ひまわり27 哀しみの筆

「僕は、ゴーギャンへ期待していた。だが、相手が悪かったんだ。自分の話を聞くようにしつこくされると、僕の絵がそんなに酷いのかと思わされる」


 ファン・ゴッホは混乱している。

 ゴーギャンとファン・ゴッホは合わないのが顕著になって来た。


「自分の話を聞け、ヴァンサン」


「ほれ、またそれだ。自分の話を聞けの一方通行だよ。僕はゴーギャンの絵を貶さないのに」


「自分だって、貶していないさ。ヴァンサン」


 ゴーギャンの方も文字を走らせる。


「親愛なるベルナールヘ。ヴァンサンと自分は絵画に関して意見が食い違い過ぎる。色の置き方は、ヴァンサンのぐりっとした厚塗りが我慢できない位嫌気が積み重なった」


 大人の子ども染みた心理戦が続いた。


「ふう」


 争いの嫌いな壽美登くんが溜息を吐いた。


「香月さん、ゴーギャンとファン・ゴッホとの違いは何だと思いますか?」


「心の迷いに対処する力だと思うわ。画家としてもそうだけれども、人として、人と付き合う自身の防御と解放が制御されていることが重要になると思うの」


 この光景を観察していて、壽美登くんは愛壽さんと美愛さんに心を揺すられているのだろう。

 双子の妹さんが今置かれている苦しみについてだ。

 私にも遠慮なく話して欲しい。


 争いの日々が続く中、クリスマスも近付いて来た。 


「今年もまた訪れた。クリスマスのある神聖で楽しい十二月だ。だが、父さんと喧嘩をしてしまったこともあった。教会へ行かないと拒んだな。あのときは一時の迷いだと弁明したい」


 パイプを吹かす。

 絵にもなっている『ファン・ゴッホの椅子』は、黄色く背もたれもある。

 大分、ファン・ゴッホがあたためて来たのだろうが、今、離れるときが来る。

 過去から現在へ向かう私達は、知っているからこそ、口出し禁止だ。


「それなのに、僕とゴーギャンがまさに揉めている最中だとは、人は中々変わらないものだ。僕は随分と人間臭いのだろうか。聖職者を目指していたのに」


 ファン・ゴッホはうなされる日々が続いた。


「私は、ファン・ゴッホって考え過ぎなのだと思うわ。アルルの夜空はちっぽけな二人などをよそに、街灯と家の幸せの灯りや賑わう店先の光、それらが全て黄色くファン・ゴッホに信号を送っているのではないかしら。聖職者で画家のファン・ゴッホよ、自身の先を阻むものは感情に任せて追い払うがいいと聞こえていたとか、特別な耳を持っていたのよ」


「香月さん、しーです」


 私は、両手で顔を覆って、口をつぐんだ。

 人を非難することは、自分にも返って来る。

 私は、ファン・ゴッホとゴーギャンの気持ちを軽んじていたようだ。

 反省しきりで、面を上げられない。

 そのときだ。


「うああ……! 何だと!」


 ファン・ゴッホは、感情に任せて、グラスを投げ付けてしまった。

 ゴーギャンの居る方にだ。


「何てことを、ヴァンサン。ヴァンサンよ、自分はこんなことの為にアルルに来た訳ではない……」


 そこまでしてしまったのだ。

 案の定、翌日の夜、二人の仲に最終的な亀裂が走り出した。


「自分は、黄色い家を出て行く。ヴァンサンのグラスには懲りたよ。非常識だ」


 ゴーギャンは、荷物を手に去った。


「ま、待ってくれ! 僕の一時の過ちだ! ゴーギャン、頼む……」


 ファン・ゴッホは、アトリエに落ちていた筆を見て、大声を出すでもなく佇んでいた。

 所が、手を震わせて急変する。

 絵筆を拾ってパレットの上に叩きつけるように置くと、勢いよくドアから外へ向かった。


「ゴーギャンが出て行ってしまった。黄色い家には、僕一人だ。芸術家の家だなんて、笑い話にしかならない。わはは、ははは」


 ファン・ゴッホは、ゴーギャンを追う。

 肩で息をして。

 追いかける。

 追って、追って、目を配る。


「ゴ、ゴーギャン! 待ってくれ」


 ゴーギャンのお気に入りの場所を駆けずり回る。


「居ないのか? どこだ!」


 ファン・ゴッホは方々を捜しまわった。

 駅近くを歩くゴーギャンの外套姿が目に飛び込む。


「おお、ゴーギャン。遠い所へ行ってしまうのかい?」


「もう、自分達は解散した。離散した。だからもう、黄色い家に大人しく帰ってくれ。自分は、パリへ向かう」


「ゴーギャン、頼むから帰って来て欲しい」


 外套をファン・ゴッホに掴まれて、引き離そうとしたが離れない。

 髭をぴくりとさせ、ゴーギャンは最後に折れた。


「もう二度と黄色い家には行かないし、ヴァンサンとも会わない。けれども、モンペリエまで一緒に行っても構わない」


「ファーブル美術館へ行こう」


 勿論この寒空だ。

 宿を取った。


「それが目的で来たのだが、ヴァンサン」


「早く行かないとお腹が空く。僕らの食事は絵画と決まっている」


 フェルディナンFerdinandヴィクトールVictorウジェーヌEugèneドラクロワDelacroixレンブラントRembrandtハルメンソーンHarmenszoonファンvanレインRijnについて、二人は熱くなった。

 いい意味でだ。


「いやあ、ヴァンサン。絵の世界は奥が深いよ」


「そうでなければ、僕らはもっと早く世に出られるだろう。ああ、レンブラントの深い闇の描写力、ドラクロワには怪奇な程の黒よ、僕らを小さな芸術家たらしめんことを教え給うかな」


 ファン・ゴッホは時々詩人になると思った。


「ヴァンサンは根っからの芸術好きだな」


 私は、それを聞いて直ぐに思った。


「うふふ。壽美登くんみたい」


「とにかく、十二月も半ばの寒い中、ここだけはあたたかそうです」


 二人は、散々飲み明かした。


「ヴァンサン、パリへ行くのを止めてもいいと……。寝ているのか? クリスマスまで僅か、どんな夢を抱えたら熱情の人になるのだろうか。神よ、憐れな彼を安らかにしておくれ」


 モンテペリエから帰ると、ゴーギャンはテオにパリへは戻らない決意をしたと伝えた。

 私は、危機を逃れたとほっと胸を撫で下ろしたものだ。


 ◇◇◇


 ――同年十二月二十三日。


 ファン・ゴッホは、一人黄色い家に居た。

 そして、あの有名な『耳切り事件』を起こした。

 その耳は、気に入った女性に贈っている。


「僕の大切なものを絵筆だと思って大切にしてくれるよね」


 女性は、渡されたものが最初は何だか分からない様子だった。

 その絵筆なるものの正体が知れると、手から離したいのにくっついてしまい、振り回している。

 本当に驚くと、人間は悲鳴が出ない。

 やっと喉から高音域の声を絞った。


「ひ、ひい――!」


 やっと、放り投げると、女性は自分の耳を塞ぎながら、しゃがんでしまった。

 その後はもう騒動も甚だしい。

 黄色い家にも人だかりができる。

 新聞記者も来ていた。

 ファン・ゴッホには、お見舞い申し上げたい。

 心の模様と体の様子はどうなっているのだろうか。


「警察だ。開けるぞ、ファン・ゴッホ」


 ドアから捜査員が入って来た。

 偉そうな警察官が、血の海にも狼狽せずに、二歩入る。

 自身の髭を引っ張りつつ見回していた。


「生きているか?」


 その警察官が若いのに命じた。


「今は眠るように動きませんが、生きてはいるようです」


「よし、入院させるしかない」


 ベッドに横たわって屍同然となっている所を警察は、アルル市立病院にへ強制的に入院させた。

 その一報は、勿論テオの耳にも入った。


「な……。兄さん、何てことをしたんだ。ヨーと婚約したばかりだが、仕方がない」


 その夜、テオは列車で駆け付ける。

 もう、周囲はクリスマスイブを迎えていた。

 病院へ着いたのは、翌日のことだ。


「やあ、兄さん。今日はクリスマスだよ。生きていてくれて、ありがとう」


「昨日……。何かあったらしいが、僕には分からない。苦しみの絶頂で、僕を黄色い絵筆が呼んでいた」


 ファン・ゴッホは、耳だけではなく頭を包帯で幾重にも巻かれていた。


「そうなんだね」


 テオは、兄の手を優しく包む。

 そして、続ける。


「ヨーと僕とでオランダに挨拶へ行くから。今日は、もう帰るけれども、お大事にね」


「テオ、僕の為にアルルまで来てくれたのかい」


 ファン・ゴッホの人間らしい心情が伝わって来る。

 あたたかい人だ。


「そうだよ、兄さんの為だよ」


 ファン・ゴッホは切り取っていない右耳を下に、胸が詰まった顔をしていた。


「早く、お母さんを安心させてやってくれ。テオが結婚すれば、喜ぶだろう」


「兄さんはゆっくり休むんだ。そして、もっと自分を大切にしてくれ」


 帰りは、テオとゴーギャンは同じ列車だった。

 ゴーギャンは今後どのようなことがあっても、ファン・ゴッホと面会することはなかったとテオの本にもある。

 二人は、語ることもなく、ただお互いに沈黙してクリスマスの祈りを捧げるしかない。


「テオも驚くわよね」


「彼はいつまでもファン・ゴッホの味方です」


 壽美登くんを見上げて、私もずっと味方だと口にしたかった。

 妹さんのことがあって、その心にひび割れたマグは、共継ともつぎでは直らないものだろうか――。

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