第七章 【現在】工房の生業

ひまわり28 隠された名画

「壽美登くん、過去の『ひまわり』からサンプルを取れないかしら。志一くんバッグが転移の筒を通れなかったから、無理かも知れないけれども。本物の『ひまわり』で電気泳動をしてみたいわ」


「残念ながら、サンプルを持って行くことは厳しいと思います。レントゲン撮影は後の一八九五年となりますからこの時代にはありませんし、それも難しいでしょう」


 現在と過去のものは持ち運び不可能だ。

 私は、研究者としての血が疼くけれども。


「そうか、現物の持ち込みができない環境で調査をするのね」


「実際、卒業論文にその実験データを載せたとして、誰が信じるのでしょうか」


 そうか、一八八八年の『ひまわり』ですって、嘘を書くなと叱られそうだ。

 そこへ、壽美登くんの提案があった。


「では、視認で行きましょう。黄色い家へ行きませんか」


 私達は、病院を後にし、立ち入り禁止になっていた黄色い家に入って行った。


「この三本の『ひまわり』は、画材を大切にして、下に何か絵が描いてある気がするわ。壽美登くんも観察してみて」


「まさか、ひまわりの壺ではないでしょう」


 ひまわりの壺ならば、花瓶を描いているのだから、描き直しの何かがあっても不思議ではないと思う。


「いいえ、もっと複雑な、人物のようなものだわ」


「左側を向いた女性ではないでしょうか」


 私は閃いた。

 彼女だ。

 唯一の存在で、愛情を最も欲した。


「アンナなの?」


「この目が落ち窪み、頬骨のごつっとした感じが似ています」


 その雀が三羽止まっていた宿を目印にする表現は止めて欲しいと思う。


「この国の人なら、そんな特徴だけでは断定できないわね」


 私ったら、意地悪をしたつもりはないけれども、壽美登くんを苛めてしまった。

 壽美登くんの様子では、動じていなかった。

 彼は、余程のことがない限りショックを受けない。

 それでも、愛壽さんと美愛さんのこととなると別のようだが。

 彼は暫く絵の前で唸っていた。


「筆致を拝見いたしますと、完成させる為に描いたのではないと思えます。寧ろ、思いの丈を打ち明けるように、後で消す予定で描かれたと推測できます」


「お母さんが恋しかったのかな……。他に閃いたことは、『ひまわり』でひまわりの花が五本のものは、画面下部に花が項垂れているわ。これにもあるかしら」


 丁度、隠し易そうな絵だ。


「これは、現在戦火で焼失しておりますから、貴重です。茶色い花の種がある所と濃い背景に、何かがありますね」


「ん? 男性かしら」


 少し鼻も高い。


「分かりにくいですが、友人をモデルにしたのだと思いますよ。近所の画家であるとか」


「あ! ゴーギャンではなくて?」


 他に散らかっていた部屋で、ゴーギャンの素描があった。

 私は、それを壽美登くんに渡した。


「暫く前の木炭で描いたゴーギャンに違いありませんね」


「他にもファン・ゴッホの『ひまわり』は描き連ねられて行くのでしょう」


 今はファン・ゴッホは治療に当たっている。

 これからどうなるのだろうか。


「そうですね、機会がありましたら、それらもよく確認しましょう」


「卒論では、虫眼鏡で凝視したと書いてもいいかもね」


 私が笑顔で返すと、壽美登くんは背中を向けてしまった。


「とにかく、僕達は今ここに居てはけない人物ですから、ファン・ゴッホのお見舞いは後にして、現在へ向かいましょう」


「分かったわ」


 テオの本をお互いに出す。


「現在の壽美登くんの家へ」


「今ある那花の家へ連れて行ってください」


 遠くで雫の落ちる音がした。

 ときの神でもいるのだろうか。

 それが落ちて、粘性のあるミルクの場合は王冠のようになる。


「来たわ」


「僕らを引き剥がさないでください。転移の成功を祈ります」


 ミルククラウンの次は、黄色い筒にデジタル時計が歳月を刻んで行った。

 そろそろ着く頃に、私は重い眠気に襲われて、遠くで木槌の音を聞くと、再び放り出されて、気を失った。


 ◇◇◇


「……また?」


 私は頭痛を訴えた。

 堪らなく痛い。

 壽美登くんはやんわりと微笑んでいて、頭痛はなさそうだ。


「目が覚めましたか。ココアでも如何でしょうか」


「お湯位私が沸かすわよ」


 そうは申し出たものの、ヤカンも電気ポットもない。


「お湯はどうしているの?」


「一瞬で沸くこの電気ポットを使っています」


 一リットル位入りそうな小さな湯沸かしだった。

 テレビでCMを見掛けたあの商品か。

 シューと沸いて、お湯のストッパーをボチリと押す。

 そのままメジャーカップで計量して、ホットミルクの完成だ。


「へえー。那花家の近代化に香月家は負けているわ」


「お家の暮らし方に合った方法がいいと思います。うちも共働きのままで、愛壽さんも美愛さんもキッチンに下りて来ませんから」


 あー。

 墓穴を掘ってしまった。


「あのね、今思い付いたのだけれども、私は突然那花家に訪れたり帰ったりしていない?」


「ごく普通にしておられますよ。でも、寝不足なのでしょうか。直ぐに居間で意識を失ってしまいます」


 床の間ではなくて居間でだとは、転移で居間に飛ばされたり、床の間から壽美登くんが運んだりした訳ではないのか。


「気を失ってごめんなさい」


「毎回、起き上がると元気を取り戻されるので大丈夫だと思います。でも、受験勉強のし過ぎに気を付けた方がいいと祈っています」


 私もそこそこ受験対策をしているけれども、殆ど家庭がシングルマザー状態の今、家の手伝いもしない訳には行かない。

 太翼は塾へ行っているが、ママのお財布からは二人分の費用は捻っても出ないらしい。


「受験勉強はぼちぼちよ。それより、今は卒業論文の最中でしょう」


「そうでした。夏が本番です。高校を卒業できないと、推薦も受験もありません」


 私の考えている進学先は、同じ学校の学生さんと結婚して授かったお子様が大学を受験する場合、何事もなければ親の七光りで入学できるらしい。

 ええ。

 私が苗字を変えることを願って。


「私、そんなこと考えてませんわ!」


 ガタリと椅子の音を立てて立ち上がっていた。

 しかも、紅潮しているのを隠したいから顔を覆う始末。


「香月さん、進学で何か困りごとがありますか?」


「すみません。少々妄想が膨らんでしまったのよ。これでは、ゴーギャンが想像で描けと命じるのと同じだわ」


 ひまわりの壺や高乃川様の客間に飾られた『ひまわり』はどうなったのだろう?

 気掛かりを一手に引き受けてしまい、ココアが冷めるまで眺めていた。


「もしかして、私ってお茶を飲みに来ていないかしら?」


「いつも美味しそうに召し上がっていただき、ありがたいです」


 壽美登くんが肘をついて私に微笑まし気に顔を向ける。

 しかし、お茶ばかりを飲みに来ているのは恐ろしい。

 転移体験が本当はなくて、集団催眠によるものだとしたらどうだろうか。

 或いは、転移していたとして、毎回彼が先に起きている可能性もある。

 そうだとしたら、ファン・ゴッホの引力は不滅な程に恐ろしい。

 私はぞわぞわと背筋が凍えだした。

 話題を『ひまわり』に戻そう。


「壽美登くん、『ひまわり』の模写は上手く行ったの?」


「油絵は間を空けないと描けないものですから、完成はしていません。飲み終わりましたら、お見せします」


 二人で同じくマグを置く。

 一緒に飲み終わるなんて偶然とか、春到来か。


「僕の部屋にあるので、居間に持って来ます」


「壽美登くんの部屋でもいいのに」


 よく遊びに行ったな。

 でも、小学六年生までだった。

 中一からは、それよりも外で遊ぼうと誘われた。

 要するに、立ち入り禁止になったのか。


「僕らはもう高校三年生です。自室に入るのはお考え直しください」


「そ、それもそうよね。この居間なら、ご両親も通られますしね」


 そのとき、大きな音が聞こえた。

 ドン、ガラン、ドンドン。


「ぎゃ――! お父さん止めて!」


「いつになったら、学校へ行くんだ。この怠け病めが!」


 バン!

 バシッ、バシッ、バシッ。


「那花くんのお父さん。それに、愛壽さんかしら」


「僕が二人の喧嘩を止めて来ます。香月さんは、ここでお待ちください」


 あの大人しい壽美登くんが、凄い勢いで二階へ上がって行った。


「お父さん、愛壽さんは怠けている訳ではありません。百人に一人はいる病気に罹ってしまったのです。落ち着いてください。用件は僕が聞きますから」


 壽美登くんは、逞しい心の持ち主で感心した。

 私はとんでもないときにお邪魔してしまった。

 美愛さんはどうしているのだろうか。

 そんなことを考えていると、私は背後に気配を感じた。


「誰か?」


 ひやりとする気配を感じた。

 居間を横切る影だ。

 手には、何かを持っている。

 汁を滴らせているようだ。

 早く、壽美登くんにも知らせないといけない――。

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