第五章 【現在】白衣のDNA解析

ひまわり17 『ひまわり』が七つ

 ……暗い所へ再び投げ出された。

 少なくとも、今は何年でどこにいるのかをデータを見て知りたい。

 黄色い壁のデジタル時計は、飛び石のようにカウントして行ったのを覚えている。

 一九〇〇年代には入っている筈だ。

 放り出されたとき、壽美登くんが私に声を掛けた気がする。


「僕は、手を離しません」


 あ、壽美登くんの手?

 そう言えばあたたかい。

 それに、陶芸をしているせいか、繊細ながら逞しい。


「香月さん、ゆっくりと瞼を起こしましょう」


 数えながら私の指を開いて行く。

 一、二、三、四、五。

 ズキンと頭が痛くなったが、お陰で目を開けられた。


「ここは?」


「僕の家です。居間のカーペットに横になっていますよ」


 桃が描かれた可愛いカーペットだ。

 確かに那花家にいる。


「現在に戻ったのね?」


「そうです。お疲れだと思いますので、甘いココアは如何ですか」


 また、気を遣われてしまった。


「だ、大丈夫よ」


 立ち上がろうとしたら、ふらついた。

 壽美登くんが、肩を抱いて支えてくれる。


「座ってください」


 とても恥ずかしくて、顔を上げられなかった。

 どうしよう。

 肩を抱かれてしまった。

 私が混乱している内に、お湯が沸いてしまい、ココアも勧められてしまった。


「こんなにされたら、断れないわ」


「何も気にしないでください」


 気になるから、気になるのだって、どうして分からないのだろう。

 ホットココアを飲み終えるまで、ずっと黙っていた。

 ごちそうさまをしたら、彼から切り出して来た。  


「僕がひまわりの絵を模写してみましょう」


「ファン・ゴッホの? そうして、真相に迫って行こうと思うのかしら」


 流石、芸術好き男子、那花壽美登くんだ。

 普通は模写から入らないと思う。


「ええ、折角ですから、油彩で挑戦しようかと思います」


「そうよね。水彩にしたら、タッチが変わってしまうし、重厚な塗り口が難しくなってしまうわ」


 私の気持ちは、あの東京で見た『ひまわり』とどれ程の距離があるのだろうか?

 水彩絵の具を絞り出したら、きっとパレットで水浸しにしてしまう。

 女神様のお陰か、非科学的なイマジネーションが降りて来た。

 ちいさなミルククラウンがパレットに波紋を創り出す。

 そこに、シンデレラの靴を脱いだら、素足のまま浅瀬で溺れそうだ。

 私と溶いた絵の具ごと、壽美登くんの筆に取られる。


「どうしましたか。お熱はないですか」


「ち、違うわよ。壽美登くんは、てっきり、ひまわりの壺でも焼くのかと思ったわ」


 少し火照っているだけだと、ココアの入っていたマグに目を落とす。

 すると、ひまわりの花がふわっと咲いた。

 ファン・ゴッホに祟られているのかと思う。

 いや、待て。

 科学的根拠がある訳がない。


「壺も検証いたしましょう。父に頼んで工房を借ります」


「油絵は、学校で習っただけよね。壽美登くんは器用だわ」


「フレスコ画では、忙しいです」


 突飛もない話になった。

 軌道修正しないと、那花壽美登節が炸裂してしまう。


「どうやって描くの?」


 私は、彼の流暢な弁を聞くことになる。

 軌道修正をしそこなった。


「ええ、西洋の教会に見られる漆喰しっくいの壁に用いた画法です。技法にブオン・フレスコとフレスコ・セッコがあります。前者は漆喰が濡れている内に仕上げるもので、後者はバインダーと呼ばれる接着効果のあるもの、僕は卵の黄身を顔料に混ぜて用いましたが、壁が乾燥してから塗るものです」


「芸術が好きなのね。壽美登くんって、いつ描いているのかしら」


 感心するのが半分、彼は将来やはり芸術系の大学へ進学するのだろうという寂しさが半分あった。


「工房のお手伝いをするとお小遣いを貰えます。それで顔料などを買いますが、父には秘密です」


「きっちり几帳面なのかと思ったら、秘密があったのね!」


 彼はすました顔のままだ。


「僕は、早速、『ひまわり』の模写をしますが、一つご相談があります」


「――どの『ひまわり』を模写するかよね?」


 彼は息を飲んだ。


「ご明察です。香月さん」


 壽美登くんが持って来て、画集を再び開く。

 そこには、『ひまわり』が溢れていた。


「先ずは、七点です。僕と見て行きましょう」


 最初に、一八八八年八月制作の三本のひまわりの花が上の方が緑色の花瓶に生けてある。

 背景は青緑で、台はこげ茶だ。


 次に、同月制作の五本のひまわりの花が薄緑色の花瓶に生けてある。

 背景は赤紫で、台は薄赤紫だ。

 一九四五年に空襲で焼失してしまったとある。

 驚くことに、日本にあったらしい。


 三番目に、同月制作の十二本のひまわりの花が上の半分が黄色で下半分が薄橙色の花瓶に生けてある。

 背景は水色で、台はひまわりの花と同じ明るい黄色だ。


 四番目に、同月制作の十五本のひまわりの花が上の半分が黄色で下半分が薄橙色の花瓶に生けてある。

 背景は金色に近い黄色で、台はひまわりの壺の上半分と同じ黄色だ。

 三番目の『ひまわり』と似ている。


 五番目に、同年十二月から翌一八八九年一月に掛けて制作された十五本のひまわりの花が上の半分が褪せた黄色で下半分がクリーム色の花瓶に生けてある。

 背景は汚れた金の屏風のような黄色で、台はひまわりの花を明るくしたような薄茶色だ。

 苛々する程、この絵があの東京にあった絵に似ている。

 この解説によると、ファン・ゴッホの衝撃的事件の前後に描かれたようだ。


 六番目に、同月制作の十五本のひまわりの花が上の半分が茶色で下半分が薄茶色の花瓶に生けてある。

 背景は薄茶色で、台は褪せたような茶色だ。

 ずばり、五番目の模写ではないかと思われる。


 七番目に、同月制作の十二本のひまわりの花が上の半分が鮮やかな黄色で下半分が明度の高い薄茶色の花瓶に生けてある。

 背景はひまわりがサンフラワーと呼ばれるのが分かるのを引き立てる薄青緑で、台はひまわりの花を反映させたような黄色だ。

 三番目の作品に酷似している。


 思い返してみよう。

 ひまわりの咲かせる花は、そんなに日持ちをするものか?

 壽美登くんが、小六で最初に描いた静物の野菜についての逸話を思い出す。

 ナスやトマトを並べて筆を置いていたが、野菜が腐ってくると、絵の中の野菜まで腐ったものを描き出したと言う。

 芸術家って、そんなものかと思った。


「香月さん。他にも『ひまわり』は存在するようですが、花瓶には生けていないようです」


「うん、成程ね……。とてもいい勉強になったわ。壺と関係がない絵の模写はしなくていいわね。それで、どれを描くのかしら」


 彼は、五番目の『ひまわり』を指差した。

 私もそれしかないと思った。

 少々退色しているが、私達が新幹線に乗ってまで見た絵に似ているからだ。


「一ついいかしら。絵が腐っても腐った絵を描かないのよ」


「絵が腐るのでしょうか?」


 野菜が腐りました事件を覚えていないようだ。


「がんばってね」


「一緒に描かないのですか」


 自分に画才がないのが分っている。

 それだけではなく、私に合っているのはもっと科学的な切り口だ。

 高校で、白衣の香月と呼ばれているのも伊達ではないと思いたい。


「私は、壺の方から迫ってみる。織江ママにはまだ話していないけれども、TU総研を貸してくれると思うわ。後で支度をしてからもう一度お邪魔させてね」


 壽美登くんは、益子のバス停まで送ってくれた。

 私は、志一くんバッグを手に、花戸祭まで揺れて行く。

 座席に腰掛け、一旦目を瞑って肩で息をする。


「多分、壽美登くんはもう帰ったわ。別れても再び会えるとしか思えない十七歳だもの」


 窓から彼の姿が飛び込んだ。

 大人しい彼が手を振ってくれている。

 恥ずかしかったけれども、私の結い上げた髪は、窓からの風に孕んで名残の糸を引く。

 髪を押さえながら手を挙げた。

 そのとき、テオの本での黄色い旅が、青い春の翳りとパレットで滲んだ。


「壽美登くん、そんなに優しくしなくてもいいのに」


 届かない声だと分かっている。

 彼は小さくなって行く。

 でも、ひまわりの花が香って来るようだ。

 私の春は黄色に染まって行く。

 夏なのに、訪れたのは春だ。

 夏なのに――。

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