第九章 【現在】夏風のひまわり
ひまわり34 パーン
――その五月。
ファン・ゴッホは、医師、ポール・ガシェと面会した。
既に三十七歳になっていた。
「この医師は美術愛好家で有名だそうです」
壽美登くんの解説が付いた。
成程、それでテオもお願いしたのか。
ファン・ゴッホは、宿を頼んで、ガシェ医師の家へ通った。
会話の内容は、持論の絵画論から思想に関することだ。
「そうだな、テオも誘おう」
いつもの郵便を頼った。
「親愛なるテオへ。オーヴェルの田舎暮らしはいい。家族揃って遊びに来たらいいだろう」
テオは、兄からの手紙を机に広げていた。
「兄さんは、僕らをオーヴェルへ呼びたいんだね。いつかは行かないとならないな」
――同年六月。
「兄さん、皆で遊びに来たよ」
「おお、よく来た。ヨーも赤ちゃんも元気でよろしいな。ガシェ医師一家と食事を一緒にどうだい」
それから、皆で散策もした。
ファン・ゴッホはとても喜んでいる。
心地よい日を過ごせたようだ。
「親愛なるテオへ。幸せなことってあるものだな。また来て欲しい」
この間も精力的に描いた。
渦が沢山あるのに自然な印象の『医師ガシェの肖像』、想い出の『オーヴェルの教会』、どっしりとした『夜の白い家』、白く細長い姿の綺麗な『ピアノを弾くマルグリット・ガシェ』が特徴的だ。
一方、テオの方は生活が大変だった。
妻も子どももいることだから、安定した仕事をしたいと思っている。
しかし、会社側と意見が合わないこともあり、ヨーの兄と独立して絵を売る仕事をしようかと考えていた。
「親愛なる兄さんへ。僕は、生活の上でとても悩んでいる。その上、ヨーも息子も体の具合が悪いのだ。もしかしたら、僕が悩んでいるからかも知れない」
――同年七月。
「テオ、どうしたんだい」
ファン・ゴッホは、弟一家へ駆け付けた。
久し振りに会うテオは疲れているようだ。
「兄さん。随分と早く到着したんだね」
「テオの為だろう」
ヨーは、義兄が来ていることを知らずにテオにコーヒーを運んで来た。
ファン・ゴッホは、息を切らしてそれをいただく。
カップは割れない程度の音を立てて置かれた。
僅かの間に、テオ達の態度を敏感に感じ取ったファン・ゴッホは、踵を返す。
「よく分かったよ。僕は、これでオーヴェルへ帰る」
「兄さん、皆が来るまでゆっくりして行って欲しい。遠くから来てくれたのに」
ファン・ゴッホは、ここに他の画家も集まる予定もあったが、背中を丸めて去った。
オーヴェルにて、ファン・ゴッホは、苦しい胸の内を明かした。
「親愛なるテオへ。テオの家庭の問題と僕が絵を描くことが深く関わっている件について、分からないでもない。こんなときでも僕は問題となっている絵を描くしかない。『荒れ模様の空の麦畑』、『カラスのいる麦畑』、『ドービニーの庭』は仕上がった」
「親愛なる兄さんへ。仕事の話は議論がある所だが、家庭の問題はないから、大丈夫だよ」
「親愛なるテオへ。テオ、家庭の問題が平和へと導けるか、全くの逆になるか、どちらとも考えられる」
これきり、ファン・ゴッホは手紙は寄越さなくなった。
私達の持つテオの本にも手紙そのものの記述はなくなった。
本に対しておかしな表現だが、しおれたようだ。
最愛のやり取りをする相手がいないことが、本そのものにも伝わったのだろうか。
「テオは、僕の画業や療養の支援をすることで、家庭が荒れてしまっているのだろう。あのやつれた姿で、全てが分かった。僕も兄なのだからな、テオ……」
そして一八九〇年七月二十七日へと流れる滝のように運命が行く。
パーン!
――ファン・ゴッホ、銃声に倒れる。
オーヴェルの宿に帰って来たファン・ゴッホはぐったりとしていた。
どうやら怪我をしているようだ。
そこで、ガシェ医師に診察されたが、直ぐにテオに連絡をして、見守る措置が取られた。
翌、二十八日朝、テオが辿り着いた。
「兄さん!」
「……テ。……テオ」
ファン・ゴッホの意識は残っている。
「どうしてこんな……。死んではいけない。死んではいけないんだ!」
「いや、死んで行きたいんだよ……。迷惑な僕は」
ファン・ゴッホは、聞こえてはいるようだった。
「何を迷惑だなんて……」
テオは涙声を我慢した。
「僕の子どもをよく見てくれたね。彼も『フィンセント』だ。兄さんと同じ名前なんだよ。これから長生きをして、立派な伯父となってくれるのではないのかい?」
ぐったりとした彼は、もう休みたがっている。
私は、神様にファン・ゴッホの安らぎをお願いしていた。
壽美登くんはどう思っているのだろうか。
隣の彼を視野に入れる。
強張って頬を濡らしている横顔がある。
おすましではない彼は初めてだ。
私は胸が詰まり、自分の涙が引きそうだ。
「兄さん!」
一声あり、私は正面を向く。
テオは、ファン・ゴッホを諦めなかった。
「兄さん、この頃、兄さんの絵は評判がいいと話したばかりだろう? 四百フランの値が付いたんだよ! 兄さん、兄さん……」
「テ……」
それ以上先の名前は分かっている。
弟、テオドルス。
テオの名前だ。
「僕は、ここだよ。いつも傍にいるからね」
二十九日の深夜一時に、命を落とした。
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ、三十七歳の若い魂が、抜けた……。
七月三十日、しめやかに葬儀が執り行われた。
◇◇◇
――その年の九月。
テオのアパルトマンで、ファン・ゴッホ回顧展を催した。
その後、テオは体調不良を訴えて、入院する。
――翌、一八九一年一月。
「兄さんの所へ……。僕も逝くからね」
まさか!
私はテオまでとは思わなかった。
動揺したのか、胸の前で抱えていた本が震え出す。
「神よ、ヨーと息子のフィンセントをお願いいたします。そして、兄さんの遺した絵を――」
二十五日に、テオが兄を追うかのように亡くなった。
まだ、三十三歳と若く優しい弟が。
◇◇◇
私は暫く青ざめていた。
人が魂を抜かれて行く場面を続けざまに見送ったものだから。
気分転換しなくては、吐いてしまいそうだ。
何か明るいもの。
明るいのは、そうだ、ひまわりだ。
私達が追っていたけれども、花に罪はない。
「壽美登くん、咲き乱れるひまわりの花の中で、一緒に楽しみたいわ」
彼の頬を確かめると、もう泣いていなかった。
「もう直ぐ、それも叶いそうです。ほら、ミルククラウンの落ちる音が聞こえて来ました」
間もなく、私達は現在へと転移して行った――。
「あれ? ここは壽美登くんのお家の居間だわ」
「足腰は傷みませんか?」
普通に立ち上がれた。
「ええ、大丈夫みたい。――今回はきつい旅だったわね」
チャララチャラ……。
彼が私のフィーチャーフォンが鳴っていると、バッグのまま持って来てくれた。
「もしもし、ママ」
「菊江ちゃん、よかったわ。心配したのよ、ママ。一学期末まで、家にも学校にもいなかったって分かる?」
「ええ!」
居間のデジタル時計には、八月一日月曜日とある。
「学校へは、壽お母さんと私が病欠と届けたからね。お楽しみの成績表は、お家で見てくださいよ。皆、待ってます」
ファン・ゴッホの葬儀まで追って帰って来た所、八月一日になっており、初めて転移先と現在の暦が一致したのか。
「それでは、また明日ね。校庭で!」
私は、元気よく手を振る。
明日がある。
今日は別れても明日……。
永遠に続いて欲しい明日がある。
泣かないで帰れた――。
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