ひまわり19 衝撃の理系女子
私は、実験ノートを頼りに、昨年の夏に特別に講習を受けさせていただいたことを思い出す。
ママは、離れていてもこちらに視線を送っている。
大丈夫だ。
失敗しない。
「ええと、冷蔵庫にあるジャガイモを二百グラム、スクロース二十グラム、寒天二十グラム、蒸留水約一リットル、
先ずは、栄養豊富な男爵イモの皮を剥き、賽の目に切って、沸騰させた一リットル蒸留水で二十分間煮た後、煮汁を三重のガーゼで濾過する。
「あら、包丁を使い慣れていてよかったわ。ジャガイモさん、綺麗にできました」
次に、煮汁を蒸留水でメスシリンダーで一リットルにメスアップする。
栄養分として、スクロースつまりはショ糖を加え、固める為に寒天粉末を加える。
「分量を確実に守ることが、実験成功、若しくはお料理の成功への近道ね」
撹拌及び加熱して溶解した後、pHを調製して仕上げる。
「福原副手、ここまでできました」
「丁度よかったですわ。他の研究員の方もオートクレーブを使用しますから、三角フラスコにアルミホイルで口を包んだわよね? それで滅菌いたしますよ」
私は頭を下げた。
「あっと、フクハラ・コウゲツの名前と日付を油性インクで書いてくださいね」
もう一度、首を垂れると、他の方を待たせないように急いで記入した。
そして、オートクレーブの籠に入れさせていただく。
摂氏百二十一度、二十分間に設定して、稼働させた。
「凄く実験している気がするの。私の血が騒ぐわ」
私の独り言ちをママが拾った。
「まだ、序盤ですよ」
「仰る通りだわ」
培地は、オートクレーブ内で冷めるまで待てばいい。
この間にできるお手伝いをしよう。
乾熱滅菌をするのにアルミホイルで包むのを申し出たら、研究員さん方のお仕事だと断られてしまった。
掃除をするにもこの時間は迷惑だ。
帰宅時にお掃除をして、ご恩を返そう。
「福原副手のノートを拝読していてもよろしいですか」
その後、クリーンベンチ内で、シャーレにPSA平面培地を作った。
「ここに組織片を入れて来ればいいのね。ほっとしたわ」
周囲にシールをし、四つアルミホイルで包んで持ち帰ることにした。
「もう少ししたら、私も帰るから、一緒に帰りましょう。菊江ちゃん」
「はい、福原副手」
ママと一緒に帰れたのは嬉しかったけれども、帰宅したら、もう遅い時間になっていた。
三人で、今日はお夕飯が間に合わなかったので、お弁当を食べる。
弟もこういう日があるからって、文句は言わない。
志一に待たせたと謝って、ご飯をあげる。
わん?
「うううん、何でもないわ。元気に食べてね」
はう、ばくばく。
食べっぷりがいいな。
お水も沢山飲んだ。
ペットシーツも綺麗に取り換えて、志一くんベッドもガムテープでぱりぱりと毛のお掃除をした。
「では、おやすみ」
ケージのある部屋を暗くして、いつもの挨拶をした。
私は自室に入ると、フィーチャーフォンをバッグから出した。
壽美登くんのナンバーは
数コールもしない内に、ピッと応答があった。
「はい、那花壽美登です」
やだ。
壽美登くんが受話器の向こうにいて、ほのぼのする。
当たり前か、彼のスマートフォンのナンバーだ。
「もしもし、香月菊江よ」
どうして、電話なのに、電話でも火照ってしまうのだろう。
暫く、あの、あのっと切り出しあぐねていた。
「どうでしたか。お疲れでしょう」
「それはいいのよ。明日、ひまわりの壺の組織片を取ってもいいかしら」
そうだ。
用件を伝えれば、この困惑は歩みを止める筈だ。
「はい。大丈夫です」
「それから、壽美登くんには比べたい『ひまわり』の組織片を取って来て欲しいの。一日の内にできるかしら」
実験道具と陶芸男子、何か不似合いさを感じる。
でも、基本的には器用そうだ。
「ええ、知り合いの所ですから。香月さんも一緒に行きましょうか」
「私が行っても構わないのなら、折角だからお願いしたいわ。シャーレ等は用意したから安心してね。ああ、当たり前のことだから気にしないでよ」
シャーレを用意したのは、誰の為だろう。
勿論、二人の卒業論文用だ。
壽美登くんは、『ひまわり』の模写をしていてくれるのだから、それ位はしないと悪いと思う。
「はい、では、朝九時にお待ちしております」
「九時ね。OK、OK」
短い電話は終わった。
もっと話したいことが沢山あったのに。
元気に電話なんてしちゃったけれども、今日は、ママのオトコのヒトを紹介されてショックだった。
聞いて欲しかった。
少しでいいから、私の胸の内を。
◇◇◇
――翌、七月十六日。
土曜日で、今日は学校もお休みだ。
朝から、自由な時間でるんるんになる。
偶にはワンピースでも着ようかな。
水色に白い水玉模様の夏色ワンピ。
シュシュも真っ白なのをポニーテールに着けよう。
今日は、実験道具の入った紺のトートバッグで行く。
「行って来ます」
前は、大嫌いだった黄色い屋根の家とアパートとの間を行き来するバスも今は異なる。
壽美登くんに会えるバスへと変わった。
窓からの涼やかな風を受ける。
舞い上がれ、すいすいと私の気持ち。
「バス停で待ったら暑かったわよね」
「そんなことありません」
先にひまわりの壺から行うことにした。
今日は竹で囲まれた道が涼しい。
とても元気一杯になっている。
「香月さん、楽しそうですね」
「え? いや、その。実験結果が楽しみだなと」
壽美登くんの横顔は、どこか笑っているようだった。
私が笑えば、彼も笑うのか。
手を洗って、早速床の間に向かわせていただいた。
「あの貫入はどうしたのかな。ちょっと怖くなってしまったわ」
「僕が確認しますよ」
以前あった所を隈なく探してくれた。
あったようだ。
私は、肝を冷やす。
「反対側から、ピンセットで少し採取しましょう」
「それがいいわね」
私は手が震えていた。
ピンセットが上手く扱えない。
「僕がしましょうか。それとも、一緒に行いましょうか」
選択肢を選ぶ前に、彼は私の手を外から包み込んだ。
二人でウエディングケーキに入刀するように、壺の目立たない部分をシャーレに採った。
すかさず蓋をして、持って来たシールで周囲に封をする。
油性インクで、フクハラ・コウゲツと今日の日付けにサンプルナンバーの一を記入してこれはお終い。
「暑い日ですので、組織片が悪くなるといけません。忙しいですが、知人宅に向かいますか?」
「そうしたいわ」
私の紺のトートバッグは、保冷にもなっている。
多少は効果があるかと期待してもいいのか。
壽美登くんが他愛もないことを話しながら、青い屋根の家にあるガレージを案内してくれた。
セダンのカローラとワゴンのノアがある。
今日はノアだ。
「菊江ちゃん、お久し振りね」
「壽美登くんのお母さん、お久し振りです」
壽お母さんが、ぶんぶんと私の手を握って振る。
相変わらず若さ溌剌だ。
「壽美登さん、丁度よかった。今、車を出すから乗って。さあ」
「お世話になります」
お辞儀をしたが、背中をバンバン叩かれた。
「いいのよ。菊江ちゃんが一緒に卒業論文に取り組んでくれているから、私も心強いわ」
そこからは、小一時間程で目的地に着く。
壽お母さんは、車中で待っていると告げて、ラジオを聞いていた。
「ここは――。高乃川家のお屋敷だわ」
あの私と遠縁に当たる高乃川家だった。
「どうして、どうして話をしたときに教えてくれなかったの?」
「僕は、異なる
私は、脈拍が九十を越えた。
黄色い屋根の家に、恐ろしいものがぼつりと落ちていやしないか。
そう、誰かさんの耳が。
「私は、とんでもなく驚いているわ。高乃川家だったとはね」
私と高野川家の関係は、ただの遠縁なだけだと思っていた。
それに、芸術からもファン・ゴッホからも遠いのに、これ以上の縁は何であろうか。
胸を貫く時計が針を刻むように、私を織江ママと来た日へと回想させた。
だが、うろ覚えで、はっきりと形がなされていない。
「香月さん、高乃川家には連絡をしてあります。お邪魔いたしましょう」
私は、何回頷いたか分からない。
とにかく、謎へ一歩前進したと、前向きに考えよう――。
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