ひとでなしの告白
安堂舞香
糸宮蓮の告白
彼女が屋上から飛び降りたその瞬間まで、私は出雲美雪を愛していた。彼女のことは中学生の頃から知っていて、同時に関わってあまりいいことがあるような人間でないことも知っていた。彼女のことを理解できない人間からすれば美雪は“ヘンな子”で“落ちこぼれ”だった。私以外に友達がいる様子はなく、どこか人間関係において抜けていた。他人が誰かの悪口を言っていたら「そんなこと言ったらダメだよ!」だとか、皮肉を言われても「ありがとう!」と笑顔で返すような、よく言えば天然、悪く言えば空気が読めなかった。だから美雪は誰も理解できなかったし、誰も美雪のことを理解できなかった。
それでも、私にとって美雪は光で、私の希望だった。ある意味、私は人を理解できないという点で美雪に似ていた。私は他人が私を見る目が恐ろしく、その目によって自分の人生が決定されることがただ恐ろしかった。小学生の頃、当時の友達と遊んでいた時に一緒に教室の壺を割ってしまった。それを二人で謝ろうと言ったのに、友達は全ての責任を私に擦りつけた。結局怒られたのは私だけで、友達もその場にいたと言ったら「嘘を吐くな」とより一層怒られた。そして、それをきっかけにクラスが変わるまでクラスから仲間外れにされ、その友人ももちろん私と関わろうとしなかった。人は友情と愛の大切さを唱えながら、自分に益がないとわかった瞬間いとも簡単にかつての友を切り捨て、個性も大事だと言いながら、皆が同じであることを求める。その矛盾が何よりも恐ろしかった。だから私は誰からも見えなくなろうとした。いるようでいない存在、それが私だった。友人は少ないが、目立ったことはしない、厄介ごとに巻き込まれない平凡で地味なクラスメイト。クラスの中心の人間には愛想よく、そうでなく、中心の人間に蔑まれる側の者にはとにかく関わらない。そうやってとにかく目立たないことで集団の目から隠れ続け、それが駄目だとわかった時、私は普通のフリをした。人の関わり方のルールなど知らないくせに、あたかも理解しているフリをしてやり過ごしているうちに、嘘笑いが上手くなってしまった。
でも美雪の人間への理解のなさは、私のような恐怖によるものではなく、自然なものだった。素直で純粋すぎた、としか言いようがなかった。不思議で、どこかこの世離れの雰囲気をまとっていて、趣味は植物の世話と普通とは大きくかけ離れていた。ずっと学校の中庭で世話をしていて、そうしている時、美雪は一番幸せそうだった。好きな花について熱く語っている時、美雪の薄緑の瞳がエメラルドのように輝く様子が何よりも好きだった。そして、ずっとそのままでいたなら、誰とも関わらなければ、まだ美雪は幸せだったのかもしれない。
それでも、どんなに嫌われていようが、わかり合えないことが目に見えていようが、美雪は他者と関わり合うことを何よりも望んでいた。
「ずっと友達が欲しかったんだ。だって、みんな友達と一緒にいると楽しそうだから」
死ぬ2日前、美雪はそう言った。
「…みんな、楽しいフリをしてるだけだよ。本当は、お互いのことなんてどうでもいいって思ってる」
そう私は返すと、美雪ため息をついた。
「蓮ちゃんはなーんでそんなにネガティブになれるのか、私にはわかんないよ」
「…私、美雪が山田達にされたこと、知ってるよ」
雑草を抜いていた美雪の手が止まる。長袖では覆いきれなかった青アザがはっきりと手首に残っていた。
「こんなことされて、まだあいつらと仲良くなりたいの?」
「まあ…今は仲良しじゃないけど、」
「いつかは仲良くなれるとでも思ってるの?よく聞いて、美雪。山田と私達は完全に違う世界に住んでるの。そんな美雪をあいつは一生嫌うだろうし、一生受け入れてくれない」
「でも-」
「それに、友達が欲しいなら、」
素直に笑えているのか不安だったが、なんとか笑ってみせた。
「私がいるから、ね?」
美雪はまだ疑わしそうな顔をしていたが、徐々に納得したという表情をみせた。
「…そうだね。私には蓮ちゃんがいるしね。でも、蓮ちゃんの言ってることが合ってるとは思えないなー」
本当に、私は正しかった。ただ、美雪はそれを最悪の形で知ることになってしまった。
次の日に私が中庭に行った時には、目も当てられない悲惨な状態になってしまっていた。花壇の花は全て引き抜かれているか、茎で折れていて、木々から千切られた葉と共に花壇の土が庭中に散乱していた。でも何よりも、美雪がいないことに一番動揺した。美雪はついさっき中庭に向かっていると連絡していたから、自然に考えればこの惨状を見て逃げ出してしまったとしか思えなかった。何度電話をかけても美雪は一度も出なかった。ゾッとした不安に襲われた私は学校中を、そして町中を探し回った。美雪が今感じているであろうショックと絶望を想像するだけで、身震いがした。もし、美雪を見つけられなかったら。もし、美雪が立ち直れなかったら。そう考えると更に焦燥感に襲われて、震えと冷や汗が止まらなくなった。日が沈んでもまだ美雪を探し続けて、深夜0時あたりに警官に止められるまで家に帰らなかった。
どうやって家に帰ったのかは覚えていない。でも朝の4時あたりに目が覚めた時には美雪からの留守電話が携帯に残っていた。すぐに震える指で携帯を恐る恐る掴んで、再生を押した。
「ごめんね、蓮ちゃん。……大好きだよ、バイバイ」
コトリとスマホが指の間からすり抜けて落ちる音がした。考えるよりも先に裸足のまま家を飛び出していた。何も考えず、ただ学校に、中庭に向かっていた。ほんの少しだけ、美雪がまだそこにいることを私は願っていた。私はただ、美雪の笑顔をもう一度見たい、それだけを願っていた。私が中庭にたどり着いた時には朝日が登っていた。そして、それが、彼女が見えてしまった。走り続けた疲労と足の裏の出血でとっくに限界だった両足から崩れ落ちた。叫ばないように唇を噛み、爪が喰い込んで血が出るまで拳を握った。これは夢だ、ただの悪夢だと信じたくて彼女の方をもう一度見た。美雪の、残酷に潰れた体の、光が消えた空っぽな緑の瞳を覗き込んだ時、絶叫を抑えるのをやめた。
その時見ていた人曰く、私は引き剥がされるまで美雪の名前を叫びながら彼女の体を揺さぶっていたらしい。その後病院に行ったことも、警察の事情聴取も、美雪の葬式の記憶でさえもおぼろげだった。美雪が死んでから、私は世界を霞がかかったかのように、ぼんやりとしか見えなくなってしまった。
美雪と出会うまで、私は一生他人を愛せない人間であると確信していた。人間嫌いなのだから、当然といえば当然だ。でも同時に、それと矛盾して、誰かを愛し、その人に愛されてみたいという願望が私にはあった。美雪が最後まで人を信じようとしたように、私もほんの少しだけ、人を信じてみたかった。美雪が、その希望だった。美雪の優しさ、前向きさ、暖かさは全部、私がかつてなりたかった姿だ。人間にまだ憧れていたころ、望んだ姿だ。そういう美雪のところに、私は心を惹かれた。だから私は美雪以上に美雪の価値観を愛した、下手したら美雪以上に。美雪が美雪のままでいられるためになんでもする覚悟はできていた、でも彼女をいじめていた山田から美雪を救いだすには遅すぎてしまった。美雪に絶望なんて知ってほしくなかった。美雪が幸せでいられるならそれでいい、たとえそれが私の幸せと引き換えのものだったとしても喜んで差し出しただろう。
それでも、私は気付いてしまった。私が美雪に向けていた感情は、結局自分勝手なものだったということに、美雪が死んだ後に気付いてしまった。美雪の友達以上の、美雪にとって唯一無二の存在になりたかった。美雪と過ごしている時、一抹の不安を常に感じていた。美雪が私に対して、私が美雪に対して抱いている感情と同じくらいの感情を抱いているのか、本当に私を親友だと思っているのか不安だった。それがひどく、醜い執着だということも、それがあまりにも独りよがりで傲慢だということもわかっていた。それでも美雪をどんな方法であれ失うことがただ恐ろしかった。そうなってしまったら、私は二度と誰も愛せなくなる、そう確信していた。美雪も、私のことを自分の光だと、希望だと思っていてくれたなら、私はこの上なく幸せだっただろう。そもそも、希望である必要すらなかった。美雪の人生における誰かになれるなら、私は何でもよかった。美雪となんでもいいから繋がりがほしかった。他人との繋がりを望めない私にとって、美雪が差し伸べてくれたその手を、決して離す訳にはいかなかった。誰かの唯一無二になりたかった。美雪が飛び降りた後にそれ失敗したと、自覚した。それでも、死ぬ直前に美雪に言われた「大好きだよ」がどういう意味だったのか、未だにわからないでいる。そんなことを言うくらいなら生きてほしかった、あるいは「心の底から嫌い」だと言ってから死んでほしかった。
ねぇ美雪、私は美雪にとって何だったの?
中庭は今は私一人で世話をしている。でも、これは美雪のためだけじゃない。これは美雪を救えなかった馬鹿な私への罰だ。美雪が死んでから一年、美雪への気持ちはずっと変わらずにいる。
私は出雲美雪を愛していた、そして地獄でその罰を受ける日まで、彼女を愛している。
ひとでなしの告白 安堂舞香 @maian57346
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