ひまわり25 忍び寄る剥離

 歳月は忙しく巡る。


 ――同年七月。


「あら、壽美登くん。ファン・ゴッホは語学力があるわ。絵のタイトルに、『ラ・ムスメ』が数点ある」


 勿論、女性の肖像画だ。

 使い方も間違っていない。


「ル、ラ、レ。で『ラ』は女性の名詞につけますからね。文法もユニークな程面白いです」


 ――同年八月。


 『郵便配達人ジョゼフ・ルーラン』も描いていた。

 画材屋の『タンギー爺さん』とよく似ている。

 分かった、髭がそうなのかも知れない。

 私は後者の方がほのぼのとして好きだが。


「とうとう来たわね。『ひまわり』の季節が」


「ええ、彼の技法をよく観察して行きたいです」


 ファン・ゴッホは、緑の花瓶に、咲き誇るひまわりからお気に入りのものを三本挿し、生ける姿を描く。


「ああ、そうだ手紙で決意を表明しよう。親愛なるベルナールへ。僕のおもてなしの心だ。ひまわりをモチーフにした絵で黄色い家を沢山、そうだな、六作は描いて待つよ」


 事実、四作もの『ひまわり』を描いていた。

 私は絵のペースが分からないけれども、ファン・ゴッホは、随分と飛ばしている。

 ジェットコースターのように。

 さて、問題の『ひまわり』、じっくり観察したいと思う。

 ファン・ゴッホの熱情の在処を知りたい。


「ここは、壽美登くんの得意ジャンルよね。油絵の描き方とかは分からないから、私達が現在へ帰ったときに再現してみる為にも役に立つと思うの」


「僕もファン・ゴッホの熱演を見逃しません」


 壽美登くんの手が、拳を作って汗を掻いている。

 私も現在からは手荷物を持ち運べないので、透明なハンカチを用意する。

 その魔法で柔らかに包みながら拭いた。

 彼が照れたりしないのかと思ったけれども、真っ直ぐにファン・ゴッホの筆先に視線を送っている。


「熱心な壽美登くんが一番いいわ」


 私は、ハンカチごと手をきゅっと繋ぐ。

 どきっとした。

 段々に、しっとりとした汗が伝わって来た。

 彼が将来陶芸家や画家等の道へ進む気持ちを理解した気がする。


 ――一月遡って、同年七月。


「ゴーギャンからの手紙が届いたよ。待ち切れなかったさ。ふんふん、ほうほう。おお! とうとうアルルに来ると決意したようだ!」


 ファン・ゴッホの心は、もう友達を待ち切れない風船が膨らんでいたに違いない。

 家具の配置を考えて、そわそわと動き回っている。

 そして、お金の残りを数えては溜息を吐き再びペンを執った。


「さあ、僕はゴーギャンと楽しく有意義に暮らすんだ。先ずは寝泊まりできるようにしたいから、ベッドは買いたい。これからは、黄色い家に住まいを正そう。テオの支援はありがたいよ」


 現実から甘えているファン・ゴッホを支えていたのは、誰あろうテオだ。

 織江ママが私の高校生活を経済的に遣り繰りしてくれている点も共通している。

 あの黄色い屋根の家にいた菊次パパは、もしかしたら、酔って家に入ろうとしていたのかも知れない。

 入口もない家だが。


 ――同年九月。


「八月に、素晴らしき『ひまわり』を四作品も描いた筆の勢いは止まらないわ。『ひまわり』については、その後十二月にならないと連作の続きはないのよね」


 興奮する私を芸術好き男子の壽美登くんが宥める逆転現象が起きた。

 彼の眼差しは重い。


「その後のことは、後に追って行きましょう」


 ファン・ゴッホは、とんでもない勢いで、既出の『夜のカフェテラス』を仕上げた。

 碧の広い夜空に川面に星を映す、『ローヌ川の星月夜』もだ。

 同月中には、他に黄金期とも思える作品、『黄色い家』をも完成させた。


「ねえ、『夜のカフェテラス』って綺麗ね。『夜のカフェ』とは随分と異なるわ。最初に泊まらせて貰ったカフェの屋内の『夜のカフェ』を描いた頃って、心が濁っていたのかしら。お酒の演歌でも似合いそうだわ。それに比して、『夜のカフェテラス』は銀河が紺碧の中に浮き立ち、とても清らかな感じがする。黄色い屋根と壁と輝きの中、集う人々もまた奥の方で歓談しているようだわ」


 これらの作品なら、私も知っているし、結構好きな方だ。


「僕もここへ来たのなら、モデルとなったカフェに行ってみたいものです」


「あら、前向きになってよかったわ」


 私は、ストレート過ぎるとか、オブラートに包まないタイプで困ったものだ。

 小さくゴメンと頭を下げた。

 そして、私の方から繋いでいた手を離す。


「ご心配をお掛けいたしました」


 壽美登くんが心なしか俯き加減に謝った。

 心配を掛けてもいいのに。


「私の感想だけれどもね、『ローヌ川の星月夜』は、紺と黒が入り混じった夜空に瞬く黄色い星々よりもその下に注目して欲しいと思うの。星々は綺麗だわ。でも、控え目なの。人々の暮らしている辺りが紫とかが入っている感じで、派手だわ。だけれどもね、手前に恐らくはカップルが居るの。寂しい中に望みを感じるのは、私だけではないと思う」


「香月さんは、色に敏感ですね。感心します」


 私は、顔から火が出そうで、首を大きく左右に振る。

 そして、もう一作続ける。


「また、個人的な感想だけれどもね、『黄色い家』には一言あるわ。まだ、ゴーギャンの来る前の家で、とても黄色が明るいと思うのが先ず一点。割と大きな家だったんだなと思うのも、我が黄色い屋根の家に対して、張り合いとして一点ね。これは、絵の感想でも何でもないと思うけれども」


「ご感想は、自身がどう思うかが大切です。解説なら、評論家にしていただければいいと思います。香月さんの貴重な感性です」


 私は、泣きたくなった。

 菊次パパのこと、黄色い屋根の家のこと、沢山悩みがある。

 背の高い彼の胸に飛び込みたいとも思うけれども、彼には彼の悩みがあるのを忘れてはいけない。


「ねえ、色々と話している一方で、ファン・ゴッホは必死になっているわ。ペンを走らせている」


「親愛なるテオへ。絵の具代も掛かるんだ。もう少し仕送りが要る」


 ファン・ゴッホがストレートに無心している。

 テオは、この兄に弱いのだろう。

 聖職者はテオの方が向いているのかも知れない。


「テオ、やっとゴーギャンが来るんだ。僕の家を訪ねに。間に合わせなければならない。僕の最高傑作を用意しなければ」


 ファン・ゴッホは、自分を認めて欲しいのだろうと思った。

 小鳥が孔雀の羽を身に纏うように。


 ――同年十月。


「もう、倒れそうだよ。でも、ゴーギャン、僕はこうして自分を追い詰めて待っているから」


 これは、一時、自分の食べ物も切り詰めて人に施してしまっていた頃のファン・ゴッホにも似ている。

 聖職者として画家としての旅路も辿っていてよかった。

 貧困のまま歩き回る姿が今に繋がっているのだろう。


「そうだ、この部屋を描こう。どうして、今まで気が付かなかったかな。題して、『アルルの寝室』だ。ゴーギャンも驚くぞ」


 ファン・ゴッホの描いている横に、これから描かれる二枚が、壽美登くんのテオの本から映し出される。


「その『アルルの寝室』は、三作品あります。一八八八年十月にゴーギャンを待ち侘びて描いたものです。それから、一八八九年九月に二作品ありますが、これは一枚目を模して描いたものだとされています」


「うん。最初のはじっくりと濃いトーンだわ。二作品目は少し明るめになっていて、三作目は黄土色が目立つわね。あは、私もファン・ゴッホと関わっていて黄色のトーンに敏感になっているみたい」


 壽美登くんはこくんと頷いた。


「三作目は、母のアンナに贈る為だったと伝えられています」


「ママか……。お母さんのことが、本当に好きなのね。ひまわりの壺の魔鏡、あれが、アンナ・コルネリア・カルベントゥスを示していて、どれ程の愛に飢えていたのかと思ったわ。それに、『画家の母の肖像』も描いていたわ。ファン・ゴッホには似ていないけれども、あの厳しい育児の姿からは想像もできない程、優しく静かに微笑みを湛えている」


 お母さん、ママ、オランダ語でムーデゥルmoeder、きっとファン・ゴッホにとては、アンナ一人が、甘い香りのミルクをくれたママなのだろう。

 ミルク――?

 何か気になる。

 星空がミルキーウェイのようだとか。

 いや、それもあるだろうけれども、違う、もっとダイレクトに来るもの。

 あのミルククラウンでの転移は関係あるのか――。

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