ひまわり29 沁みる愛しさ

 女の子のようだ。

 もしかしたら、妹さんだろうか。


「待って! 美愛さんよね。二階から来たの?」


 以前会ったときよりもすらっと背が伸びていた。

 那花のお父さんに似ているらしく、切れ長の目を寄越されると怖い気がする。

 ボブヘアで猫Tシャツにピンクのホットパンツを穿いている。


「その滴っているものを渡してくれないかしら」


 私は、へっぴり腰ながらも妹さんに近付く。


「いもちゃんは、洗面所に片付けに来たんだよ!」


 シャンプードレッサーの蛇口に美愛さんが手を伸ばしている。


「だってほら、何だかその布が赤くなってないかしら」


「これはおねえのだよ……」


 二階で悲鳴を上げたお姉さんが使ったのか。

 もしかして、血まみれになっているのだろうか。


「まさか、耳を?」


 お姉さんが、耳切り事件を起こしたとでも考えているのか。

 ひまわりの壺の呪いかと考えると背筋に冷たいものが走った。

 いやいや、非科学的だ。


「菊江ねえね。耳をどうしたってさ」


 そうか、妹さんの方は私達がファン・ゴッホのことを調べているのを知る訳がない。

 ましてや、有名ではあるが、ファン・ゴッホの耳切り事件を切り出す訳にも行かない。

 ナイーブなお年頃を刺激してしまう。


「いもちゃんは、布を絞ったらもう一回行くの」


「とにかく、私も二階の様子を窺って来るわ」


 できるだけ早足で階段を踏んで行った。

 壽美登くんにもそのご家族にも何かあってからでは遅いから。

 後から足音がするから、きっと妹さんだ。


「お父さん、どうしたのですか。日頃、物静かなのに」


 壽美登くんがお父さんを羽交い絞めにして止めに入っていた。


「どうにもこうにも、これだ!」


 美樹お父さんの鼻息が荒い。

 愛壽さんの方に顎を向けている。

 ぼさぼさ頭に灰色のパジャマ姿だ。


「愛壽さん、何を持っているのかしら」


「今は取り込み中です。香月さん」


 タイミングが悪かった。


「ああっはっはは。お兄さんて呼んであげるよ! 例のものじゃないのさ」


 桐箱を抱えている。

 壽美登くんも私と同じくやっと気が付いたようだ。


「それって、ひまわりの壺だわ」

「それは、ひまわりの壺ですね」


 私達は声を揃えた。

 ドアは勢いよく閉められ、鍵の音がする。

 箱も愛壽さんも隠れてしまった。


「だったら、もう帰って! 皆、要らないんだから!」


 愛壽さんの自室の前が赤く染まっているのが気になった。


「愛壽さん、いい子だからお母さんに壺を渡してくれない? 大切な預かりものだからね」


 ドアの前でノックをし始めた工房のエプロン姿がある。

 髪を纏めている女性、私の後から来たのは美愛さんではなく、壽お母さんだった。

 そのことから、ご両親も工房を留守にしている。

 今は工房に美都叔父さん一人だろう。


「嫌! 誰にも会わないから、帰って。それに壺の方が大切なのでしょう?」


 ひまわりの壺を持ったまま自室に引きこもってしまった。


「愛壽よ! 愛壽! お父さんが詰問して悪かったよ。お前は壺にひび割れを作ったりしていないから。信じるから」


 那花くんのお父さんは、拳でドアを叩いたり、ドアノブを引いたりしている。

 力に出るタイプだとは思わなかった。

 壽美登くんがとても物静かな方なので、お父さん方もそうかと思い込んでいた。


「愛壽さん! お母さんも悪かったと反省しています。昨日のお味噌汁は冷めると辛く感じますよね。今度は甘くするわ」


 壽お母さんがお料理を差し入れているのか。

 織江ママは殆どお料理をしないタイプなので、それだけでもぬくもりのある母性を感じる。

 子どもはお母さんは選べないとか心が寒くなる話があるけれども、それでも、お母さんは子どもを授かる権利を持って、その子の為にも誕生して来たのだと思う。

 連綿と続く家族の絆は、父親にも勿論ある。

 お子さんが望めない場合もあると思うけれども。


 ファン・ゴッホもこんな包み込むようなお母さんが欲しかったのか。

 一度でいいから、エッテンからアルルまで、お母さんにファン・ゴッホのお見舞いへ来て欲しいと思っていただろう。


「おねえ! いもちゃんだよ。もう、ひまわりのイタズラはしないから、出て来て」


 いもちゃん?

 妹さんだから、そのニックネームなのか。

 ひまわりのイタズラって何だろう。


「美愛さん、ひまわりのイタズラって、何?」


「あわわわわ……」


 彼女は、急に口を覆った。


「ごめんなさい。ひまわりの壺に花を挿したのは、私です」


 半べそで謝り出した。

 何だ素直な子だ。


「美愛さんだったのですね。後でお話を聞かせてください」


 おう。

 壽美登くんが何となく怒っていませんか。


「愛壽さん、壽美登です。開けてくれたら嬉しい。素敵な花をひまわりの壺に飾りましょう。今度、高校へ行きましたら、ひまわり畑へ入って貰って来ます。とびきりのを何本がいいですか」


 ドア越しに、那花家皆さん勢揃いで、愛壽さんに話し掛けている。

 私は何もしなくていいのだろうか。

 勇気を出して、お邪魔かも知れないけれども間に入ってみよう。


「こんにちは。愛壽さん。よくお邪魔させていただいている、隣に暮らしていた香月菊江だけれども、覚えているかしら」


 ドアの向こうが静かになった。

 何かをしているか、冷静になったかのどちらかだ。


「私は、お兄さんの壽美登くんと一緒にファン・ゴッホの芸術と人を追う『ひまわり』の卒業論文を準備しているの」


「だから?」


 冷えた声だが、釣り針に掛かって来た。


「ファン・ゴッホは愛に飢えていたのだわ。自分の絵も認められず、親しい友人もなく、孤独なようだった。そこへ、黄色い家で共同生活を送りながら制作もする画家との生活が叶うようになったのよ。とてもハッピーな気分でワインを開けたのが最初の日だったわ」


 愛壽さんと関係のある話にしなければ。

 ファン・ゴッホを語っていると、耳切り事件の話になってしまう。


「二人に辛いことがあり、弟さんのテオはどんな状況にあっても、兄のファン・ゴッホへお金を送ったりと世話を欠かさなかったものなのよ。愛壽さんと美愛さんは、とても仲良しね。双子の姉妹愛が強いって、尊敬するわ」


 ドアの向こうで、ドンドンと音がする。

 地団駄を踏んでいるのか。


「そのファン・ゴッホと仲間のゴーギャンは大変な喧嘩をしてしまって、とうとう友人が出て行ってしまったわ。そのときのファン・ゴッホの擦れた心は痛々しくて、恐ろしい事件に発展してしまったのよ」


 しまった。

 結局、耳切り事件に触れてしまった。


「私も壽美登くんもその哀しみに触れて、ファン・ゴッホが病院で静養するのが一番いいと思っているわ」


 私は、壽美登くんに、アイコンタクトを送る。


「愛壽さん、沁みる愛おしさがあると思います」


 ナイスフォローだ。

 流石は兄。


「この床に飛び散る血液は、美愛さんが雑巾で拭いていたものよね」


 私は、美愛さんから絞った雑巾を借りて、続きを拭き始めた。

 いもちゃんは荒れたと聞いたけれども、優しい人だと再び確認した。

 バケツに絞ること二回で、まあまあ拭き取れた感じがする。

 そこで、那花くんのお母さんに目をやる。

 とても動揺しているようだった。


「初めてのメンスが来たのでしょう。おめでとう、愛壽さん」


 私は丁寧にお辞儀をする。


「愛壽さん! 本当なの? ああ、お母さんはお赤飯を炊かなくては」


 喜んで貰ってよかった。

 那花くんのお母さん。


「お母さん、違うのよ。初潮には違いない……。けれども、私の笑いが止まらないのはそこではないのよ」


「何かあったの? 愛壽さん」


 ハハハ……。

 クククク……。

 愛壽さんが、高めの声で泣き笑いをし始める。


「お、おか、お母さん……。私、ドア前のご飯を受け取ろうとしたときに泥棒に遭っちゃった。クハハハ!」


「何を盗まれたのかしら? お母さんに話してくれる? 何でも怒ったりしないから」


 暫くの沈黙があった。

 ブツブツとドア越しに独り言がある。


「愛壽! まさか、ひまわりの壺ではあるまいな。お父さんが預かったんだ。他へ渡してはならないものだ」


「そんな欲張りは、私の知っている父親じゃない」


 愛壽さんが突っぱねた。


「じゃあ、何だ? 愛壽」


「私の愛……。それから、私の幸せ……。無理矢理、盗まれたの」


 躊躇ためらいがちに、涙声で愛壽さんが、告白した。


「は! もしかして……」


 その場にいた美愛さん以外、皆、分かってしまったと思える。


「愛壽さん、お母さんに教えて。美都叔父さんが、この部屋に近付いたってこと?」


 お母さんの話が終わる前に、お父さんが怒り出した。


「あの野郎――! 待ってろ、締め上げて来る!」


「お父さん、血圧が上がりますから。僕も行きます」


 壽美登くんも飛び出したので、私も付いて行った。

 沁みる愛しさを分からない人もいるものだ――。

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