ひまわり16 生々流転の情

「兄さん、フェルナンFernandコルモンCormon先生を師事するといいよ。若い画家が集っているから、きっと合うと思うよ」


 ファン・ゴッホは、その提案を受けて赴いた。


「本当に若者が多い」


 ちょっと控え目だったファン・ゴッホに挨拶する者がいた。


「こんにちは。ロートレックLautrecと申します」


 私が頭上を見ると、名が浮かんでいた。

 アンリHenriマリーMarie レイモンRaymonddeトゥールーズ=ロートレック=モンファToulouse-Lautrec-Monfaとある。

 ロートレックなら、私でも知っている。

 ムーラン・ルージュのポスターの色彩が特徴的で、写楽みたいにボディーに文字も書いてある作品もあった。

 ポスターの『ディヴァン・ジャポネ』は、黒い婦人が印象的だ。

 まさにジャポニズムの道へも切り込んだ画家と言える。


「ああ、フィンセントと呼んでくれ」


 二人は、軽く握手をする。

 早速、知り合いになったようだ。


「テオとの新しい二人住まいとなったわね。どうやら、ファン・ゴッホの気分も安定しているようだわ」


 壽美登くんと目を合わすと、彼は一つ頷いた。


「本当にテオの存在は大きいと思います。手紙も必要ない距離です」


「あら、そうだわ。このテオの本にも手紙の記述が少ない。ヨーが苦心して、皆に聞いて回ったのかしら」


 今や画家が集まったので有名なモンマルトルに、フェルナン・コルモン先生を師として、絵を学ぶ者が多かった。

 ファン・ゴッホも石膏デッサンに女性のトルソーを用いている。

 これなら、モデル代にも困らないだろう。


「金持ちのフランス人ばかりで、僕は肌に合わない」


 所が、ファン・ゴッホはそう零して画塾も残念な結果になった。

 しかし、一人、ジョンJohnピーターPeterラッセルRussell は、オーストラリアから来ており、親交を深めることができた。


「あら、これがラッセルの描いたファン・ゴッホの肖像画なの? 随分と深い色合いで、カッコいいじゃない。何々、こちらはロートレックがファン・ゴッホを描いたのね。明るいパステルを思わせるわ。色使い一つで変わるのがよく分かるわ」


 ファン・ゴッホは自身が描いた自画像が多いのでも有名だった。

 画家仲間に描いて貰えるだなんて、素敵だと思う。

 考えたら、壽美登くんには益子焼を貰っていたのだ。

 私も贅沢をさせて貰っている。


「この年のパリで、ピエール=オーギュストPierre-Auguste ルノワールRenoirクロードClaudeモネ Monetらに代表されるような印象派は古い感じがしたのでしょう」


「ルノワールの『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』の乙女の肌合いが好きだわ。モネと『睡蓮』は切っても切れないと思うの。オランジュリー美術館で周囲が全て『睡蓮』なのには、圧巻だったわ」


 壽美登くんが、トランス状態になっている。

 ぽんと手を打った。


「そうでした。香月家の皆さんと那花で一緒に、ここへ、パリへ来たことがありました。中一の夏休みです」


「どうして忘れているのよ、うっかり屋さんね。壽美登くんが忘れているとは思わないでしょう」


 少し意地悪くした。

 ロンドンとパリを観光したのは一生の想い出だ。

 特に、ロンドンに飛行機が下降して行ったとき、蜘蛛の巣の雫のようなオレンジの灯を忘れない。


「ああ、いやいや。すみません。過去のパリに夢中になってしまって」


 壽美登くんは、テオの本を読み上げている訳ではない。

 目を瞑っている。

 頭の中に辞書があるようだ。

 今、的確な引き出しに出会ったのが、瞼を起こしたので分かった。


「話を戻しますが、絵の具をそのまま置いたような明るい点描技法によるジョルジュGeorgesスーラSeuraポールPaulヴィクトールVictorジュールJulesシニャックSignacらの新印象派が目立って来ました」


 私は、テオの本が使えないかと思って、透かしてみた。

 代表作がスライドのように何点も見える。


「スーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』は、点が細かいわよね。シニャックも魔術的だわ」


「後に、シニャックの優しい心掛けが分かるときが来ます」


 画家も一人の人間だ。

 理詰めだったり温和だったりするのだろう。


「そうなのね。ファン・ゴッホとのことかな」


 彼は首肯した。


「印象派のその後ですが、第八回印象派展は、新印象派の色が濃く、第九回はとうとう開催されませんでした。それ程の勢いがあったようです」


「専門的ね。ファン・ゴッホはどうだったのかしら」


 私は旅で沢山収穫があるけれど、彼にとっては追体験や現実の見直しなのだろう。


エミールÉmileベルナールBernardと出会い、点描画をその目にしました。また、パリで様々な絵に刺激を受け、自分らしい絵の世界を確立しようとしておりました」


「テオ、ヨーはなんて綴っているの?」


 本を指でなぞる。

 ファン・ゴッホは、ご多分に漏れず春から秋にかけて、モンマルトルの丘から見下ろすパリの景観、丘の北面の風車、畑、公園など、また花瓶に入った様々な花の絵を描いた。

 花の絵――。

 私は、これが、『ひまわり』の始まりかと、少し頭を巡らせる。

 

 ――翌、一八八七年三月になり、ファン・ゴッホも三十四歳になった。


 その後、モチーフに人物画や自画像が増えたと本にある。


「私に自画像一覧を広げて、テオの本よ」


 すると、腰掛けているファン・ゴッホの頭上に肉筆も見える映像がパラパラと映し出された。

 自画像はファン・ゴッホのその時々に受けている影響や成長、バリエーションを感じられる。


「あのカフェ店主め。またもや駄目なのか……。僕の求婚する相手は、ことごとく突っぱねたり邪魔が入ったりするな」


 ファン・ゴッホは、出来上がった『カフェ・タンブランの女』を眺めている。

 そのカフェの店主であったアゴスティーナAgostinaセガトーリSegatoriをモデルに描いた。


「僕の絵を飾ってくれたのは、いいとしよう。しかし、どうして僕と結婚する気持ちにならないんだ」


 壽美登くんが付け加えた。


「ファン・ゴッホは、こうして、どうしても恋が実らないです」


「断られるのは、お金がないせいかしら? 執拗だから?」


 本人同士の問題だと、壽美登くんの顔に書いてあった。

 陶芸をしているときは、仏の那花と呼ばれるのに、恋愛の話になると、難しそうだ。

 

「テオとの同居も様子を見ていましたけれども、芳しくないです」


「いやあ、あれは喧嘩だわ」


 テオが思い詰めた顔をしている。

 紙をさっと用意して、ペンを走らせる。


「親愛なるヴィルへ。そちらは如何ですか? 僕は兄さんを親しく感じていたけれども、この頃は堪忍袋の緒が切れた。兄さんと上手に付き合う方法はもう探せない」


「私は、テオも忙しくなったのだと思うわ。仕事で、モネやロートレックの絵も扱うようになり、交際範囲も広がったりして」


「忙しいは心を亡くすと書きます。香月さん」


 ファン・ゴッホとテオが共に他の画家達と話しているのが見える。


「そうね、ファン・ゴッホの絵がかなり印象派みたいになって来たわね」


「そうです。新印象派とも見られます。模倣は創造の母なりとも言いますから楽しみです」


 二人でファン・ゴッホの後を追ってみた。

 絵の具店だ。

 見覚えのある店主が笑顔で迎える。


「やあ、こんにちは。タンギー爺さんの店には、沢山の画家が集まっていていい」


 私には、ファン・ゴッホはマイペースにしているように感じられた。


「モデルがいないのなら、よかったら儂はどうだね?」


 ファン・ゴッホは暫し考えていたようだが、ぱっと閃いた表情になった。


「僕は、面白い絵を思い付いた。きっと気に入って貰えると思う」


 その後、先程のジャポニズムの絵が完成するのか。

 いい所に来たねと、壽美登くんにアイコンタクトを送った。


 ――同年十一月。


「そろそろ僕も展覧会を開きたい」


 それから、ファン・ゴッホは陽気にもエミールÉmileベルナールBernardルイLouisアンクタンAnquetinらにも声を掛けていた。


「やあ、ベルナール、アンクタン、ロートレック、一緒に展覧会を開かないか? モネやルノワールは大きな所で催すらしいが、僕らは小さな規模でもいいと思うが」


 開催後、彼らは話し合っていた。


「ベルナールは、いい展覧会だと言ってくれたが、誰も来なかった。僕らはどうして駄目なのかな」


 ロートレックがフォローを入れる。


「ネームバリューだよ。気にすることはないさ」


「しかし、しかし、僕らは認められなかったのだ……!」


 ファン・ゴッホは帰宅後、煙草をふかし始めた。


「僕の絵は、間違いなくいいのに!」


 テオの本が勝手にばさばさと開いた。

 ウジェーヌEugèneアンリHenriポールPaulゴーギャンGauguinと、問題の人物の名が本の上空に書き出された。

 ファン・ゴッホとゴーギャンの危うい関係がこれから始まるのだろうか?


「壽美登くん……?」


 彼の横顔は、厳しくなり、眉間に力が入っていた。

 私も胸の鼓動が早くなるのを感じる。

 悪い予感だけが、私達を包んだ。


 ――つん。


「ミルククラウンが! 来るわよ、壽美登くん」


 テオの本は、空を一回転し、私達の手元に戻って来た。

 いや、寧ろ、胸へと押し付けるようだ。


「気を付けてください。僕と手を繋ぎましょう」


 あたたかい手が私の手首を掴んだ。

 黄色い筒状の壁がドンと勢いよく私達を包み込んだ。

 耳をつんざくような小槌の音がする。

 帰れ、帰れと誘っているようだ。

 その瞬間からの記憶は、ない――。

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