第六章 【過去】友への夢想
ひまわり23 待ちわびる家
「き、菊江ちゃん」
私は、壽美登くんの上に乗っかる形になっていた。
さっさと退けばいいのに、体が怠い。
「菊江ちゃん、しっかりしてください」
自分の体が揺さぶられているようでいて、他人の体のような感じもする。
「菊江じゃないの。香月でいいわ」
「では、香月さん。目を覚ましてください」
私は起きている。
でも、寝ている感じもする。
「黄色い屋根の家に行きたいわ……」
「隣のお家ですか。もう、ドアも開かないですよ」
そうだった。
何故突飛もない話をしているのか。
「家が、家が待っているのよ?」
「突然どうしたのですか」
壽美登くんの澄んだ瞳に吸い込まれそうだけれども、私の心は不純なようだ。
「若山竜乃祐が憎いのよ。あんな赤い髪のオトコ、私は嫌いだわ。織江ママはしっかり者なのに、選ぶ男性ってどうして駄目なのかしら。黄色い屋根の家に入って欲しくない」
私は、近くに落ちていたスタンド蛍光灯を握り、立ち上がる。
今日はプリーツスカートだとか、羞恥心もどこ吹く風のようだ。
「ファン・ゴッホも言っているわ。ゴーギャンを待っていると。黄色い家でゴーギャンを待つから、楽しい共同生活をしたいと」
「分かりました。隣家へ行きましょう」
壽美登くんの手によりスタンド蛍光灯は消され、床の間が明るくなった。
眩しい。
「ああ、くらくらするわ。最初の転移のとき壺にあったと聞いた一輪のひまわり。今では増えていないのかしら。二輪、三輪と増えて行くと、ファン・ゴッホの『ひまわり』の数と同じになる。そうよ、十二本のひまわりがあるだけでいい……」
私の周りにひまわりが沢山咲いている。
一面が黄色い花畑。
所々に種があり、私は食べようと手を伸ばすが、掴めない。
小学生の園芸委員を思い出した。
夏の間、毎日ひまわりがすくすくと枯れなかったのは、香月さんのがんばりのお陰だと、
その後、折り紙で作ったひまわり賞を貰ったとき、胸が一杯になったものだ。
ああ、その感情に似ているのか。
ひまわりの花が揃って揺れ、私に話し掛ける。
ざざ……。
ざざざざ……。
私は小学生の頃なんかを思い出していたせいか、身の丈が百二十センチ位になってしまった。
ひまわりの花々が私を見下ろす。
香月さん、もっと昔を思い出してごらんよ。
大切な何かを忘れていないかい。
花々が歌うように口を揃えていた。
「ああ、溺れるわ! ひまわりが百にも千にも……」
誰かが私の頬をぺちぺちと叩く。
闇のひまわりから、救い出そうとしているのか。
ひまわりが、赤く染まって笑い出した。
ケケケケ……。
「――ひまわりが氾濫する!」
私は、脂汗を掻き、硬直するように腕を伸ばしていた。
叫び声を天へ届けるつもりだったのかも知れない。
お陰で、半分は意識が戻った。
「ぷぷー」
これが噂に聞く千鳥足かと思った。
勿論飲酒の経験はない。
だが、腰が砕けている。
非科学的とは言い切れない、ひまわりの幻覚のせいか?
「危ないですよ。僕の肩に掴まってください」
「ぷー」
私が変な声を出したものだから、壽美登くんが引いたのか。
「香月さんは微笑ましいです」
「そうだわ。私の住んでいた家に行くときに、テオの本があった方がいいと思うわ」
私を畳みに座らせて、壽美登くんがテオの本を二冊用意してくれた。
色々な意味で、謝罪とお礼をし、一冊を手にした。
もう、一人で歩けるようになっていた。
あの幻覚は何だったのだろうか。
お陰で仮説が増えた。
転移そのものが激しい幻覚とも考えられる。
「こちらが、お隣の香月家です。暮らしていた頃の香りなどそのままに居抜かれて行きました」
「そうだったわね。家具もなにもかもそのまま。今にも菊次パパが帰って来たらいいのにと思うわ」
ガサリ――。
何か気配がする。
犬か猫だろうか。
「にゃー。わんわん」
「どうしました」
犬や猫ではなかった。
見覚えのあるシルエットにあの大股の千鳥足。
胸が高鳴るまま、口から零れた名は一つだ。
「菊次パパ……」
私に考える隙はなかった。
そのとき、テオの本を持っていたせいか、いつものようにミルククラウンが落ち、黄色い筒がせり上がった。
「壽美登くん、さっきの人影ね」
「はい。僕にも分かりました」
ファン・ゴッホの時代へと遡って行く。
「胸が鷲掴みされたみたい。やっと会えたと思ったら」
壽美登くんが筒の中で背中を擦ってくれた。
「パパ、パパ! うっううう、ひっく。パパ――!」
泣かない菊江ちゃんは何処へ行った。
封じるんだ、涙を。
――時は、『ひまわり』の絵が描かれる少し前、一八八七年十一月。
命運分かつポール・ゴーギャンとファン・ゴッホがお互いに顔を知るときが来た。
テオの本が勝手にばさばさと開き、ゴーギャンの名を上空に書き出した所までは覚えている。
ファン・ゴッホとゴーギャンの危うい関係がこれから勃発しそうな気配がする。
「ゴーギャンとファン・ゴッホって、うちで言えば、織江ママと菊次パパの夫婦喧嘩みたいなものかしら」
「そういう例えはできません」
ここで頷いたら、壽美登くんも酷い人になってしまう。
普通の反応だ。
ん?
テオが、ファン・ゴッホに話し掛けている。
「どうかな? この絵なんだけれども」
「おお、明るくて力強いな。僕と同じ浮世絵も好きなのではないか?」
テオは破顔した。
「画家、ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャンによって描かれたものだよ」
テオは、ブッソ=ヴァラドン商会にゴーギャンの絵を仕入れるか、兄に相談していた。
結果、テオは背中を押された。
「ゴーギャンか。いい感じの絵を描く」
――数日後。
「兄さん、僕と一緒に来てくれないか?」
「ああ、筆を休めた所だ。構わないよ」
ファン・ゴッホはいつもの格好で、テオとカフェに行った。
随分立派な紳士がいると思っていたら、彼を紹介された。
「何? この方が、画家ポール・ゴーギャンさんか」
「うおっほん。初めまして。自分の絵をお勧めくださり、ありがたいことです。ファン・ゴッホ殿」
ゴーギャンは、以前いい会社に勤め、家庭もあり、幸せに暮らしていたらしい。
だが、仕事も家庭も捨て、画家になったそうだ。
「いや、どうも初めまして」
「絵の買い手がいなくて困っていた所だったのだ。テオと貴方には感謝していますよ」
その後、二人はカフェ等で意見を交わし合った。
大抵は、ファン・ゴッホの愚痴だ。
「どうして、僕の絵が売れないんだ。全く売れないって、そこは酷いだろうよ」
またもやファン・ゴッホは大声を出してしまった。
「ファン・ゴッホ殿、落ち着いて。時代が自分達に追いついていないんだ。今の自分達は時代の先を行きすぎているのさ。だから、じっくりと待とうではないか」
一般的に大声を出すのは、気がおかしいと思われがちだ。
だが、その声の主は意味を分かっていないから出しているのだ。
ここは、大切なことなので、もう一度話す。
大声を出す主は、自分が現在大声を出しているとか、それが恥ずかしいことだとかを知らないし、一般的に気のおかしい人と思われるだなんて考えてもいない。
だから、ファン・ゴッホはいつまで経っても時折大声を出す。
「ファン・ゴッホ殿、まあコーヒーでも飲んでくださいよ。自分達が話す時間は無限にあるから、心配は要らないからね」
ゴーギャンは、ファン・ゴッホを窘めるのが上手かった。
「ポール・ゴーギャンさんは、絵への考え方がしっかりしている。大したものだ」
「ファン・ゴッホ殿は、絵に情熱的で素晴らしいと思っているよ」
この頃、テオは兄に対して困ったものだと思っていた。
画家やテオの仕事先の人に、大声で、ファン・ゴッホの絵が売れないのは何故だと疑問を投げかけるのだ。
ファン・ゴッホの頭の中にあることばかりをまくしたてて、気に入らないと怒りだすような厄介な兄になっていた。
「兄さんの行いで、僕までも交際が不自由になっている。兄さんは、もしかして二つの顔がないか。自分同士で闘っているように感じられる。もう、僕の手に負えないときがあると知っているかい」
テオは、誰にも語れずにいた気持ちを瞬く天の父へ届ける。
「ああ、壽美登くん。兄弟して、気持ちがばらばらになってしまったわね」
「そうですね。ファン・ゴッホは、このとき自身の絵を売りたい欲求と自身が認められない気持ちが満たされなかったようですね」
それから間もなくして、ファン・ゴッホは決意をする。
「そうだな、日本へ行こう。きらきらと明るい世界へ行くんだ」
ファン・ゴッホの胸の中は浮世絵の風景が過ぎったようだ。
「日本は遠いか。せめてフランスの南の方ならいいかも知れない。ロートレックからも青空の眩しい土地だと聞いた」
――翌、一八八八年二月。
ファン・ゴッホは、弟テオと華やかなパリを背に、アルルへ向かった。
アルルはサンレミの隣にあり、その明るい風景はファン・ゴッホを満足させるに至った。
「長旅も疲れたとは思えないよ。風光明媚な所へ来た」
満足そうなファン・ゴッホは暫くぶりだ。
しかし、香月家で菊次パパが何をしていたのか気になり出した。
私がそわそわしたものだから、肩に壽美登くんが優しく手を重ねた。
何だか、あたたかい。
もうそれで十分な気がする――。
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