ひまわり12 絵を食べる

「絵は生きています。――先程の言だけれども、壽美登くんはどんな気持ちで話しているのかしら」


 直球を投げて訊いてみた。


「絵は、古くは旧石器時代に、フランスのラスコーやスペインのアルタミラにある洞窟壁画から認識されています。動物の躍動感を人間が錯覚のままに描いているのが好きだったのですが、絵が退色して行ったので、公開は見合わせていると聞きます」


「うん。描いたときとは時間が経過してしまっても人と関わりを持つと伝えたいのかしら。修復をするとか、レプリカを展示するとかが考えられるわ」


 壽美登くんは、冷めたコーヒーを自分で飲み干した。

 音も立てずにマグを置く。

 上品なのか、陶芸作品が心配なのか、壽美登くん不思議男伝説は新しい記述を加えた。


「絵を食べると、僕が言ったら何のことかお分かりになりますか?」


「絵は食べられないわね。正しくは、絵で食べて行くだわ」


 私は、日本語の使い方が問題になっているのかと首を捻る。

 すると、壽美登くんが画集に指を当てた。


「いいですか? 香月さん、こちらの頁です」


 ぱん!

 画集から『ひまわり』が飛び出す。

 いや、壽美登くんが開いたら、まさしく『ひまわり』が咲き誇っている頁だった。

 私は、名画の黄色い波に襲われる。

 元の絵を知っているだけに、強烈な印象がある。


「ファン・ゴッホは、一八八八年八月に『ひまわり』、翌九月には『黄色い家』と沢山の代表作を描きました。それらは生前売れなかったのです。唯一、この年十一月に描いた『赤い葡萄畑』が、一八九〇年二月に四百フランの値が付けられました」


 壽美登くんは珍しく一気に語ったかと思うと、腕を伸ばして画集に眠る『ひまわり』を掴もうとした。


「な……! その花は紙への印刷だよ?」


 彼は、偽物を本当と信じた訳ではなかった。

 それは、絵を手掴みで食べるジェスチャーだった。

 余りにも奇抜なことなので、私は寒気さえ感じる。

 奇行を終えた男から、にこりと笑顔が返って来た。

 僕は大丈夫だと。


「それだけ、描いても描いても受け入れられない画家、それが、フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホです――」


 彼は、力強い眼差しで『ひまわり』を穿ちそうだった。

 居間は静まり返っていたが、彼の手が画集へ伸びると、ぱんといい音が響き渡る。

 再びの一発開きだ。

 一八八七年春のファン・ゴッホ自身の『自画像』がある。

 ファン・ゴッホの瞳は、もどかしそうにこちらへ訴え掛けていた。


「この絵がとても象徴的です。ファン・ゴッホは、パリでも三十七点もの『自画像』を描いていました。自分が一番の友達とかではなく、無休、無給でモデルの役を買って出てくれるから描いたとの説もあります」


「初めて知ったわ」


 画集の自画像を集めた頁を教えてくれた。

 同じ人物だとの先入観があって見ているから、ファン・ゴッホだと思える。

 しかし、知らなかったら、学校のクラス一つ分ある瞳が泳いでいる。

 そのとき、ホラー小説を間違って読んでしまったように怖いと思った。


「一八八六年の『自画像の素描』を皮切りに、いいえ、こけらとしのようなものでは、同年の『パイプをくわえた自画像』が始まりに当たるのでしょう」


「ふんふん、壽美登くん。ただ者ではないわね。褒め言葉よ」


 私もこれ位理系に明るくならなければと決心した。


「僕は、この一八八七年春作、鏡と自身が心の中で向き合った『自画像』が好きです。厚紙に油彩だそうで勿体ない気がしますが、経済の逼迫ひっぱくもあるのでしょう」


「どうして好きなのかしら?」


「筆致をよく観察していて思うのですが、クロードClaudeモネMonetのタッチにも負けないと感じられます。重厚な印象派といった感じがするのです。所々に黄昏の波打つ橙色から金色が見え隠れしているのも引き締めるだけではありません。反対色とぶつけるだけで、ファン・ゴッホの抱く焦燥感が表れていると思います。僕がこれを眺めていたのは、小学四年生の頃でした」


「ポスト印象派と呼ばれなかった? あ、よく知らないのに、ごめんね」


 壽美登くんにぱああっと春の花が咲いた。 


「何をご謙遜なさいますか。僕は、香月さんは広く教養もあり、僕などが説明しなくても十分自ずから得た知識を絡めて発展させられる、知的美人だと思います」


「あ、ぱぴぷ?」


 ひよこが私の周りを泳ぎ出した。


「知的美人から程遠いよ、ぷー」


 ぷーは無視なのか。

 彼は画集を片付け始めた。

 ケースにきちっと几帳面にしまう。

 それに比べて、私はずぼら仮面だ。


「ファン・ゴッホの旅でお疲れでしょうから、休みますか?」


 にこやかさが眩しい位だ。

 先日、新幹線で東京まで行ったエネルギーは、こんな所に隠れていたのか。

 大人しく優しいだけの那花壽美登くんは脱皮してしまった。

 それとも、私にとって形而上の幻想だったのだろうか。

 彼だって、腕一つでこんなに立派なマグを作れるのだから、将来を迷うことがあるのか。

 那花工房の跡取りでもある。

 少なくとも、ファン・ゴッホよりも不遇な生き方はしないと思う。


「そうだわ。壽美登くん、このマグは売り物もあるの?」


「いいえ。販売コーナーに置かせるにはまだ早いと、工房長の判断です」


 墓穴を掘ってしまった。

 私の一言で、傷付いてしまったのではないか。


「那花くん、このマグはとてもいい感じなのに、駄目なの? 那花工房の長ってお父さんよね。親子であっても厳しいのね。ファン・ゴッホについても感じたわ。ドルスが牧師としてもフィンセントを鍛えたかったのかも知れないわね」


 一度は、精神病院へ行こうと考えてくれた父のドルス。

 優しくない訳はない。

 親子のそりが合わない場合もある。

 壽美登くんが、コーヒーのお代わりを淹れてくれた。

 マグに手を添えると温かい。

 

「いつも、ありがとうね」


「遠慮はしないでください」

 

 優しいだけでは、生きて行けないのだろうか?


「ファン・ゴッホは、何もかも極端です。愛するとしたら、盲目的で、思い遣りもありません。僕も随分と空気が読めないタイプですけれども、それにしても酷いと思います。ウージェニーとケーがいい例でしょう」


「ええ? 壽美登くんは空気の読み方が分かる方だって」


 ばたばたと私の顔の前で手を振り、否定した。


「ありがとうございます。けれども、随分と叱られて来たものです」


「本題に戻ろうね。確かに、ファン・ゴッホの家庭への憧れは分かるわ。自身の生れた家に求められなかったからと、他の女性に無理強いするのは、見当違いも甚だしいからね」


 そうだとすれば、ファン・ゴッホは何を目指したかったのか。


「香月さんは、彼の愛情の行き場についてどう思われましたか」


「絵の中に巣食う何かがあると思うわ」


 ファン・ゴッホは、画業一本に絞って行ったようだ。

 しかし、壽美登くんの言う絵を食べるようにはならなかったのだろう。

 つまりは、絵で食べて行ける。

 生業となるまでには。


「蜘蛛でも巣を作っているような痛々しい表現です。救いはありますか」


「前向きな情報は、この記事を読んではっきりしたわ。先程のハーグへ発って、マウフェから絵を教わったみたいね。油絵も描くようになったのが第一印象よ」


 第一印象どころか、私など油絵しか知らなかった位だ。

 あの『ひまわり』だって、うねる筆致は油でないと出せないだろう。

 今回の旅で、こんなにもデッサンをしていたとは意外だった。


「そうです。油彩も始めたのです」


「それから、モチーフも変化して行ったと思うの。風景や働く人々だけではなくなった印象があるわ。女性のモデルもあったわね」


 ぱっと、ケースから出された画集は、流れるような指使いで再び一発開きをした。

 壽美登くんは職人だと思う。


「これは、人物を描き出した頃の作品ですね。この頁です」


「女性を描いた一八八二年四月の『悲しみ』。画風が変わったと思うわ。油ではないようだけれども」


 読んでみると、黒チョークとあった。

 それに、この女性とは特別な間柄だったらしい。

 また、ファン・ゴッホの女性関係を現代で考察するのだろうか。


「彼がお付き合いしたと思う皆にインタビューしたいです」


「そうよね」


 壽美登くんが立ち上がり、コーヒーメーカーと食器を片付けた。

 そして、引き戸から、床の間へと促される。

 ひまわりの壺のあるあの床の間へ。

 幾つか確かめたいことがある。

 私は、自分の心がはしゃいでいるのを我慢するのに、必死だった――。

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