第八章 【過去】白い箱庭
ひまわり32 背中の目
私達は、気力が尽きて暫く休んでいた。
ファン・ゴッホの次も気になる。
左耳を切ってしまった事件の後、アルル市立病院へ入院したのだった。
あのときは、壽美登くんが妹さんのことを告白したばかりだったけれども。
今は、落ち着いていると思われる。
何より、愛壽さんが部屋から出ている。
これから、快方に向かえばよいのだが。
そして、皆がそれぞれの場所へ散った。
壽美登くんに誘われて、床の間でテオの本を受け取る。
「ひまわりの壺がなくても大丈夫かしら?」
「テオの本を信じましょう」
私達は、呼吸を合わせた。
「私をアルルのファン・ゴッホがいる病院へ」
「僕をアルルのファン・ゴッホがいる病院へ」
本を十字に重ねると、いつものミルククラウンが落ち、黄色い筒が上がって来て、デジタル時計が歳月を刻んだ。
――一八八八年十二月。
クリスマスイブをテオは病院で過ごすととんぼ返りをしなければならない。
ヨーとの結婚が控えているのだから、ゆっくりもしていられない。
「患者には刺激を与えない程度に面会なさってください」
担当の
「耳に誰かいる。僕の耳の奥から声が聞こえる。調べればきっと何かが潜んでいるのが分かる筈だ」
ファン・ゴッホは寝ているのか起きているのか、唸っていた。
「誰だ! 名前を明かせ。僕の背中には目があるんだ」
傍にいた影が、次第に癒しの波を寄せる。
「テオだよ。安心して、兄さん」
「おお、テオだったか。久し振りに会えて嬉しいよ」
にこやかに挨拶をしていて、暫くは安定している。
所が、ぐわっと顔中の皺を真ん中に寄せて、苦しがる。
「僕の哲学を壊す者がいる。僕の神学を破壊する者がいる。世の中、煩い奴らばかりで、何も聞いていたくないんだ」
「兄さん、もう大丈夫だから、安静にするのが一番だよ」
再び、ファン・ゴッホが眠るとテオは病室を出る。
そして、列車で自宅に帰ると、先ずはこのことをヨーに綴った。
「今も、生きているのかそうではないのかも分からない。兄さんは、危ない状態だ」
テオが面会しているときは、ファン・ゴッホは状態がいい。
しかし、離れなければならない事情もあった。
『郵便配達人ジョゼフ・ルーラン』のモデルとなった彼や近くの
だが、テオが心配していたことが起きてしまった。
その後、ファン・ゴッホは容体が悪くなり、病院の特別な部屋で見守られる。
――翌、一八八九年一月。
年が明けると、ファン・ゴッホは文を認められる程に回復する。
「親愛なるテオへ。もう少ししたら退院するよ。そんなに心配しないでおくれ。それよりも、友達だと思っていたゴーギャンはどうしてお見舞いに来てくれないのか。僕はもう嫌われてしまったのだろうか」
一週間もすると、黄色い家へ帰った。
「筆がのりそうだ」
ファン・ゴッホは、この年一月の間に、『フェリクス・レー医師の肖像』、『包帯をした自画像』に『包帯をしてパイプをくわえた自画像』を仕上げている。
描きかけだった 『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』も完成させた。
そして、十五本の『ひまわり』二点と十二本の『ひまわり』もだ。
これは、ファン・ゴッホにとって、新しい年の始まりだろう。
「壽美登くん、意欲的だわね。とうとう、模写版のひまわりを描き始めたわ。これで七点揃うわね」
壽美登くんは、ひまわりを描くファン・ゴッホに見入っている。
陶芸をするときと同じなのだろうか。
何事においても集中できるものがあるのは、素敵なことだと思う。
「何か吹っ切れたのでしょうか。格段に筆の運びがいいです。この間まで、心の生死を彷徨っていたとは思えません」
ファン・ゴッホは再び手紙を書く。
この行為そのものが、自分を省みる方法として効果的なのではないかと思った。
「親愛なるテオへ。僕は前程酷い症状を感じなくなったよ。だから、安心しておくれ」
そして、ファン・ゴッホは煙草を手で転がして、溜息を一つ吐く。
「テオよ、幸せな結婚を僕も望んでいることを忘れないでおくれ」
私は、ファン・ゴッホは基本的には優しい人で、それが上手く行ったりそうでもなかったりする相手があるのだと思った。
――同年二月。
「親愛なるテオへ。毒だ。僕の背中に目があることを知らないで、内緒で毒を盛ろうとしている者がいる」
ファン・ゴッホは、また具合を悪くしたようだ。
アルルがざわついて来た。
「止めてください。あの自称画家がアルルにいるだけで、皆、特に女の人や子どもに恐怖を与えています」
そんな声を纏め、アルルの人々は警察を頼った。
「市井の人々から、請願書が出されております。警察署長」
「直ぐにでも病院へ連れて行け。市長にも話を通す」
ファン・ゴッホは強制的に病院へ入れられた。
「僕は、何もしていないのに、どうしてなんだ」
――同年三月。
ファン・ゴッホは一人部屋で、絵を描く自由も奪われた。
「鍵を外せ! 何故見張りまで必要なんだ」
三月は殆ど、監禁されて過ごした。
「テオよ。この頃、便りもないな。ヨーとの結婚が楽しくて、気分は真っ赤な太陽を浴びているのだろうか。テオにまで見捨てられた」
寂しくて、彼のオーラに青紫を感じる。
私は、オーラとか、非科学的な話をしてしまった。
そんな折、新しいお見舞いが来た。
「私は、画家のポール・ヴィクトール・ジュール・シニャックだが、見知っているかな」
「今の僕には分からない」
ポール・シニャックは、憐れんでいるような表情で、優しく提案した。
「レー先生も含めて、三人で黄色い家へ行こうか」
ファン・ゴッホは寝返りを打って、彼の話に興味を示した。
「本当かい?」
実際に、黄色い家に行ってみると、周りの様子が変わっていた。
ポール・シニャックがこの地の変化を教える。
「最近、ローヌ川が氾濫したのだよ。作品が無事だといいが」
「何ということだ。あれも、これも、ああ、どれも気に入っていたのに」
取り乱すファン・ゴッホに、ポール・シニャックは、過去を振り向くよりもこれからのことに光を与えた。
「傷んでしまったが、落ち込むことはないよ。これから、描いて行こう」
ファン・ゴッホは暫く考えていたが、面を上げると、これまでになく瞳が輝いていた。
「おお! ポール・シニャックではないか。パリで新印象派の画家だ。点描がきめ細やかな。よく来てくれた」
「絵画に損傷はあってもパリ時代に拝見した作品とはまた一段と個性が出ており、それも熟していると見受けられる。素晴らしいことだ。ゆっくり養生するといいよ、ファン・ゴッホ」
ファン・ゴッホは、ポール・シニャックの手を取り、誓った。
「ああ、僕はこれからも絵を描くよ。それが僕の生業だと感じてならない。今、まさに」
そうして、三十六歳を迎えた。
――同年四月。
「レー先生、僕は退院なのですか」
「長く入院することはよしとされないのだよ。よかったら住まいを案内するが」
「一人暮らしは怖い。何よりも自分が怖いです」
「どうするか、決めたかい?」
「親愛なるテオへ。サル牧師が知っているサン=レミの療養所に移りたい」
――同年五月。
サン=ポール=ド=モーゾール修道院に入った。
「長く入るつもりはないが、療養所を頼るしかない」
ファン・ゴッホは、こうして楽園に自ら身を置くことにした。
テオの本が開いたり閉じたりして騒ぐ。
私は、本を取り押さえるが、暴れ回る。
その隙間より輝きながら滲む文字があった。
「何ですって! 『最期』とあるわ」
私は、血の気が引いた。
「香月さん、それは本当のことなのですよ」
「だって、こんなこと先に知ってしまったら、私はもう旅ができないわ」
壽美登くんは、私の頭をくしゃりと撫でてくれた。
こんなこと恥ずかしいけれども、本当は彼の胸に飛び込みたい。
何故かなんて神様は教えないものだ――。
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