ひまわり18 壺の実験アラカルト
思えば黄色い屋根の家から花戸祭の家まで近いわね。
「ただいま。ママー」
わん!
「うおんだふ、ぷー。志一くん、だたいまだわ」
わんわん、ばふっ。
「あたた、引っ張って行かないでよ」
志一くんバッグには、パグ犬のおやつが入っている。
多分、私はこうやって志一くんと遊びたいのだろう。
玄関を抜けてキッチンには誰もいない。
戻って左側の四畳半をノックする。
太翼は進学塾か。
念の為、右側の水回りを捜す。
後ろで物音がした。
「織江ママ帰って来たの?」
はっはっはっ。
「やーん、志一くんだったのね。うん、いないのが分かったわ。織江ママはTU総合研究所にまだいるのかな?」
ママのスマートフォンは、会社でも使えない、バスに乗っていても使えない。
ほぼメール機能の為にあるようなものだ。
急用でもあれば、福原織江
「簡潔にメールを残すか」
私のは、スマートフォンではない。
未だにフィーチャーフォンを使用している。
この方が押し間違いなどが少なくていい。
そう言えば、菊次パパとはずっと話してない。
手紙も来ないので、今年のお正月に心が荒んでしまった。
――年賀状はどうした!
鏡を相手に叫ぶこと一発。
シャドーボクシングをしたせいか、一キロ痩せた。
「行くよ! メールよ届け」
恐らくあの辺りにポーラスターがあると思われる方向へ送信する。
ゲン担ぎだ。
「いつか、菊次パパからも便りが来る。それに、パパは菊次パパだけじゃないし」
母が福原と名乗っているのには理由がありそうだ。
まだ菊次パパと離婚をしてはいないけれども、新しい出逢いがあったからだと思われる。
それには深く関与したくない。
汚れていると思うから。
「そんなに汚く考える私の方こそ汚れているわ」
キッチンにメモがあった。
帰ったら作って欲しいレシピが書いてある。
ママの文字は正しい文字だけれども、よくミミズが走ったようだとも表現される。
「太翼も私も受験生なのですが、手厳しいですね」
メモの端っこに、一人暮らしをしたかったら覚えた方がいいとにこにこハートマーク付きメッセージもあった。
「分かったでぷー」
私は、お料理を支度し終え、まだ誰も帰宅しないので、受験勉強をしていた。
目指すは、
時計の針の音が煩く感じられる。
「集中、集中!」
ちょっと疲れたのか、気力が切れて来た所へ、チャイムが鳴った。
わん、わん。
「ただいまー。そこで太翼と会ったのよ」
黒のパンプスに白いスニーカーの二足が下駄箱に収まる。
◇◇◇
「ごちそうさまでした」
その晩、太翼が四畳半に戻るのを待っていた。
食器を洗って、これから一仕事だ。
織江ママの大好きな活き活きジュースと名付けた六種類の野菜をミキサーで高速攪拌させ、グラスに注ぐ。
「いつもありがとうございます。菊江ちゃん」
「いえいえ、ちょっと聞いて欲しいことがあるのだけれども、いいかしら」
早速相談してみた。
悪い返事は来ないと分かってはいてもママの出方を構えてしまう。
彼女のブラウスに咲く橙色の淡い花を国蝶オオムラサキが信じ込んで戯れている。
ひまわりの代わりに、そんな所に視線を逸らしていた。
落ち着け、私。
「それでね、ママ。ひまわりの壺の菌組織と『ひまわり』らしき絵画のそれをどうやって比べたらいいのかしら」
「成程ね。菊江ちゃん、壺の組織は自分で採取できますよね。それから、壽美登くんに頼んで、名画のサンプルを貰って来られますか」
大丈夫だろう。
ここで首肯しないと計画が倒れてしまう。
「
ママが活き活きジュースをストローで飲む。
楽しそうに笑っている。
こんな彼女は久し振りだ。
「何の入試かしら。ええと、持ち帰るなら……。培地入りのシャーレがいいと思うわ。TU総研で貸してくれるのかしら」
難しい選択肢に脂汗が出そうだ。
これでは、理科二類は厳しいだろう。
「ママが実験する前提ならいいと思います。菊江ちゃんも一緒にいらっしゃいね」
「明日の放課後でもいいかしら。ママ」
ママは、頷いて、ジュースを飲み終えた。
グラスは流しで彼女が自分で洗う。
水の音と彼女の話し声が交差して、催眠慮法のようだ。
「
「そうなのね。頭にメモメモだわ。そこまでデータが近似していたらのお話しだわね」
ママに頭をくしゃりとされた。
「バイオサイエンスから解明して行きたいのなら、その辺りから使ってみませんか。先ずは、培地上で菌を育てて、
大女優の長台詞に舌を巻いたが、そこは得意分野なのだろう。
「昨年の夏休みに、TU総研でお勉強させていただきましたから。ありがたいわ。明日は金曜日だから、土曜日と日曜日も丸々使えるわね。明日の放課後に伺いますので、よろしくお願いいたします」
私は、深くお辞儀をした。
「あら、まあ。畏まってどうしたの」
「いえいえ。手土産に餃子でも持って参ります」
生がいいのか、焼いたのがいいのか、それともアレにしようか考えていた。
「餃子って、どうしましょうか。焼くとかは無理ですよ。焼く為の機材はありますけれどもね」
ママが笑った。
よかった。
「大丈夫だわ。餃子型饅頭にいたしますね」
――翌、七月十五日。
「ママ、太翼。おはようございます」
昨日は遅くまで受験勉強をしていただけではなく、『ひまわり』についても考えていた。
睡眠時間五時間で、目を擦った。
「おはようございます。私の可愛い子ども達、今日はどうしますか」
ママはいつもこうして予定を聞く。
知っていても確認をするのが常だ。
「私は、午後五時にTU総研にお邪魔いたします」
「俺は、
調理も配膳も三人でする。
それが、ママの方針だからだ。
志一くんは、人間のご飯の時間は待ての姿勢だ。
食後に私が志一くんの相手をする。
お散歩は、朝は太翼が当番だ。
「培地作りからして貰う予定ですから、今日を含めて日曜日まで三日間、がんばってみてくださいね」
ママは、十時出社なので私達を送り出してくれる。
嬉しい配慮だ。
私は、八時には高校に着く。
その日、壽美登くんは学校には来ていたが、私が進捗に合わせて話を進めるからと伝えると、後は静かにしていた。
学校が終わって、バスを乗り継ぐ。
TU総研には、夕方五時に受付まで来られた。
落ち着いた受付嬢に迎えられる。
「福原副手をお願いいたします」
毅然として言ったつもりだった。
「面会申込書にご記入ください」
手が震える。
「よろしくお願いいたします」
両手で申込書を差し出す。
案内され、五階までエレベータ―で行く。
お辞儀をして、一人奥のブースへ進む。
「マ……」
ママと、呼び掛けようとした。
けれども、誰かと話し込んでいる。
四十代前半位の男性だ。
「こちらは、娘の菊江。こちらは、
私は全てを察してしまった。
この方とお知り合いになったようだ。
急に紹介されて、パニック気味になる。
菊次パパの代わり、菊次パパの代わりと頭の中で言葉が止まらずに巡る。
「こちらで、培地を作るといいと思うわ」
気が散って仕方がない。
ママの話が全然頭に入って来ない。
オトコのヒトの眉間を睨み付けてやりたい。
「織江ママのびっしりと書いた実験ノート、凄いわ。それに、字は汚いけれども、図解はとても分かり易いの。意外と絵は上手かったのね」
「なーに、余計なことに感心しているのですか?
一人称をママとは言わない。
それもそうだ。
福原さんが、香月さんと話しているのだから。
「分かりました。オートクレーブを使う時は、皆さんと一緒なのですね。間に合うように実験をします」
一つだけ、心に決めたことがある。
壺の遺伝子解析に集中だ。
オトコのヒトを忘れてしまえばいい――。
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