第三章 【現在】黄色の精神
ひまわり11 燃え揺れる黄色
長い沈黙があった。
周りは暗い。
いや、私が目を瞑っているせいだろう。
目を開けるんだ。
開くんだ――!
「……ここは?」
私の目は薄っすらとだけ開いた。
周囲がぼんやりとする。
頭が痛い。
ずきずきとして脳圧が高い。
そこへ、優しく私のおでこに感じたことのある手が当てられる。
「しっかり……。しっかりしてください」
ああ、那花壽美登くんか。
そうか!
さっきまでのことを思い出した。
「ミルククラウンがあって、その後一気に押し流されて、黄色いトンネルから小槌の音と共に放り出された記憶があるわ」
私の体は思うようにならないが、口だけは流暢だ。
もう一呼吸すると、横になっている私の傍らに壽美登くんを視認できる。
「大丈夫ですか?」
まただ。
壽美登くんの仔犬が心配するような表情が、私を締め付ける。
「大丈夫よ。ただ、腰が痛いみたい」
桃柄のカーペットが私の胸の火照りを表しているかのようで、見透かされたくない。
彼の肩を借りて立ち上がると、くらくらするので食卓の椅子に腰を下ろした。
来客用スリッパをお借りした。
お世話になって、申し訳ない。
「ここは、僕のお家です。居間におります」
「昔より居間を狭く感じるわ。自分が大きくなったからかしら」
壽美登くんが掛け流し風のマグカップでコーヒーを淹れてくれた。
「美味しいわ。ありがとうございます。それに、マグも素敵だわ」
彼が、おでこにある旋毛を掻いて照れていた。
芸術音痴の私でも作陶されたのが誰か分かる。
「そうだ! ひまわりの壺は?」
「床の間にちゃんとありましたよ。特段変化はありませんでした」
何故、ひまわりの壺の前に倒れていなかったのだろう?
入口が壺なのだから、出るときだって壺だと思う。
「そうなの。確認したいけれども」
「後にしましょう」
壽美登くんは、こう見えても頑固だから、逆らわない方がいい。
帰りに床の間へ行こう。
「この窓から、私の昔暮らした家が見えるのよね。黄色い屋根の家」
壽美登くんが開けてくれたので、顔を出した。
「風も気持ちがいいわ。お家さん、留守番していても寂しくないかしら」
「香月さんも時々ですが、非科学的なポエムを語ります」
夏の甘く熱い風が頬を撫でる。
毎年、皆で九十九里で楽しめた夏。
楽しいスナップが何枚もある。
それなのに、四人家族と一匹で活気溢れていた黄色い屋根の家は、今は泣いている。
菊次パパの失踪により、高一からは中止になったから。
「そうだ、ファン・ゴッホにも有名な黄色い家の話があったわね。卒論を進めたいわ」
「夏風邪を引くと大変です。熱風が強くなりましたので、閉めてもいいですか」
私は、顔を戻し、自分で閉めた。
さようならをする気持ちで。
「ファン・ゴッホの画集を持って来ます。テーブルで広げましょう」
「流石、芸術系男子ね。陶芸だけじゃないのね」
元々、ひまわりの壺の話を持ち出したのは、壽美登くんだった。
基礎知識もばっちりの筈。
来年の受験で、きっと
私は、理系。
道が分かれてしまう……。
待って。
だったらもう隣にも暮らしていないし学校も違うから、本気でさようならが来るのだろうか。
菊次パパの件に続いて、別れが重なってしまう。
「香月さん、お待たせいたしました」
「いえ、待ってなんかいないわ。いえ、待っていない訳ではなく、待ってたのよ」
私の頭に透明なひまわりが刺さっている。
「心配しておりません。大丈夫です」
二人で隣の席に座り、『炎の画家ゴッホ』を開いた。
そのとき、私は気が付いた。
「テオの本は! ヨーがくれたのよ」
「今は、心配ありませんよ。それより、画集で情報を得ましょう」
テオの本が心配ないとは、壽美登くんが保管してくれているのか。
この件は後回しだ。
あれが全て幻覚で本当に集団催眠ならば、笑い話にもならない。
「分かったわ」
折角なので画集で知識を纏めたい。
それにしても、随分と読んだ形跡があるファン・ゴッホの本だ。
壽美登くんが迷いなく開いた頁が、私達の旅を物語っている。
「いとこのケー・フォス・ストリッケル――。香月さん、ここで旅が中断してしまいました。一八八一年四月から、ファン・ゴッホは実家に帰っていたので、彼女と出会ってしまったのでしょう」
「ここに記事があるわね。ケーは、七歳年上で八歳の息子さんもいる未亡人だったのね。ファン・ゴッホ家に夏の休暇に来ていたみたい」
ケーは、ファン・ゴッホのアトリエに通った。
彼はエッテンでは、これまで田園風景や農夫達をモチーフにして素描や水彩画に勤しんでいた。
彼女はそれらを鑑賞しては、色彩が独特で綺麗だ等、長所を認めていたようだ。
知的なケーは絵の見方も心得ていた感じがする。
「ファン・ゴッホの絵を褒めてくれていたみたい。自分を認めてくれるケー。それは、人との関わりが疲弊しているファン・ゴッホにとっては、砂漠のオアシスでは済まないわ。その内に、彼は未亡人に本気になったのね」
「薔薇の恋愛ではなく茨の恋愛です。ファン・ゴッホは、結婚も考えていたようです」
壽美登くんが、恋愛と言った。
二度もだ。
彼から初めて口にしたのではないか。
どうしてだろう。
ファン・ゴッホのことなのに、私が頬を染めた。
「ウージェニーのときを思い出すわ」
「そうですね。彼の気持ちは暴走してしまい、結婚を申し込みました。しかし、『返事はいいえよ。絶対に交際は駄目です』との厳しいものしか待っていませんでした。ケーが亡き夫を想ってのことでしょう」
父のドルスもテオでさえも繕えなかった失態は、どうして起きてしまったのだろう。
ファン・ゴッホは、人の気持ちが分からないのだろうか。
「遥か聞こえるファン・ゴッホの叫び声があるわ」
私は、記述にはない台詞を聞こえるがままに熱演した。
「――どうして、家族も僕を守ってくれないのか。どうして、あんなに仲良くしたケーは去って行ってしまったのか。分からない! 理解不能だ! 僕が一体何をしたと誰もが責めるのだ? 煩い、煩い、煩い!」
「香月さんにファン・ゴッホが降誕されたかと思いました」
壽美登くんは、誰をも否定しない寛容的なタイプだ。
第一、私には甘いと思う。
「こんなことがあっては、ケーもオランダのアムステルダムに帰るしかなかったのでしょう。しかし、ファン・ゴッホは遠ざかる想い人を忘れられません。執拗な手紙を送り続けます。そして、十一月にはとうとうエッテンからケーの実家まで追いかけて行ったと書いてあります」
「かなりの門前払いだったらしいわね。毎晩訪ねて行ったとあるわ。その度に、ケーの父、
私は、飲み終わったマグカップを片手に、再びファン・ゴッホの気持ちを察してみる。
私は、彼の気持ちを代弁した。
「――頼む! 僕の気持ちを表すから、よく分かって欲しい」
ファン・ゴッホは、発作的にランプを手に取った。
このマグがランプだとすると、燃え揺れる炎の中に……。
ファン・ゴッホ自らの手をずずーっと入れて行った。
そして、叫ぶ。
「――今なら、僕の本気が分かる筈だ! ケーに会わせて欲しい!」
私は、目を見開きながら、マグの炎の中へ手を差し入れたままになった。
壽美登くんに肩をトンと叩かれて、私は、香月菊江に戻る。
少々トランス状態になっており、非科学的行動を慎まなければ。
彼に迷惑が掛かる。
「常識的に考えましても、ヨハネスとケーの元から去るしかありません。傷心の内に、エッテンへ帰省しましたが、ここでまたクリスマス揉めが始まってしまいます」
「一緒に教会へ行かなかったのよね。こうなるともう、『フィンセント、大事な話がある』と父も切り出してくれないわね」
そうだ、記事ばかり読まないで絵にも注視してみよう。
元々画集ではないか。
菊江ちゃんのうっかりぽんだ。
「ファン・ゴッホは、とうとう、明けて一八八二年一月にハーグへ行くのよね。親類の画家、
「そうですね。これからは、迷いもなく画家の道を行きます。この画集は幼い頃から家にあったものです。情報は新しくないかも知れませんが、絵は生きています」
絵は生きています。
壽美登くんの眼力を込めた名言が、私の胸を打つ。
「燃え揺れる黄色の名画『ひまわり』、それに至るまでのファン・ゴッホの人となりも燃え揺れているわ」
ひまわりの壺、あれから変わりがないのか気になる。
集団催眠の可能性も捨て切れない。
絵画の方は分からないが、焼き物のことは益子に生れたのだから少々関わりたい。
生きている絵とは、何だろうか――。
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