ひまわり7 父のマリオネット
「そうだわ。家族愛を考察する上で、兄弟について纏めない?」
「いいですね。このテオの本で辿れるでしょう」
私が本を開くと、真ん中にミルククラウンの黄色い穴が開いていた。
覗いて、異様な光景に息を飲む。
これから産まれ来るファン・ゴッホの兄妹の肖像画が、緑の水面に浮かぶ夏を誇るひまわりの一輪一輪に揺らめいている。
六人もいることを実感した。
「彼らは皆、生没年が分かるわね。ただ、ファン・ゴッホは今まで数字が浮いていなかったわ」
「生まれたばかりで、人生が確定していないのではないでしょうか。特に我々が介入してルートを曲げてしまわないようにとのひまわりの壺の警告かも知れません」
先ず二年後に、妹、
イギリスでフランス語を教えていたが、父が亡くなると、特にフィンセントとは関りを持たない。
頭上に、一八五五年生、一九三〇年没と読める。
「彼女を『怜悧な氷河のアンナ』と呼びたいわ。どう? 壽美登くん」
「怖いお名前です」
次にその二年後に、弟、テオドルス・ファン・ゴッホ、愛称はテオが生まれる。
フィンセントを経済的かつ精神的に支え、最も理解し続けた。
兄妹愛があるとするのなら、彼だけ。
頭上に、一八五七年生、一八九一年没と読める。
知ってしまってよかったのか。
「彼は、ファン・ゴッホにサクランボのような双生かと思う程の思慕を募らせています。『ひまわり咲く弟の
「壽美登くん、いいセンスだと思うわ。でも、何故ひまわりなの?」
「彼には特別に遺産を継いで欲しいからです」
またもや二年後に、妹、
彼女が未亡人となってから、経済的理由でフィンセントの絵を売ってしまったようだ。
頭上に、一八五九年生、一九三六年没と読める。
「彼女は、詰まらないけれども、『画業換金詐欺師のエリザベート』と呼ばせていただきたいわ」
くすりと笑われてしまった。
「香月さんは、ファン・ゴッホ贔屓になっています」
「それがブレたら、この旅での収穫がなくなるのよ」
子沢山をよしとしたのか、その三年後に、妹、
フェミニズム運動などにも関わった形跡がある。
フィンセントにも心を寄せ、手紙をやり取りしていたようだ。
頭上に、一八六二年生、一九四一年没と読める。
「彼女は、まあぼちぼちね」
「では、『可愛い妹魂のヴィル』は如何でしょうか」
壽美登くんが弾んだ声だった。
私は、少々妬いたかも知れない。
「うんうん。可愛い性格なのね。壽美登くんは双子の愛壽さんと美愛さんをよくお世話していたから、愛おしさがあるのかしら」
「残念ですが、家族愛と他の人を愛することは違います」
あれ、気不味くなった。
「そこは明るく行かないの? 気を取り直して、ね」
間が空いて五年後に、弟、
フィンセントよりも十四歳も離れて生まれた末子となる。
芸術などとは関りもなかったようだ。
頭上に、一八六七年生、一九〇〇年没と読める。
「彼は、『兄の筆致に届かない運命のコル』とかかしら?」
「届くですか。兄と離れ過ぎて、家族と一緒に過ごすのに間に合わなかった遅い生まれです。それに、戦争で若くして亡くなったようですから、疎遠も致し方ないでしょう。納得のいい愛称です」
私達は、テオの本を閉じた。
「壽美登くん、さっきも考えたんだけれども――。私、この旅の軸をブレないものにしたいわ」
「香月さん、その軸とはどんなものでしょうか?」
一つ咳をしてから大きく息を吸い、胸の内を吐き出す。
「これから、どうなってファン・ゴッホは愛から身を崩すのだろうか? どのようにして、家族以外の愛を求めて行くのだろうか? 彼の作品に裏打ちされた動機をそこに探ってみたい――」
壽美登くんは、黙って二度も首を縦に振ってくれた。
「少しだけ、将来に行ってみたいわ」
「それでは、本を十字に重ねましょう」
私達が再び黄色いトンネルを抜けると、時代は現代へ向けて、彼の少年時代で止まった。
――一八六〇年。
自然の命が芽生える頃、彼は日本で言えば小学生になっていた。
ズンデルト村の学校に通っている。
「壽美登くん、どうやらここは森のようね」
フィンセント、つまりはファン・ゴッホとテオが一緒だった。
花や虫や鳥はいつだってモデルとしてじっとしていてくれない。
それをファン・ゴッホは紙に鉛筆で溢れる力を持つものにスケッチする。
「テオ、何かを描いているときはいいな。心を真っ直ぐにしてくれる。家では、お母さんが僕のことを気難しい子だと、幼い頃から可愛がってくれないんだ。学校でも友達がいないし」
「僕がいるよ、お兄さん。そうだ、お父さんの書斎に入っては駄目だって言われていたけれども、本物の絵があったよ」
ファン・ゴッホは目を輝かせた。
「本物の絵だって?」
そう聞くや否や、じっとしてはいられなかった。
「
「香月さん、版画でしょう」
「これが名画との出会いかしら? 壽美登くんから見て、芸術的に優れている?」
彼は喉の奥から声を絞った。
「申し上げ難いことなのですが、芸術に優劣は見当たらないのです。職業のようにですね。『ひまわり』がそうですよ。もしかしたら、ファン・ゴッホの眼前で破格の値段が付いたかも知れません」
それから、私達は再びテオの本で時空を過ぎった。
――翌、一八六一年。
ファン・ゴッホも八歳になった。
一年で学校へ行かなくなり、一八六四年まで、怜悧な氷河のアンナと一緒に、家庭教師から学び続けた。
「気難しいのがいけなかったのかしら? 友達がいなかったからかしら?」
私は、ただ首を捻った。
――ファン・ゴッホ十一歳となった、一八六四年十月。
「フィンセント、大事な話がある。寄宿学校へいくように」
「お父さん! お母さんも同じ意見なの?」
家庭教師に教わっていたファン・ゴッホは、怒髪天を衝く。
「ええ、そうよ。フィンセントは、礼儀を知らない。言葉遣いもなっていない。学んで来なさいね」
「テオと別れるのは嫌だよ!」
いつもの大声が出ているようだ。
「ゼーフェンベルゲンの町は遠いですよ」
「家を出るのも嫌だ! お母さん!」
声は遥か遠くへ届く程荒々しくなった。
「牧師になりたければ、そんなに気性が荒くてはよろしくない。分かるだろう、フィンセントよ」
テオの本を開くと、その町は実家から北のオランダにあった。
ヤン・プロフィリ寄宿学校は本当に子どもが歩いて通える距離にはないようだ。
私達は、暫く前から観察していた。
一八六四年二月、ファン・ゴッホは『農場の家と納屋』と題する素描を父へお誕生日のお祝いに贈りたいと思っていたようだ。
芸術とんちんかんな私にも風情があっていい絵に見える。
ファン・ゴッホは渡したい気持ちと渡せなかった気持ちをどう整理しているのだろうか。
――ファン・ゴッホが十三歳にもなった、一八六六年九月。
「フィンセント、大事な話がある。ティルブルフの新しい国立高等市民学校、ヴィレム二世校はいいと思う」
「お父さん! また、別の学校に行くの?」
ファン・ゴッホの大声は形だけで届かないようだ。
私は先程からそう思っている。
「そうだ。決定事項だよ」
父の決定は揺るがないようだった。
その町は、実家から西のオランダにあると本で確認できる。
ファン・ゴッホが学校へ入ってみれば、
しかし、彼が一年半後には学校を飛び出して来た所、テオへの手紙に人生を後ろ向きに綴っている。
私はファン・ゴッホの気持ちが察し難い。
将来、有名な画家になるファン・ゴッホが、絵を描くことについて、どう思っていたのか。
――一八六九年七月。
ファン・ゴッホは成長し、十六歳にもなっていた。
家でぶらぶらと過ごす日々が続く。
「自分にできることは、絵をテオに褒めて貰う位。皆、僕を嫌っているんだ……。だから、上手く行かないに決まっている!」
私はその考えを立ち聞いて、彼への理解が少々深まる。
ファン・ゴッホなりに訳があるようだ。
今の様子から、気難しいだけではなく、何か問題を抱えているように思える。
「フィンセント、大事な話がある」
父がファン・ゴッホにこう切り出すとき、彼は学校や住まいを変えて来た。
このときばかりは、飛んで来る言いつけを想像できなかっただろう。
果たして、受け入れられるのだろうか。
私は、テオの本を静かに閉じた――。
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