ひまわり15 恋の痛手

「ファン・ゴッホはウージェニーとケーに冷たく振られたと思っているでしょう」


 彼は、おでこにある旋毛を掻きながら、そわそわと腕組みをしたりもしている。


「どうしたの? 壽美登くんがそんな話をして」


 私は、まだ恋を知らない。

 だから、失恋も知らない。

 壽美登くんには、そんな経験があるのだろうか。


「いえ、ファン・ゴッホのことですよ。振られる前と後では画風が違うのは、画集で検証しました。気持ちの揺れが、恋の痛手が、彼を揺り動かしました。これからは、画家になる決意をしたのです」


 ファン・ゴッホは、恐らく人と上手くやって行けないタイプなのだろう。

 恋を知れば、突っ走り、告白をする。

 そこまでは致し方ない。

 けれども、振られてからの問題行動が目立つ。

 ほぼ、ストーカー並みに執拗だ。


「恋の痛手は人を変えるのね。油絵を習い始めた時間まで遡りたいわ」


 壽美登くんも同意見のようで、私達は決行した。


「テオの本を十字にしましょう」


「ええ」


 ミルククラウンから黄色い筒に覆われて、デジタル時計に念じた。

 エッテンの家を出てから二年後、一八八五年へ。

 三十二歳のファン・ゴッホに会わせて。


 ――一八八五年五月。


「香月さん、いい所へ来ましたね」


「あは。ちょっと非科学的に念を込めたのよ。ここは、上空のデータによると、オランダのニューネンみたいだわ」


「タイミングもいいようです」


 ファン・ゴッホはアトリエで鼻息を荒くしていた。


「農家の人々を五十人は優にスケッチをしたんだ。貧しくともコツコツと生きる息吹が聞こえるだろう」


 まさに、自画自賛の場面に出くわしたようだ。


「香月さん、本年の四月から五月に描かれた『ジャガイモを食べる人々』が仕上がったようです」


「お父さんは、この絵の完成を待てずに亡くなってしまった。僕の誕生日に埋葬されるだなんて、哀しい誕生日になったよ。見てくれこの傑作を! 今なら僕の信仰を分かって貰えるだろうか」


 絵の具を片付けて、何か閃いたようだった。

 活き活きとして、他の画家に見せている。

 褒めて欲しいと態度に表れていた。


「ファン・ゴッホくん、これは、まだ全然だ。絵を分かっていない」


「そんなことないだろう?」


 ファン・ゴッホは目で縋る。


「一見大胆なタッチだが、実に雑だ」


 作品は批判され、彼は随分と落ち込んだ。


「当時の画風もファン・ゴッホを苦しめていました。暗黒の時代、薄闇の時代と呼ばれる程です。地味な印象が強かったのでしょう」


 壽美登くんの解説を聞き、成程と思う。

 

「テオは、画商としても明るい色彩が好きでした。ファン・ゴッホはこの通りバルビゾン派にみられる暗い色彩を用いるので、揉めることもあったそうです。一八八三年頃からです」


 壽美登くんは、いつからファン・ゴッホ研究家になったのかと思った。

 それとも、芸術を志す者の心得なのかも知れない。


「ファン・ゴッホの恋の話ですが、一八八四年の夏へ僕達も見に行った方がいいでしょう」


「では、飛ぶわよ。せーの、テオの本を――」


「クロス」

「クロス」


 ――一八八四年夏。


「あーはっは!」


 いきなり、女性の悲鳴が聞こえた。

 空に浮かぶ文字からは、ニューネンの辺りにいるようだ。


「ふざけないで。このストリキニーネを飲んで死んでやる! フィンセントと付き合って何が悪いの? うちもフィンセントの家族もどうかしているわ! まるで陳腐な恋物語みたいよ」


 彼女はごぶりと飲むと、倒れてしまった。

 頭上には、マルガレータMargaretaベーヘマンBegemannと名があり、一八四一年生、一九〇七年没とある。

 だから、この年に事切れた訳ではないのは救われたと、私は胸を撫で下ろす。


マルホットMaogot とファン・ゴッホは恋人同士です。数日前なら、にこやかに二人で過ごしていたのでしょう」


「思い詰めて自殺未遂をしたのね。そんな家の反対で恋すらできないなんて辛いわ」


 私は、大きく息を吸って、細く吐き出した。

 胸が熱くなっている。

 鼓動が走り出したのを掴んで止めてしまいたい。


「僕なら家の反対を気にしません」


「確かに、気にしないで済めばいいわ。けれども、織江ママのお仕事で私は高校へ行けているの。もし、反対されたら……。どうしてか、よく話し合うわ」


「それは、香月さんの優しさなのでしょう」


 フィアンセ説が流れる程の幼馴染でも初めて分かったことがある。

 壽美登くんは、優しさだけで微笑まないようだ。

 何を考えているのだろうか。

 私と彼は、ああ、別の人間という殻に入っている。

 受け入れられないこともあるのだろう。

 恋愛って、お互いに全てを受容する訳ではない。

 ときに、情熱的にもなり、死別を覚悟でマルホットのような振る舞いもするのか。

 それとも、彼女は周囲の気を引きたかったのか。


「翌、一八八五年三月二十六日に、父ドルスが天に召されます。そして、五月には、『ジャガイモを食べる人々』が彼の納得の行く形になりました」


「そうね。壽美登くん……。父を欠くということは、恐らく誰にも告げたりしたくない程の衝撃があったと思うわ。私だったら、親友にも本当を伝えないわよ」


「それは、親友ではないからでしょう」


 私は、頭が瞬間的に沸騰した。

 壽美登くんにだって、噂で広がらなければ父の話を秘密にしたかった。


「今、分かったわ。テオだってファン・ゴッホと距離を取りたいときがあった筈よ」


 壽美登くんのテオの本がパラパラと開く。

 光る文字があった。


「この後の手紙で、お互い肩を落としたと綴ってあります」


 私はむくれてしまい、違う時代へ進めようと、本を縦に差し出した。

 交差すると、その時代の私達はあっと言う間に消えて行く。


 ――父が亡くなった同年十一月。


 丁度道を行くファン・ゴッホに出会った。

 テオの本がばさばさと開くので、文字を拾う。

 十月には描き上げた『開かれた聖書の静物画』は、テオへ送ったようだ。

 それは、農民もモデルになってくれなくなったから。

 他のニューネンで描いた絵は、母に捨てるも同然に扱われたらしい。

 では、ファン・ゴッホは哀しみを背負って、この地へ来たのだろうか。


「ファン・ゴッホはベルギーのアントウェルペンに暮らしているのね」


 彼の日々を観察していると、アントウェルペン王立芸術学院で学んだり、教会を訪れたりしており、ピーテルPeterパウルPaulルーベンスRubens の絵画をよく鑑賞しているようだった。

 そして、ある遠い国の文化を書物で触れた。

 画家人生のキーとなる体験だったのだろう。

 肩を打ち震わせている。


「おおー! 日本趣味はいいではないか」


 エドモンEdmonddeゴンクールGoncourtが喜多川歌麿、葛飾北斎等の浮世絵を本で紹介しており、日本趣味ジャポニズムに感化されて、浮世絵の収集に燃えていた。

 部屋の壁という壁に敷き詰める程だ。

 私は、その壁の見事さに、思わず声を漏らした。


「うわあ……」


 煙草を吸っていたファン・ゴッホが、こちらの方を向く。

 私はしまったと口を覆い、壽美登くんの肩を突っついた。


「はあ、壁に貼るとは。浮世絵に共感するこの力は、凄いわね」


 私は呆気に取られたけれども、壽美登くんはすましたままだ。


「それだけ、ファン・ゴッホに影響を与えているのでしょう」


 ファン・ゴッホは絵画で自己表現を昇華し、極めて情熱の世界へ走ったのではないか。

 絵の印象は、これを機に色使いなどが変わって来るようだ。

 壽美登くんにも感想を伝える。


「これよ。実際、先程の浮世絵を扱った代表作だけでも、絵の中に明るさが咲いていると思うわ」


「僕もこの日本趣味が、確たるものだと思います」


 暫くして、いつもの手紙が届く。


「テオからの手紙か。芸術の都パリで絵を描くお誘いとは、テオも出世したものだ」


 テオは、グーピルがブッソ=ヴァラドン商会と名を変えても支店長として、パリでお勤めしていた。


 ――年は明け、一八八六年二月。


「パリはいい絵の先生がいるだろうし、画家仲間もできる。第一、テオがいるから安心だ。テオは六月にと提案しているが、もう着いてしまったよ」


 はやる気持ちが抑えられなかった。


「驚いたよ、兄さん」


 テオには本当は迷惑だったが、寛容に対応した。

 六月には、わざわざ兄のアトリエも用意できる家に越してまでだ。


「兄さんのアトリエは、ここがいいと思うけれども、どうかな」


「眺めがいい。落ち着いて描けそうだ」


 窓からの風が涼しく私の頬を撫でて行く。

 私も外を望む。

 確かに、綺麗な空と町が溶け合っていた。


「これからです。これから、ファン・ゴッホは、花の都パリで花を咲かせます」


 壽美登くんが拳を作って、瞳を輝かせていた。

 恋を乗り越えて、ファン・ゴッホは前に進むのか――。

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