ひまわり26 争いのアトリエ
「壽美登くん、テオの本が閉じているのに隙間から光が出ているわ」
「そっと開きましょう」
二人ともテオの本に同じ現象が起きていた。
本に拳銃が入りそうな鍵穴が穿っており、その中からファン・ゴッホの心象風景が浮かんでは消えた。
「香月さん、これは、もしかしてファン・ゴッホの夢とシンクロしているようです」
「シンクロとは、芸術に関係があるのかな。壽美登くんの口から珍しく怪しい言葉が生まれたわね。ともあれ、非科学的だわ」
本の明かりから飛び込んで来たのは、黄色の塊だ。
いや、よく観察すべきだ。
ひまわりの花の黄色と茶色、花を引き立てる葉の緑色が、人の温もりを感じさせている。
まるで、凍てつくローヌ川の絵に、さも対照になるかのように。
ファン・ゴッホには、都会的な光景はもしかしたら似合わないのではないかと思うようになった。
バルビゾン派を手本にしていた経緯もある。
そして、フランス南部の空気清々しき土地に移り住んで、馴染んでいるのが、ひしひしと感じ取れる。
アルルでは畑にひまわりが一面に咲き乱れる。
もしも、ファン・ゴッホが黄色い花を摘まなければ、名画『ひまわり』は制作されなかったのは至極当然だ。
そうなれば、ファン・ゴッホは売れない作家のブービー賞に入り、鼻であしらわれて、作品は全て戦火に焼け尽くされただろう。
――その十月も終わり頃。
「きらきらとして、太陽の花が沢山ある。やはり、僕がアルルに来たのは間違いなかったのだ」
ファン・ゴッホはパイプを片手に、煙を吐き出した後、しっかりした構想ではなく閃きと妄想で機嫌をよくした。
「黄色い家を芸術家の家にできたら、素晴らしい活動ではないか」
ファン・ゴッホの家を訪ねる筈のゴーギャンは未だ着かない。
私は、彼が宮本武蔵にじりじりとやられ、サウナに入ったまま待っている感じがして、真面目な所なのに吹いてしまった。
「いけませんよ。笑ってはいけませんし、声は殺すようにしましょう」
壽美登くんの色んな意味での注意が刺さってチクチク痛い。
「ゴーギャンは、もう着いたか? 次の列車で来るのかも知れない。会えたら、僕の芸術家の家作りを伝えよう。彼ならば分かってくれる筈だ」
とうとう、待ち人が到着した。
二人で久し振りに顔を合わせる。
「ゴーギャン、ようこそ、僕ら芸術家の家へ」
家に案内すると、ゴーギャンは不自然さのないように見回した。
「芸術家? 家? ああ、黄色くて驚いたよ」
「ゴーギャンは、芸術家の家は好きではないか。まあ、よし。先ずは、ゴーギャンとの共同生活と制作を祝ってワインで乾杯をしよう」
ファン・ゴッホの浮いた気持ちは、歯止めがなかった。
「これからは、ヴァンサンと呼んでよろしいかな?」
「ああ、構わないさ。仲良くしよう」
飾られた黄色をよく観察して回って、ゴーギャンが振り向く。
「それから、一緒には絵を描かないから。お互いに迷惑だろう。作風も合うか分からない」
ゴーギャンは元お金持ちの癖か気取ってグラスを空ける。
「そんなものか。気持ちも変わるだろう。今は待つよ。来たばかりで疲れているのかも知れないだろう」
ベッドに入る頃、ファン・ゴッホは、天に横たわっている星々へ不安を払拭するように、大きく笑い顔を作った。
「今朝はいい天気だ。紅葉が綺麗だろうよ」
「ヴァンサン、出掛けるか」
生活が落ち着いた頃、二人は、歴史ある墓地を散歩して、お互いに絵へ求めているものを描いた。
燃えるような紅葉の並木があったり、その葉が散ってしまったりした『レ・ザリスカン』がファン・ゴッホの作だ。
「ファン・ゴッホは、本当に色彩の魔術師ね。段々と惚れてしまっている私がいて怖いわ」
「そうですか」
壽美登くんは、黙っておでこの旋毛を掻いてしまった。
もしかして、嫉妬しているのか。
そんなことない。
数日後、ファン・ゴッホらは、少々遠くまで散歩した。
真っ赤なぶどう畑をファン・ゴッホは綺麗だと感動する。
ファン・ゴッホは『赤い葡萄畑』を描いた。
一方、ゴーギャンは『ぶどうの収穫――人間の悲哀』を描いており、作風の違いを感じる。
「ファン・ゴッホのこの『赤い葡萄畑』は、或る意味、有名な作品となりましたね。知り合いの姉で、画家の
テオの本を頼りに、アンナの作品を表示して欲しいと願ってみると、印象派の絵が投影された。
アンナの作品群をざっと目を通した所、彼女の作風は、少々ファン・ゴッホに似ている感じがした。
お義理だったのかそうでもないのか、今となっては分かり難い。
「不遇なのか、一縷の望みとなったのか、ファン・ゴッホの呟きを頼りにするしかないわね」
「その為の転移の旅です。本音は、本にならない場合もあります」
そして、ファン・ゴッホとゴーギャンを比べていると、本当に画家って個性がメインディッシュだと思った。
「ファン・ゴッホの絵は、ブドウの中に分け入って収穫している様子の農民と自然を描いていると考えられるわ。一方でゴーギャンの絵は、ブドウを収穫しているイメージからは程遠いわね。二人とも作風が合わないのかしら」
この二人が幸せに暮らせるのか、一抹の不安が過ぎる。
――同年十一月。
それから、黄色い家で絵を描き、ゴーギャンの来訪を知るまで寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガールで働く人を描いた。
「もしかして、これが、『アルルの女』なの? 教えて壽美登くん」
「この『アルルの女』も連作されています。ゴーギャンも『アルルの女』を描いております。その違いは、ゴーギャンの木炭画を基にしてファン・ゴッホが油彩を描いた所、ゴーギャンは自身の木炭画から背景をカフェにした『夜のカフェ』も描いた所にあります」
私はいいことを閃いた。
「ファン・ゴッホの他の連作は、こうかしら」
私がテオの本に手を翳すと、壽美登くんと映画鑑賞でもするかのように、丁度いい所に沢山の『アルルの女』が表示された。
「ゴーギャンの木炭画を模したのは、お世辞にもいい結果ではないわね」
「僕の意見もそうです。この傘の置かれた一作目と本のある二作目が、やはり活き活きとしている感じがします」
ファン・ゴッホらしさの表れかと思う。
「この中で、ゴーギャンが褒めてくれる作品があるといいわね」
「多分、ありますよ」
二人で、にこっと微笑んだ。
その頃のファン・ゴッホは、アトリエにした部屋で懸命に描いていた。
ゴーギャンも居る。
「ヴァンサン、見たままを絵にしてはよくないよ。もっと想像力を膨らませてそれを絵に練り込むんだ」
「ゴーギャンよ、僕は見える形と見える色を大切にしたいと思っている」
これがファン・ゴッホかと思う程、負けた仔犬の顔になっている。
「現実を表現しているだけでは一文にもならない。心に浮き沈みする想い出や表現したいことをテーマにした方がいい」
「分かった。僕は、『エッテンの庭の記憶』を描いてみるよ。母とヴィルが散策をし、より具象的ではない絵になると思うが」
ファン・ゴッホにしては珍しく殊勝にも先ずは描き始めた。
「親愛なるテオへ。違う、違うんだ。僕は、頭の中で考えたものを筆の色に置き換えるのは好きではない。全く満足からは逸脱したものだ。『種まく人』も二作品描いたが、何かそれにヒントがある気がする。今後も画業を続けて行き、僕の求めるものを突き止めたい」
――同年十二月。
ファン・ゴッホは、『郵便夫ジョゼフ・ルーラン』や『ルーラン夫人と赤ん坊』ら家族をモデルに起用して、同じ構図のものも合わせて沢山の肖像画を描き始めた。
ゴーギャンもこのルーラン家族を『ルーラン夫人の肖像』のようにモデルに用いている。
「親愛なるテオへ。初めて、この仕事が僕に向いていると思ったよ」
アトリエでファン・ゴッホが描いていたときだ。
「ヴァンサン、幾度となく同じことを口にさせるな。疲れ果てて唇も曲がってしまう」
ゴーギャンは、達磨みたいにへの字口になっている。
これは、よくない予兆だ。
「僕は、ゴーギャンの教えてくれたように、苦痛でも描いているつもりだ。それに、生き甲斐を感じる家族の肖像画も見出して来た」
「自分の創作論が苦痛だと? だったら、自己満足の絵を描いて行くがいいさ。ヴァンサンにはパン代も入らないと思うが」
捨て台詞を残し、ゴーギャンは去って行ってしまった。
手紙を認めている背中がシャンとしているが、それは怒りにも感じられる。
「親愛なるテオドールへ。残念ながらヴァンサンと自分は性分が合わない」
あれこれ書き連ねつつ、苛立ちを隠せないでいた。
その手紙がテオに届いた頃だろうか。
ゴーギャンとファン・ゴッホに事件が起きる。
あの有名な出来事だ。
私は、胸騒ぎの渚にいるようだった――。
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