ひまわり2 ひまわりの壺は流転する
「僕は、ひまわりの壺を卒論のテーマに据えようと思っています」
そうか。
高校入学の頃は、壽美登くんは美術史をテーマにしたいと話していた。
特にファン・ゴッホが好きだとは聞いていなかったけれども、その壺が動機になったのか。
私は美術とは縁遠いから、その線は閃かなかった。
自分の卒論は、ただバイオテクノロジーを用いられればいいと甘く考えていたのを恥ずかしいと思う。
「今朝は突然に新幹線の切符を握り、『ひまわり』の前に来たのは、何か訳があるのかしら」
ファン・ゴッホの名画とひまわりの壺に何か繋がりがあるのか知りたかった。
まさか、日本に百年以上前の花瓶があるとは思えない。
「香月さん、壺の件で思い出しました。
彼は車内販売でホットコーヒーを二つ頼む。
断らずにいただくことにした。
「沢山の焼き物が割れた地震の後、父も那花の窯を立て直し、とうとう今春から教室再開となりました。そのお祝いに
「それがひまわりの壺なのね。ひまわりの花が描かれているのかしら」
「そうだったらいいのですが、もう少し不可思議な背景があります」
「私は、非科学的なことは信じないタイプよ。バイオテクノロジー大好き理系女子だわ。怪談はもう通じなくなったのを知っているわよね」
懐かしい話だ。
怖い話ではよく泣いていた。
おばけを信じていたから。
「香月さんは、卒園式のとき泣いていました。けれども、それきりで怯えもしません」
「もう泣かないわ。泣き虫菊江ちゃんは卒業したわよ」
私が三月の卒園式で泣いたのは、壽美登くんと泥団子を作れなくなるからだなんて内緒に決まっている。
陶芸教室で、軽い女子達が教えて欲しいと彼に群がっていた。
まるで蛾のようだ。
だから、私はオリジナルの道を歩むと心に決めた。
五歳下の双子の妹さん、
「ええと、切り出してもいいでしょうか」
壽美登くんが、おでこにある旋毛を掻く。
こういうときは、全力で話しているときだ。
「唐突ですが、用件をお伝えします。ひまわりの壺が、どうやらファン・ゴッホの『ひまわり』と関連しているようなのです。花瓶と呼ばれないのが僕にはしっくり来ないのですが、目の当たりにしてみれば壺とも捉えられます」
「中々興味深いわね。でも芸術を見る目はないの。どうしたら力になれるかしら」
うん。
このコーヒー、結構美味しい。
いただいてよかった。
「そこで、香月さんに科学的側面を頼みたいと思っています。この壺の組織から特定の
「成程ね」
設備は、織江ママの
勉強の為なら何でも協力的だから。
「今でも僕達が幼い頃から過ごした益子焼の郷に暮らしています。香月さんと勉強やお弁当の話を何でも笑って来られた想い出があります」
食べるのが遅かった壽美登くんももうコーヒーを空にしている。
緊張しているのだろうか。
「僕の依頼については内密に願います。また、真っ先に香月さんの顔が浮かんでしまったのは僕の責任だから、断られることがあっても仕方がないと思っています」
彼は頭を垂れるなり、じっと言葉を待っているようだ。
「大丈夫、遣り甲斐があるわね。OK、OKよ」
「それでは、引き受けてくださるのですか!」
彼が面を上げるとひまわりが咲いたような笑顔だった。
これには参ってしまう。
「好奇心がなくなったら、研究職に就きたい夢は叶わないわ」
私も笑顔で応じるしかない。
壽美登くんが溜息を漏らしてから、
◇◇◇
そこからは、バスで一時間程揺られる。
ご自宅の方にひまわりの壺があるらしい。
隣の一戸建てが空き家になっているから、目を瞑りたかった。
そこにある黄色い屋根の家こそ、楽しかった我が家だ。
だが、それも数年前までの話。
織江ママの
ママは事実上、旧姓の
そんなことを考えながら、独り言つ。
「ファン・ゴッホについて、芸術の場にいる壽美登くんが関わるのは分かるけれども、
あれ?
顔がお弁当付けてどこ行くの状態でしょうか。
壽美登くんが、やたらと私に視線を送る。
「どうしたのですか? 乗り物酔いでしょうか」
彼の繊細ながら逞しい手がおでこに当てられた。
「ね、ね、熱はないからね!」
「それなら安心です。気持ちが悪くなったら遠慮しないで教えてください」
壽美登くんっていつのまに男らしい体つきになったのだろうか。
陶芸も力が要る。
不器用なのかな。
創作のコツが掴めない。
こうして視点を変えると、彼が立派に感じられる。
今までそんな風に思ったことがなかったけれども、上背もあってハンサムだ。
「さあ、着きましたよ。益子です」
「う、うん。さっきまで東京だったのが驚きだわ」
彼は私を先に下車させた。
ここからは徒歩だ。
いつも通りなのか。
私は敢えてこちらに帰っていなかったので、分からなくなっていた。
隣人だった壽美登くんの家は少ししょっぱい。
「喉が渇いたりしていませんか?」
「あ! 今度は私に飲み物を奢らせてよね」
高校生なので、喫茶店には入らない。
二人とも真面目だ。
暑いので、今度は冷たい飲み物にしよう。
「壽美登くんってレモンティーが好きだったわよね」
百五十円を入れて、選んでいた。
「今は、ミネラルウォーターが飲みたい気分です」
「それって、百十円よ。遠慮しているのが分かるわ。今日は織江ママのお手伝いをしたアルバイト代で懐具合がいいのよ」
彼はおでこにある旋毛を掻きながら、ぽつりと声を落とした。
「お願いいたします」
私も偶にはレモンティーもいいと思い、お揃いにした。
一息ついて、再び歩き出す。
通りに面した所で、見たくもないものを拝むことになった。
「久し振りだわ」
青い屋根をいただいた壽美登くんの家の隣に、黄色い屋根をいただいた私の生家がある。
私の顔色が悪いからと、彼が早く那花家の敷地に上がらせてくれた。
ああ。
ここは夢の中なのか、『ひまわり』の黄色と我が家の黄色が重なって揺らめく。
彼と笑い合って過ごした幸せを壊すなよ、壊すなよと囁いている――。
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