ひまわり13 一粒の微笑み
居間から床の間まで、ぐるりと廊下を回って行く。
私はスリッパで、ぱたぱたと壽美登くんの後を追った。
シンデレラみたいに用意して貰った緑のスリッパ。
ふかふかしていて、来客用の中でもきっと待遇がいい。
彼は、床の間の引き手に指を入れてはたと止まる。
「開けましょうか?」
「え、出し惜しみなの……」
スリッパのシンデレラは、やはり灰かぶりなのだろうか。
王子様の開けてくれるお城の門で躊躇する。
「いえ、からかっただけです」
「軽い目眩がしますよ。ジャブジャブ」
私は、ボクサーの真似をした。
これを志一にやると、遊んでくれると思って、ガブガブとじゃれて来て可愛い。
弟だって、アッパーの言い間違いでアンパーンと言ってかかって来る。
しかし、壽美登くんは、クールビューティーのようだ。
家に居ると物静かさが際立つのか。
「では」
壽美登くんが、物静かに開けてくれた。
真新しい畳の香りが歓迎する。
「あ! ひまわりの壺の後ろにあった掛け軸は? なくなっているわ」
「美人の孔雀さんとは、壺の相性が悪いみたいで、ご遠慮願いました」
掛け軸のあった所から下に視線をずらして行く。
壺の下に、孔雀色の長い羽が落ちていた。
「きゃああー!」
しかも光っていたのだ。
「あれって、壽美登くんのいたずらなの? 冗談よね」
「いえ、僕は関わっていません。心配でしたら、留守にした小一時間を父母や妹達に訊いてみるしかありません」
私は、首を縦にぶんぶんと振った。
壽美登くんは軽く頷いた。
「それから、あの貫入に触れてからまだそんなに時間が経っていないの?」
「ええ、画集を開いていた間だけ、経過しました」
成程。
コーヒーをいただいていたときも充実していたから、時計を気にしなかった。
けれども、アナログの長針と短針が重なるように戻って来ていたのか。
「それから、ひまわりの壺に変化はありません。しかし、僕は見てしまいました」
「何を……?」
私は喉が辛くなるような思いで、唾を飲み込んだ。
「一輪のひまわりが、咲いていました」
「――え?」
絶句してしまった。
これは、何のホラーだろうか?
「嘘! 冗談なのよね?」
「他の花瓶に、水揚げをして活けてあります。那花流ですが、陶芸をする心得の一つとして覚えておいた方がいいと思います。香月さんも習いますか? 母が師範免状を持っており、看板もあります」
集団催眠の線は弱くなって来た。
本当のひまわりの花がまだ咲く訳がない。
しかし、飾り物かも知れない。
「論点を空気を吸うように変えるわね」
「次いで、那花工房の販売コーナーに行ってみませんか?」
私は貫入を調べたかったが、過去への旅は後にしようと思い、近付くのを止めた。
販売コーナーは、竹藪を抜けて、通りに面した所に構えてある。
「竹の根本に割れた茶碗があって可愛いわ。それに、竹藪は涼しい風もあっていいわね」
「ええ、
そんなオランダの冗句らしきものを微笑ましく思う。
ファン・ゴッホとテオが、風車の辺りで明るく話していたシーンを思い出した。
「ああ、販売コーナーを改装したの?」
「災害後、商品が割れないように、棚にはバーを付けたりしました」
そして、レジなどの一切を任されているのは、壽美登くんの叔父さんだ。
にこやかにこちらへ会釈をする。
「どうも、こんにちは。覚えているかな? よくご両親の代わりに幼稚園のバス停に行ったのは自分ですよ」
叔父さんは、カウンターの椅子を勧めてくれた。
「えーと、えーと。そのような気もしますわ。確か、
「正解ですよ。覚えていてくれてありがとう。叔父さん、モカを二杯奢っちゃおうかな」
「私、見学に来ただけなので、大丈夫ですよ」
随分と商品にしては変わり種の青いコーヒーカップに用意してくださった。
「いやいや……。これで味わってください」
結局ご馳走になった。
「もしかして、壽美登くんが焼いたの? 綺麗な青だわ。飲み口にある黄色のラインが引き締めになっていて、素敵ね」
「二年前のものになります。お恥ずかしい」
売り物ではなくても置いて貰っているんだ。
「菊江ちゃん、綺麗になったね。ははは、蛹が蝶になりそうで叔父さんは目のやり場がないな。やはり、壽美登の彼女かな?」
壽美登くんが、マグを置いて、苦しそうに咳をした。
「笑わないでください。この方とは海の向こう程の差があります」
「ええ? 距離を置かないでよ。ぷんだ」
暫く談笑していた。
空になったモカを置き、壽美登くんが気持ちを教えてくれた。
「ファン・ゴッホの生前売れた絵は一点でした。それに、僕は共感します。ブドウは房になります。その一粒が小さなブドウです。このコーヒーカップは父に認めて貰い、食器として提供できました。ファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』に自分を重ねてしまいます」
「ブドウは、スチューベンやシャインマスカット、
ごちそうさまをして、店内を見て回った。
ああ、これでは陶芸家として劣等感が実っても仕方がないと理系女子の私にも分かった。
専門を行く壽美登くんからしたら、もっと際どいだろう。
「ステルスで触れ回る陰口、聞こえる所の
「OK、OKよ」
彼はまだ肩を落としている。
OKでは言葉が軽かったかも知れない。
励まし隊の香月菊江、登場!
「私は、壽美登くんに、一粒の微笑みを贈りたいわ!」
「一粒の微笑み?
私は、ひっと息を吸ったまま固まってしまった。
いつから私は
ルーブル美術館にも縁がない。
――香月さんが好きです。
心の中で、好き、好き、好き、好きが響いている。
彼に背を向け、顔を覆って立ち尽くしていた。
「どうかしましたか」
私は今度こそ微熱がある。
今、おでこに触られたら熱を移しそうだ。
こんな顔は見せられない。
本当のことは伝えるべきだろうか。
「お疲れでしょうか。ご自宅へ帰られますか? 僕は花戸祭まで送ります」
「余計に駄目だと思うわ」
送られたら、バスの隣に座るから。
窓を開けて外をずっと眺めることになる。
だとしたら、大切な時間が勿体ない。
あれ?
大切だと私は思っているみたいだ。
「無理は言いません」
「八月十五日に花火大会があるわ。そのときにしようよ」
精一杯のお断りだった。
このまま背中を向けている訳には行かない。
頬の紅潮も落ち着いたと思う。
「浴衣を着てね!」
「オッケイ、オッケイです」
壽美登くんが似合わないオッケイサインを出すので、笑いが止まらなかった。
だって、それはウォータークローゼット、つまりはお花摘みのサインだから。
いつから女子かと思う。
私はすっかり笑顔を取り戻した。
そこで、今日はこの辺で帰宅しようと思ったけれども、バッグを置いて来てしまったことに気が付いた。
「私の志一くんバッグどこに行ったかしら。パグ犬のよ」
「探してみましょう。居間と床の間でしょうか」
竹藪を抜ける。
涼しい風が頬を打つ。
風の歌に交じって、「よく来たね、よく来たね、モナ・リザ」と、聞こえて仕方がない。
私は、幻聴の経験がないので限定できないけれども、これは私の妄想だろう。
再び那花家にお邪魔した。
「うーん、居間にはないわ」
「では、床の間へ行きましょう」
素早く移動する。
「孔雀の羽が光っていて、怖いと思わない?」
「いや……。その光の原因は別にあるようです」
私は、目を凝らした。
「志一くんバッグー! 志一くんの目にスワロフスキーを使っていたのを思い出したわ。ごめんね、ごめんなさいね」
「貫入に入る際に落したのでしょう」
また、非科学的な話だ。
「テオの本があったら、ファン・ゴッホ転移が事実だと考え直すわ」
「そうですか」
長身の彼が、腕をぐいっと伸ばして、壺のある
テオのだ。
ヨーが著したテオの本二冊が揃っていた。
「壽美登くんが用意した本なの? 意地悪な質問で悪いけれども」
「真実は、これから分かります。己を信じていれば、愚かな結末には至りません」
ああ、私は転移した後で気絶しなければよかった。
そうすれば、孔雀の羽も一輪のひまわりもテオの本も皆解決できたのに。
唇を噛んでも過ぎたことは致し方ないと、前を向くことにした。
菊江ちゃんって明るいね――。
幼い頃からの長所はポジティブな所だ。
これを活かして、大切なものを自ら手放すことのないように気を付けるしかない。
さて、ファン・ゴッホの旅はこれで終わったのか。
私は女神ではないから、答えは知らない――。
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