ひまわり9 ひとひととひと

 ――同月。


 ファン・ゴッホの再就職先は、意外にも寄宿学校の教職だった。

 最初はロンドンのラムズゲートだった。


「僕は、教師になりたかった覚えがない。算術を教えられない訳ではないが、生き甲斐にはならないよ」


 頭を掻いて煩悶している。

 私も様子を見ていて思った。


「うーん、ファン・ゴッホには、この仕事は肌に合わないようだわ」


 ――同年六月。


 だが、ロンドンのアイズルワースに学校が移ったので、ファン・ゴッホも着いて行った。

 ファン・ゴッホは、仕事中に何を考えているのか、瞳に輝きはなかった。

 ぶつっと吐き出したのが聞こえる。

 

「僕は、伝道師になりたいのに!」


 暫し俯いて考えていたようだ。

 しかし、面を上げて瞳が輝き始める。

 ファン・ゴッホは動いた。

 子ども達に聖書を教えたり、貧しい人々に神の教えを導いたりし始める。

 私は、彼が思ったよりも勉強ができるのだと感心していた。

 だが、やりたいことと就いた仕事が異なることはあるのだろう。

 暫くして、ファン・ゴッホは自ずから教職を遠ざけたようだ。


 こんなときに、私は自身の家庭について思い出した。

 とてもモヤモヤとする……。

 お隣に暮らしていた親友、那花壽美登くんに打ち明けようか。


「壽美登くんは、もう知っているわよね。私の父、菊次が、コウゲツ建築けんちく事務所じむしょに勤めていたの。――三月の或る日、現場の帰りに、もう要らないと図面をその近くのゴミ捨て場に放棄してしまったのよ」


「それは、中学三年のとき、残念なことにクラスでニュースになってしまいました」


 所長に叱責された日、菊次パパはもう帰って来なかった。


「父は、いいお酒の出る店に行ったのかしらね? ぼったくられ、大借金を焦り、店の女性オーナーに金を借りたと聞いたわ。織江ママは、パパの居ないカウンターキッチンで、本当にあの人は愚かだと嘆いていていたわ……」


 ――菊江ちゃんはママと一緒よね。

 瞼を腫らして泣いていた。

 あんな織江ママは、初めてだ。

 父は騙されたのだから、正当性を訴えればよかったのだろうと、今なら思う。

 しかし、織江ママも正直者のせいか、早々と父を差し引いた家族三人と一匹で益子町から宇都宮の花戸祭まで引っ越す。

 そのとき、黄色い屋根の家は売った。

 未だに借り手もなく、空き家のままだが。

 とう淵明えんめい帰去来ききょらいを思い出す。

 帰郷する喜びと決意までは一緒だ。

 花戸祭はそこまでは田園風景ではないが、緑はある。


「香月さん、すみません。悪いことを思い出させてしまったようです。顔色がよくありません」


「そんなことないわよ。私はいつでも、元気、元気なのだ。ぷー」


 壽美登くんの心配する仔犬のような顔で覗き込まれては、私は気持ちが塞いでいるなどと口にできなかった。

 彼は、本が左手にあるから、右手でハイタッチのポーズを取る。

 私もゆっくりと、彼の手に合わせた。


「何だか、あたたかいね」


「ささ、次のファン・ゴッホへ旅をしましょう」


「そうね。テオの本を十字に合せてね」


 本を重ねて、少し先へ飛ぶ。

 私も黄色いトンネルでの旅に、少し慣れて来た。

 出口があると分かっているから、安心するのだろう。

 ただ、吐き出されるときに腰を打つのは痛いので、改善したい所だ。


 ――同年十二月。


「クリスマスはいい」


 ファン・ゴッホは聖職者への想いを抱えて、実家の父らに会いにエッテンへ行った。


「お父さんも牧師だから、僕はどう歓迎されるだろうか。きっと褒められるだろう」


 彼は、久し振りの我が家が愛おしいようだ。


「父も母も夢の中の人ではない。一緒に食卓を囲み、僕は幸せ過ぎていけない」


「フィンセント、大事な話がある」


 ファン・ゴッホは、椅子から立ち上がる。

 父からどんなお小言があるのかと身を引いた。


「八年は勉強しないと、教えを導く者になることはできない。辛抱する決意があるのか?」


 父は熱心な視線だ。

 息子は、もう一度座り直した。


「僕は、教師には向かない。伝道師こそ、僕の生きる道だと頭の中が一杯になって、皆がなりなさいと語り掛けて来る程だ」


 父は、ファン・ゴッホに今までとは異なる印象を受けたのか、妻に相談していた。

 私達は、彼らの過ごし方を遠く眺めて、年を越した。

 

 ――翌、一八七七年一月。


「大人は何かしら仕事をしないとならないとは、苦痛だ」


 ファン・ゴッホは、オランダの実家に近いドルトレヒトにあるブリュッセ&ファン・ブラーム書店で働き始める。

 しかし、気持ちは聖書や教会に置いていた。


「香月さん、書店の仕事も長く続かないでしょう」


「仕事をしていてもだるそうですものね。向き不向きがあるわ」


 私は、また過去の我が家を振り返ってしまった。

 向き不向きか。

 菊次パパも仕事が向かなかっただろうか。

 では、どんな仕事に就きたかったのか。

 今なら、訊いてみたい。

 でも、電話もできない環境にあっては難しい。


 ――同年五月には、ファン・ゴッホは二十四歳になっていた。


「もう、本当の気持ちを無視して、ここで油を売ってはいられない」


 ファン・ゴッホは、書店の仕事を辞め、決意を父に伝えに行った。


「お父さん、王立大学で神学部を受験したい」


「悪いことではない。アムステルダムのコルCor叔父さんや親戚に話を通す。だから、がんばらなければ駄目だ」


 アムステルダムは、オランダの実家より大分北にある。

 私は、とうとうファン・ゴッホが画家以外に目指していた道を見出したのだと思った。


「気になるわ。その後のファン・ゴッホへ飛びましょうよ、壽美登くん」


 黄色いトンネルのデジタル時計は、随分と数字を刻んだ。


 ――翌、一八七八年二月。


「えい! あたた。痛いわね、毎回」


「僕が、いたいのいたいの飛んで行けをしましょう」


 冗談ではないと、遠慮させていただいた。

 それより、ファン・ゴッホが血相を変えているではないか。


「お父さんが来る? 今の僕に会いに?」


 その頃には、ファン・ゴッホはあらゆる学問の挫折をして、自分を痛めつけていた。


「フィンセント! 何の為に、仕送りまでして勉強をさせたと思っているんだ!」


「ぼ、僕は、がんばりました。けれども、ラテン語や代数や幾何に歴史や地理など、とてもじゃない。歯が立たないのです。学問が僕の声を聞かないのが苦痛なのです」


 小さなファン・ゴッホは、叱られたのが相当苦しそうで、頭を抱えてしまっていた。


「大事な話がある。フィンセント、今後は、自分で勉強のお金も工面しなさい。全く、期待を裏切られたものだ」


 期待という小さな愛情がぶち切られたことの方が、叱られることよりもきつそうだった。

 私は同情はする。

 家族から離れて行った菊次パパを思い出すから。

 彼が夜の世界に一時的な幸せを求めて去り、裏切ったのを知ってしまった。

 パパなんて、仕草から口癖までも忘れることができないから。

 直ぐには許せない気持ちを拭えない――。

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