ひまわり8 画廊の肌
「仕事をしなさい。ハーグにある
「画廊? フィンセント伯父さんの画廊だって? お父さん」
ファン・ゴッホは、父の意外な指示に驚いた。
私の考えでは、自分が働くなんて考えたことがなかったのだろう。
「画廊で何をするの?」
「絵を売る仕事だ。お前に向いているだろうよ」
ファン・ゴッホは、今までになく意気揚々と返事をする。
実家を随分と北へ行ったオランダのハーグへと希望を抱いて旅立った。
「壽美登くん、元気なファン・ゴッホね。さて、これを機に大人としてのファン・ゴッホとなるわね」
腕組みをして首を傾げ、ファン・ゴッホの未来を案じた。
「僕もファン・ゴッホが牧師の父から飛び出して、絵が好きだとはいえ、コミュニケーション能力を磨いて行けるのかも知りたい所です」
「それは、大切だわ。――ねえ、壽美登くん。幼稚園の頃からずっと変わらずに大人しい感じね」
いつでも壽美登くんは優しかったと、喉の所まで来ている言葉を飲んで、大人しいと表現してしまった。
気遣ってくれるのをありがたく思っているのに。
「そうでしょうか」
「那花工房で大人に囲まれていたせいもあるのかしら?」
私が働く人々の中に飛び込んで行ったのは、織江ママが別居して仕事へ出たときだ。
壽美登くんは、もっともっと幼い頃から工房が身近にあって、妹さん達の面倒までみたりして偉いと思う。
「僕が自分の性格を確立して行った要因が分かるのなら、テオの苦労を減らして差し上げたいです」
「私の感じでは、テオは優しいからとか、兄への真心からだと思っているけれども、どうなのかしらね? それも確かめられたらいいわ」
大人になればなる程に、人と人が上手く行かないと評価が下がるものだ。
分かりません、できませんでは通らない。
ファン・ゴッホは、人並みに働けるかどうかの前に、問題を起こさないかが心配だ。
平穏な生活が待っているように願うばかりだ。
さて、画廊へ着いた所へ、私達もお邪魔する。
相変わらずの透明人間でだ。
「フィンセントくん、よく来たね」
「はい……。何をしたらいいのか分かりませんが」
「仕事は段々に覚えて行ってくれ、さあ」
ファン・ゴッホは、肩を叩かれて不安を募らせた。
「先ずは、この絵をあちらへ頼むよ」
早速働くことになった。
最初は、絵を持ち運んだり、包んだりする仕事だったが、画廊のお客様とも接するようになる。
「グーピル画廊に勤めてよかった。僕は、絵に触れる仕事に遣り甲斐を感じる」
ファン・ゴッホが日々充実しているように感じ、私は胸を撫で下ろす。
そんな或る日、テオが訪ねて来た。
「お兄さん! 懐かしいな。元気でしたか?」
兄弟は、喜び合った。
折角会えたのだからと、グーピル画廊を出て風車の辺りを散策する。
話は明るく弾んでいるようだ。
テオの本が、踊っているかのように震え出した。
「香月さん、二人は相当仲がいいようです」
「私も同感だわ。これから、ファン・ゴッホとテオが文のやり取りを始めるようね。テオの本が楽しんでいるみたい」
よく分からないけれども、壽美登くんとハイタッチしてしまった。
私達は中学生か――。
いや、小学校の運動会以来なのは確か。
「僕は思います。画家には、昔からパトロンがおりました。経済的に自立できなければ、芸術では匙一つ買えません。ましてや、食事など無理です」
「あら、割とシビアなのね。陶芸工房の跡継ぎとして、那花家でゆるりと構えているのかと思ったわ」
彼の真摯な眼差しに杭を打たれた。
「香月菊江さんは、一個人としての明日へのビジョンをどう描いているのですか?」
真面目な質問が矢文で来た。
「織江ママと同じように……。バイオテクノロジーの分野で研究職に就きたいと思っているわ」
「教科書通りです。本音を教えてください」
どうしたの?
「壽美登くん、ファン・ゴッホの生き方を辿っていて、感じるものがあったの?」
「香月さんは違いますか?」
ええ、どうしたの?
「幼い頃の気難しさが、将来に繋がるだろうとは思うわ」
「気難しさで済ませていいのですか?」
袋小路に来てしまった。
「いえ……」
「すみません。無理しないでください……」
壽美登くんが、抱えているものが分からなかった。
あの優しい彼が、詰問して来るなんて、二度目だ。
一度目は、香月家が隣の家から引っ越し、離散したとき。
「また、本を重ねて次へ行くわよ!」
「そうですね」
――一八七三年五月。
ファン・ゴッホは二十歳になっていた。
イギリスのロンドンにあるグーピル画廊へ行くこととなる。
そして、大きな出来事は、テオもハーグのグーピル画廊で働き始めたのだ。
同じ職場と言うのが喜びとなったのだろう。
兄弟の文のやり取りも更に盛んになった。
「これは、ファン・ゴッホも喜ぶわ」
「僕もそう思います」
ファン・ゴッホは気持ちが安定していた。
だからこそ、この後の大惨事を想像だにしなかっただろう。
「ブリクストンの下宿か。大家さんに挨拶するか」
「私が大家の
テオの本から、赤い糸が出て、大きなハートを形作った。
私にもファン・ゴッホの紅潮した頬で分かる。
彼は、娘さんと恋に落ちたようだ。
ウージェニーとファン・ゴッホ、この恋の行方はどうなるのだろうか。
「よし、今日告白しよう……。ウージェニーだって僕のことを想っているのだから」
結婚の文字がハートの周りを回っている。
私は唾を飲み込む。
「私、結婚はできないのです」
赤い糸は、ぺしゃんとなってしまった。
きっと、ファン・ゴッホの心はそれでは済まされない筈だ。
「僕と仲良く過ごしただろう? ああああああ! ウージェニー、ウージェニー!」
ファン・ゴッホの失恋の痛手は深く、精神的なショックが伝わって来る。
彼の体からふくよかさを欠き、頬もこけて行く。
テオの本の表紙も真っ白になっていた。
――夏の休暇も終わった。
ロンドン支店は、様子の変わったファン・ゴッホをパリ本店へ転勤させた。
しかし、パリでも働きが悪く、失恋を引き摺っていたようだ。
「ウージェニー、ウージェニー、僕には分からない」
ファン・ゴッホは家に帰りたくて仕方がなかった。
しかし、画廊に休暇を申し出るも、却下されてしまう。
牧師の父一家は、同じオランダのエッテンに引っ越していたので、彼は誰に許される訳もなく帰ってしまった。
「うんん、これはゆゆしき問題ですね。もう少し先を知りたいわ。壽美登くん」
「はい」
私達は、テオの本を十字にした。
――一八七六年四月。
無断欠勤により、ファン・ゴッホは二十三歳にして、適職だと思った画廊の仕事を辞めさせられた。
「悲恋だったわね、壽美登くん」
「片想いとは、あるものですよ」
遠い目をしている壽美登くんは、ファン・ゴッホをどう捉えたのだろう。
もしかして、失恋の経験があるのか。
私が訊ける訳などない。
「どうしましたか」
「いえいえ、何でも、ごにょごにょぷー」
ファン・ゴッホの話をしよう。
「画廊では、結局失敗をしたのね」
「画廊で失敗をしたのではありません。人との関わり方に残念な結果を出してしまったのです」
壽美登くんの意見が正しいわ。
「画廊では、まあまあ上手くこなしていると思ったのにね」
「職場では上司も同僚も外面で建前ばかりの所です。しかし、恋愛や結婚の話となると別です。ファン・ゴッホが、ウージェニーに決まった人がいたと知らなかったから失恋したと割り切れるのでしたら問題がありません。相手の厚意と好意が織り交ざる中で、一人妄想が走ってしまったとも思えます」
壽美登くんが恋愛に関心があるとは思わなかった。
「恋愛って、難しいわね」
「香月さんには、婚約者がいらっしゃいますか?」
矢文が来た!
手で拳を作り、壽美登くんの胸をポカポカと叩く。
紅潮した頬を彼の胸に預けて見えないように返事をした。
「私、私って、高校生だよー!」
「僕も高校生ですが」
確かに学校でフィアンセ説が出ているの知らないのだろうか。
「そうじゃないの、何でフィアンセかなー? あ、フィンセントだから?」
寝惚けたことで誤魔化せた気がする。
私達は、ファン・ゴッホの心情の変化について語っていたことを思い出した。
ファン・ゴッホは、テオ以外の家族に優しくされていない。
だから、ひとときでいいから春の風を送り込んでくれたウージェニーに一際想いを寄せたのだろう。
家族の代わりに。
いや、家族を築く為にだろう。
「ファン・ゴッホは、彼女と二人で明るい食卓を囲むだけで十分満足したのです」
「壽美登くんの方が私より恋愛に明るいのが残念」
「僕は、ファン・ゴッホの愛の欠片がガラガラと落ちた体験も後の作品に反映していると思います」
作品への影響も大切だけれども、人としての幸福だ。
私は、いつか、ファン・ゴッホが愛し愛される日が来るといいと願った――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます