ひまわり33 伸びやかに
「ファン・ゴッホくん、療養所の一室を画家である貴方にお貸ししよう。自由に使っていいよ」
「それはありがたい。僕は、画家ですから、画室があると自由に描けると思う。院長先生」
院長
カルテに、ファン・ゴッホが発作に苦しんでいるのは、てんかんの可能性が高いと記している。
「僕は、療養所の庭が好きだ。目移りする程に美しいものがある。流石にアルルに近いだけあって、気候もいい」
散策をしている内に、青い花が目に飛び込んで来た。
「おお! アイリスか。これは描いてくれと誘っているのかな」
油彩に取り掛かる。
イーゼルに面し、パレットを持って筆を握った。
サクリ、サクリと踊るように描く。
「以前、壽美登くんが『ひまわり』の模写をすると言っていたけれども、どうなったのかしら。ひまわりが腐った絵を描かなかった?」
「何故、腐ったひまわりの花を描くのですか。僕はそんなに愚かではありません。ああ、若い頃ですか。モチーフが腐ってしまったので、絵の中でも腐らせたことがありました」
気不味いことだったのか、彼は頬を紅潮させた。
「若いの過去形かな。私達、まだ若いわ」
壽美登くんは、一つ咳払いをした。
ファン・ゴッホと『ひまわり』について熱く燃えるようだ。
「名画『ひまわり』は、油彩でのみ発揮できる素晴らしい技法も使っていると思いました。例えば、うねるような筆致にそれを重ね塗りして行く重厚感も堪らなく魅力的です。色彩については、赤色に対して緑色のような補色を意識しているようでした」
壽美登くんは、もう一つ唸った挙句、捻り出した。
「それから、マティエールと呼ばれる質感も素晴らしいです。ファン・ゴッホは、努力型の天才なのではないかと帰結しました」
この月、療養所の庭にモチーフを求めて、『アイリス』に発色の良い青が使われた。
――同年六月。
病院にある画室では物足りなくなり、外でも描くようになった。
瞳に飛び込む世界を直球ではなく変化球的に表すことに成功している。
海から波打つ夜の星々が、三日月とともに蛇行して描かれているのが特徴的な『星月夜』が制作され、左側には初期の
次に、『二本の糸杉』は、どっしりと構えた杉の様子に、男女が立ち並ぶ姿が思い浮かぶ。
向こうの景色を遥かに凌ぐ存在感が堪らない。
このお菓子を高乃川様の所でいただいて来た。
粋なご趣味だ。
それから、『オリーブ畑』も木々が捻じりながら林立している情景を描いている。
「随分とぐねぐねとしているわね」
私は、間近に見る重厚で渦を巻いたようなタッチに惚れこんでいた。
そこへ、テオからは、私とは異なる視点で手紙が届く。
テオの本がパンと開く。
「親愛なる兄さんへ。色への探求は認められるよ。だが、実物の姿を誇張するのは、如何なものか。兄さんが頭を使い過ぎて倒れないようにして欲しい。発作は辛そうだからだ。どうにかならないものだろうか」
手紙だ。
何か差し迫ったものがあるのか。
「テオが心配してくれているよ。よかった。見捨てられていなかったのだ」
――同年七月。
「親愛なるテオへ。ヨーが身籠ったとは大ニュースだ! おめでとう、テオもとうとう父親だ。僕も感慨深い。けれども、寂しさは拭えないな」
「親愛なる兄さんへ。子どもは来年産まれるそうです。神様のお陰で、悩みを払拭すべく、一条の光が射し込んで来ました」
アルルに出掛けたとき、ファン・ゴッホはふいに発作を起こし、苦しみの中に落とされた。
「またか……」
――さらに、同年八月。
「……う、うぐっほ」
ファン・ゴッホは、発作の再発に続く再発を野外で起こした。
「僕は、どこにいるのだろうか? ここは、サン=レミの筈だが。……テオ? テオはどこだ?」
ファン・ゴッホからはどす黒いオーラが漂っている。
これは、悪い病にあるからなのか。
いや、もっと鬼気迫るものがある。
生死を彷徨っているのではないかと推察された。
苦しい夢の中にいるのだろう。
「壽美登くん、ファン・ゴッホって、可哀想な人生なのね」
「安易に可哀想と決めつけない方がいいと思います。病気の症状なのです」
私は、壽美登くんのシャツを掴んだ。
その割り切った考えが腑に落ちなかったから。
――同年九月。
「僕は今までどうしていたのだろうか?」
「ファン・ゴッホは長い発作が続いていたのだよ」
院長先生の言葉に、認めざるを得ないものがあったのだろう。
彼は、ただ、じっと聞き入っていた。
「外で絵を描いていたときに、既にこの世にいなかった感じがする」
「やっと意識が戻ったのだから、好きなことをし、養生するといい」
彼は静かに頷いた。
再び外に出て行くこともあった。
風景が主なモチーフだが、『麦刈る男』は一面の黄色から妖精でも飛び出しそうだと思う。
他にミレーの農民を描いた作品を好んで模写していた。
「模写は、詰まらなくないのかしら」
「香月さんにも模写をお勧めします。いい勉強になります」
「見学だけでお腹が一杯ですわ」
――少し先へ行き、同年十二月。
ファン・ゴッホは再び長い発作を起こした。
この頃は、発作には打つ手がなかったのかと疑問に思う。
――明けて、一八九〇年一月。
アルルへ出掛けた後に、頭を抱える程の発作があった。
所が、いいニュースもある。
テオとヨーの間に息子が生まれた。
その名をフィンセント・ヴィレムとするとの知らせを聞いたファン・ゴッホはどれ程喜んだことか。
「ふふんふんふん。僕も伯父になったものだな。一つ、誕生祝いを制作しよう」
彼の為の枝ぶりのいい花を用意した。
それは、『花咲くアーモンドの木の枝』だ。
「これを贈ったら喜ばれるぞ、がんばったな。テオ、お父さんになったのか」
その後も制作をしたり、発作を起こしたりしていた。
こうして、好調と不調を繰り返しているときは辛さも増すだろう。
――この一八九〇年四月。
ファン・ゴッホも三十七歳になった。
「テオドール・ファン・ゴッホです。フィンセントの実弟です」
ノックをすると、野太い声が返る。
「入り給え」
院長先生は、テオに病気の説明をした。
「意識がはっきりしているときは、絵の制作でも会話でも十分できるのだが、発作の間は混沌としており、行動にも不審な点が多い。それが、ファン・ゴッホだ」
「院長先生、兄は手の施しようがないのでしょうか」
「ふーむ。彼の絵で生業を感じてくれたなら、伸びやかさを覚えるとは思うけれども」
「親愛なる兄さんへ。今年になって、評論家の
「おお、それは」
ファン・ゴッホは読み進めて行く。
「ブリュッセルでの二十人展で、『ひまわり』や『果樹園』を展示すると、かなり好評でした。翌月、そこに展示されていた『赤い葡萄畑』が、兄さんの人生初の四百フランで売れたのですよ……!」
「おお、テオ。僕は初めて画家になったのかな……? 売れたのか……」
「また、三月には、パリでのアンデパンダン展に僕が『渓谷』等を出品すると、ゴーギャンやモネ等からいい絵を描くと聞きました」
ゴッホは、手紙を胸に抱く。
「そうか、僕の時代が後から追いついたのか。よかったよ――」
認められることが必要な彼には、とてもいい治療だと思った。
――同年五月。
ファン・ゴッホは、少しよくなったようだ。
サン=レミに来て、一年も経つ。
ぼんやりと真ん中に佇む杉の『糸杉と星の見える道』を描いて、ここでの筆を置いた。
パリで暫くテオと一緒に過ごす。
けれども、ファン・ゴッホの意思はまさかの事態と呼ぶ。
「すまないが、パリは賑やかだ。それにヨーや子どもがいては、僕も邪魔だろう」
「そんなことはないよ、兄さん」
「僕は、ピサロの紹介で、医師の
オーヴェル=シュル=オワーズに移った。
ファン・ゴッホよ、貴方がここで静かに二百もの絵を病院で描いたのは、卒論の旅で知った話だ。
画集にもあったし、テオの本にもある。
私は、彼を未だかって表面でしか捉えられないようだ。
夏に燃え、炎のような芯を持つ人、ファン・ゴッホ。
絵を描いているときは大人しく、果てしなく集中している。
学ぶ所の多い人だ――。
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