第10話
大林健吾が容疑者?
大林の自宅兼オフィスは、最上階に近い部分にあり、広さは80㎡程度。3LDKを改装して、仕事場と寝室にしている。
目黒川に面したオフィスには、通常の倍近い広さのデスクが設置されており、その材質は最高級のチーク材。赤みを帯びた木目が光を浴びて輝いている。
32インチの幅広い液晶モニターとノートパソコンがデスクに鎮座している。周囲には几帳面に積み重ねられた書類の山ができていた。
椅子は高級感の漂う黒の総レザー張り、背もたれは大きく厚みがあり、身体を預けると、スッポリと全身が沈み込む。
窓を除いた壁全面はユニット式の本棚になっていて、マーケッティングの理論、実戦に関する内外の文献が寸分の乱れもなくぎっしりと詰まっている。
大林は深々と椅子に腰をおろし、背もたれに身体を埋めて、電話に対応している。
「彼女とは一週間ほど前に会ったきりですが…。どうかしたのですか?」
電話の相手は埼玉県警の山本と名乗った。三村里香と最後に会ったのはいつかと聞いている。礼儀を知らない、ぞんざいな言葉遣いで、大林の所有物が里香の部屋に有ったことを告げていた。
「アンタの物が三村里香さんの部屋に有ったんだよ。パンツやらいろいろとね。同棲みたいなことをしていたんだろう?」
有無を言わさない荒々しいトーン。容疑者から事情を訊き出すにはこの手法が一番だと心得ているらしい。お上に逆らうな、尋常に申し述べよ、と言う昔ながらの権威主義体質が見え見えだ。民主警察となって久しいが、まだ一部には、このような百害あって一利なしの悪習が残っており、科学よりも権威、論理より感情が支配する前世紀の遺物的な刑事がいることも事実である。
一般市民を愚弄したような馬鹿の一つ覚え的捜査方法。これで複雑に絡まった事件を解きほぐすのは、蟷螂の斧に等しいことは誰の目にも明らかだ。市民の反発を買っては、何の情報も得られず、また市民の協力なくして解決する事件などないのだから。これらの愚かな行為がどれほど犯罪捜査に悪影響を与えるか……。重大なことである。
大林は、脳みそが筋肉で形成されているような刑事の暴言に気色ばんだ。
「埼玉県警のどちらの部門の方ですか? 警備本部の常岡先輩とは大学で同じサークルだったので、今でも懇意にしてもらっているんですがねぇ…」
大林は、分厚い名刺ホルダーを繰って、「つ」のブロックから常岡芳郎の名刺を取り出して反撃に出た。常岡の階級は警視となっている。恐らく学習能力のない脳みそ筋肉刑事にとって警視殿は雲の上の存在であろう。
ハッと息を飲む音が電話でも聞こえた。権威馬鹿には、権威が一番効果的。
「私に関して、何か疑いがあるのですか?」
「いやぁー。常岡警視のお知り合いでしたか。実は、三村里香さんが、殺人事件の被害者だったもので、彼女の部屋を調べましたらね…」
と、バツの悪そうな様子で説明が続いた。
今度は大林が絶句し、声にならない叫びが出た。
「えっ、ええーーっ!!」
脳筋刑事は、理性と教養には欠けるが、犯罪や容疑者に対する動物的なカンは優れている。大林が発した声の調子から「シロ」だなとの心証を抱いた。
「いつのことですか?」
大林は落ち着きを取り戻して尋ねた。
「三日前の六月二十日の早朝です。正確には十九日の深夜から二十日にかけて被害に遭われたようです。場所は自宅マンションのすぐ側の路上です」」
「マンションの近く…? 細い一本道しかないですよね。そこですか?」
椅子の背もたれから身を起こし、背筋を伸ばして一点を凝視しながらゆっくりと言葉を繋げた。
先ほどとは、打って変わった優しい口調だが、取り調べの第一歩が始まったようだ。
「最後に会ったのはいつごろですか?」
「一週間ほど前です」
「何か変わった様子はありませんでしたか?」
「別段何も感じませんでしたが…」
「電話でなんですけど、三村里香さんとの関係を教えて戴けますか?」
大林と被害者の関係、さらに当日のアリバイにつての尋問が続くことになる。大林は三村里香と二、三か月前から交際があり、週に一回程度、彼女の部屋に泊まっていたことを認めた。
「六月二十日の深夜、正確には六月十九日零時前後から、二十日の二時までの間、どちらにいらっしゃいましたか?」
「私を疑っているのですか?」
アリバイ調べに大林は敏感に反応した。
「本当に容疑があれば、出頭してもらうか、こちらが直接出向きますよ」
電話の声は少し笑っていた。
大林は少し安堵して、再び背もたれに身体を沈めながら答えた。
「六月十九日の夜は、新宿で友人と遅くまで飲んでいました。多分、終電間際頃に別れたと思います。友人の名前ですか? 正木薫です。カオルと言っても男ですよ」
傍らにあった、ブリーフケースから分厚いシステム手帳を取り出して、大林は、すらすらと答えた。
「連絡先を教えてもらえますか? 電話番号と住所」
大林の回答に続けて、
「正木氏と別れたのは何時頃ですか? その後どうしましたか?」
大林は空いている右手を額に当てて、その夜のことを思い出そうとしている。
「別れた時間ですか? 確か終電の頃ですから、零時過ぎのはずです。相当酔っていたので、正木を駅まで送ってから、タクシーで帰りました」
「どこの会社のタクシーか覚えていますか? タクシー代のレシートとか残っていないですか?」
刑事は、一連の質問に対する答えと反応から「シロ」との確信に近づいていた。そこで、アリバイに関する助け舟としてタクシーのことを聞いたのだった。
記憶の確かでない大林は、ヤバイ、疑われていると感じて、背もたれから身体を起こした。ゾッとする冷たい感覚が背筋を走ったが、先の刑事の言葉を思い出して、気を取り直し質問に答えた。
「泥酔していたようで、全く記憶にないのです。レシートもありません」
「ウーン。困ったね。都内のタクシーは五万台程あるんですよ。全部に問い合わせるのは大変なんだよね」
刑事は明確なアリバイ成立を願っていた。「シロ」と思われる人物を深追いするのは捜査経済上の観点からも無駄だからである。
「中目黒の自宅に帰ったのでしょう? それからどうしました?」
「部屋で寝ていましたよ」
「誰か証明できる人はいませんか?」
また、戦慄を覚えた。一人暮らしの俺に、どうやってアリバイを証明しろと言うのか?
「一人なので誰もいません」
「ところで、あなたは左利きですか?」
おかしなことを尋ねるなぁ…? と思ったが、
「いいえ、右利きです」
「またお尋ねすることが有るかも知れませんので、連絡が取れるようにしておいてください」
電話は終わった。
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