ひまわり10 決意に鉛筆を
――同年七月。
「今年も三月三十日には、二十五歳になっているのですよ。お父さん、お母さん。ああ、会いたいな」
十月の試験日を前にエッテンに戻った。
「お父さん達も会いたいに決まっている」
ファン・ゴッホは、父がいるのを分かっているのに帰る。
彼は可愛がられていないと感じていないか。
それとも、空気が読めないのだろうか。
認めたくないとも捉えられる。
私は、ファン・ゴッホの人付き合い問題がここにもあるのかと考えた。
「ねえ、壽美登くん。これから、聖職者への道が厳しくなるのかしらね。私達も追って行くわよ」
「はい。香月さん、どきどきし過ぎて倒れないでください」
私はリスみたいに頬を膨らます。
「分かっているわぷー」
それからの私達は、慌ただしくも時折テオの本を合せて時計を未来へと刻んで行った。
――翌、八月。
やはり、伝道師になりたいのだろう。
専門に学ぶことにした。
「聖職者になる為の資金はない。ベルギーのラーケンで、伝道師養成学校があると聞いた。少しでも学ぼう」
ファン・ゴッホは、どうしても聖職に就きたいようだ。
――だが、十一月で通える期間が終わる。
「ファン・ゴッホ、いいかい。学校からは、これ以降も続けたければ歓迎すると決めた所だ。熱心に学んでくれないか」
「いえ、僕には伝道の道が光り差し込むのだ。この光を与えに歩きなさいと聞こえて仕方がない」
学校側もそれ以上引き留める理由もないようだ。
こうして、短い間だが彼はラーケンを去る。
「神は富裕層が求めるだけの存在ではない。一つのパンを求める者もあるだろう」
私は彼の独り言ちに、いたく感銘を受けた。
――同年十二月。
ファン・ゴッホは、再び旅立ち、ベルギーのボリナージュへ着く。
「炭鉱の暮らしぶりは、筆舌に尽くし難い。貧困と重労働に追いやられる人々に神の救いを説かなければならないのだ」
目の覚めたようなファン・ゴッホは心身を彼らに捧げた。
伝道を認められ、給料をいただく。
すると、全ては労働者の困窮を助ける為に使用した。
残念なことに、それが裏目に出て伝道委員会から干されてしまった。
「ファン・ゴッホ、貴方は尋常ではないと思わないのですか。そのような行為は慎んでいただきたい」
「僕は、人々の為にしていることだ。何も間違ってはいない。神の教えを伝道するとは、どうすることなのか?」
ファン・ゴッホは、身を引き摺って去って行った。
――翌、一八七九年八月。
ファン・ゴッホは、二十六歳だ。
同じボリナージュの西にあるクウェムに移り住んだ。
無一文では食べて行けない。
父ドルスからの仕送りがあった。
「ドルス、フィンセントは、もうボロボロだわ」
「ああ、アンナ。如何に父親でもこれ以上甘やかす訳には行かない」
しかし、テオは心配のあまり、クウェムの兄を訪れた。
ノックの音が響き渡るも反応がない。
心配してテオがドアを開けると、その光景は想像を絶した。
「この家には、デッサンしかない! 食べ物や着る物はどうしたんだい?」
「着る物などなくても、生きることはできる」
ぼんやりとした兄に会うと、テオでも養護し切れなかった。
「しかし、そう言っては、お父さんの仕送りを貰っているだろう。よく考えた方がいいよ、兄さん」
テオは、口惜しく意思を伝えるしかなかった。
――一八八〇年三月に衝撃が走る。
「ファン・ゴッホの姿がないわ。一体どうしたことかしらね、壽美登くん」
「意識があったのでしょうか。フランスの北部を放浪していたとテオの本にあります」
そうしてまで生き抜くには、生易しい土地ではなかった筈だ。
彼が、何処を歩き回ったのかは分からない。
ただ、懐かしい匂いを求めて、辿り着いたのは故郷だった。
「フィンセント! よくエッテンに帰った。どうしたんだい?」
ファン・ゴッホは、無口で呆然としていた。
肩を擦られても、倒れてしまいそうだ。
「ああ、無事でよかった。誕生日をお祝いしよう。フィンセントが産まれたときは、喜びを亡き兄の名を継がせることで表したものだよ。もう二十七歳か」
愛されていない訳ではなかったのだ。
父も心配しているではないか。
「さあ、ベルギーにいい病院がある。ヘールの精神病院に行こう。診て貰って、安定した気持ちになるのが先だ」
「それは、僕を冒涜している……。無味無臭の建物に置いて行くに違いない。僕は騙されようとしているんだ。皆が騙す、騙すと囁いている。耳に近付くな」
ファン・ゴッホは椅子に腰掛けて手を組み、目だけをぎらつかせながら、ブツブツと聞こえない話をし始めた。
「フィンセントには、休養が必要だ。なあ、落ち着こう」
父が息子の肩を抱こうとしたときだった。
彼はがばりと立ち上がり、頭を抱え、胸に巣食っていた魂を吐き出す。
「嫌だあ! 僕は、自由がいい。絵も描けなくなるだろう!」
「フィンセント、休むんだ」
慈悲深い表情の父からは、強引に出た後悔は感じられない。
正しいことをしているつもりなのだろう。
「僕は十分元気だ。病院なんて、病院なんて鎖だらけだ」
また、父とも軋轢を生じてしまった。
しかし、ファン・ゴッホがそれに気が付いていない。
――同年六月。
ファン・ゴッホは、黙ってクウェムへと旅立った。
彼の支援者は、父からテオへと変わる。
「僕は、絵に戻る! 絵に戻るんだ!」
「兄さん、興奮しなくても大丈夫だ。僕がいる。安心して、好きな絵に打ち込むといいよ。それに僕は絵を売る仕事をしているんだよ」
クウェムの家でも相変わらずだ。
「香月さん、テオの本を開いてください。金色に光った部分がファン・ゴッホの気持ちのようです」
「ええ、ここね。――親愛なるテオへ。もう、九月にもなる。フランスでの放浪は僕の勲章にもならない。貧しくとも苦しくとも過ごした日々。絵を一度は捨てた。だが、再び鉛筆を、僕はそれで絵を描きたいと願って止まない」
「これから、この画家になる決意を文にしたためるのね」
ファン・ゴッホは、案外、移動するのに抵抗を感じないのだろうか。
次の住まいへと支度を始める。
――秋も綺麗に暮れた、同年十月。
ベルギーのブリュッセルでデッサンを始めた。
「絵は難しい……。けれども、愛して止まないのは、人よりも絵の方だ。期待を裏切ったなどと傷付けられないからね」
苦しくとも、安定して絵を描いていると思えた。
だが、それだけで終わらないのが、彼の人生なのだろうか。
テオの本を抱きしめる。
悪い予感を示すかのような、どろどろとした色が表紙を包むからだ。
――翌、一八八一年四月
二十八歳のファン・ゴッホはエッテンに帰った。
随分と出入りが激しい。
「壽美登くん、疲れたら私に教えてね。スピーディーなファン・ゴッホに私は酔っちゃったわ」
「香月さんの腰痛が心配です。二人とも移動する度に打ちます」
「ご心配要りませんぷー」
この後、運命的な出会いが幕を開けようとしていた。
いとこの
「きゃあ!」
「うわっ」
突如、私達の足の下に落ちたミルククラウンから、黄色いトンネルへと強制的に送られる。
流れるようなファン・ゴッホの崩れて行く人生の途上で、吸い込まれたのだった。
私は、トンネルの中で、気を失っていた――。
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