすだろ? 考えすぎじゃないの? 娘の死を受け入れられない親心は理解できるけどさ」
倉科があまり興味無さそうに答えたが、竹橋は続けた。
「同乗者の証言もあって、警察は単なる運転操作ミスによる事故だと断定している訳だがね。父親はどうも納得しなくて、民間の交通事故鑑定人にまで依頼して調べたらしい」
「へーっ、本格的だね、何か確証でもあったのかなぁ?」
交通事故鑑定人と聞いて倉科も身を乗り出した。
二人の会話に取り残されたホステス達が所在なさげにしているのに気付いた竹橋が、
「君達、何か飲みなさい。何でもいいよ」
と、同席している彼女達に促した。
竹橋に付いているホステスが、勢いよく右手を上げて、ボーイを呼び、飲み物をオーダーしている。
「私、レッド・アイ」
「私は、カシス」
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