ひまわりの氾濫 ―ゴッホの芸術と人に迫る―
いすみ 静江
第一章 【現在】ひまわりの遺言
ひまわり1 五十八億の溜息
――私達の旅を不遇に狂い咲く『ひまわり』に熱情を注いだ画家ファン・ゴッホに捧ぐ。
十一月、
壽美登くんがいなければ、私一人ではなし得なかっただろう。
彼に感謝しつつ、不思議な体験を交えて追うことになったファン・ゴッホの芸術と人を振り返りたい。
◇◇◇
――七月十日。
日曜日だと言うのに、私は、壽美登くんに誘われ、
その足で保険会社の高層階に着くと、五十八億円が迎える。
うねる黄色に生命力が溢れる名画、『ひまわり』だ。
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ――Vincent Willem van Gogh――その名に誰の説明も要らない。
「菊江ちゃん。……ごめん、つい。高校からは香月さんでしたね」
隣には幼稚園から腐れ縁の那花壽美登くんがいる。
彼は口元を覆って咳払いもした。
「あっは。菊江ちゃんはもう卒業しようよ」
花戸祭高等学校の同じ制服で灰色のブレザーだが、彼はチェックのスカートを穿かない。
その代わりに黄色いストライプのネクタイが似合っている。
そんな十七歳にお互いになったのかと思う。
今日は勿論私服で、私は橙色の小花柄チュニックにブラックジーンズ、彼はいつもの水色シャツに白い綿パンだ。
「香月さんなら知っていますよね。一九八七年三月三十日、日本のこの会社が『ひまわり』を約五十八億円で落札したとニュースが走った件です。僕には、バブルの象徴に思えます」
こうした理知的な話をできるのが、彼の好きな所だ。
思えば、幼稚園の年少、年中、年長、小一、小二、小三、小四、小五、小六、中一、中二、中三、高一、高二、高三と、いつも同じ教室にいた。
ずっと一緒のクラスでも飽きない程、話題に尽きない幼友達だ。
空気のような存在で、親友以上には思えない。
「クリスティーズ、イギリスはロンドンのオークションハウスで競り落としたのね。私はこの名画に胸を打たれるわ。けれども、『ひまわり』は人を救えるかしら。莫大なお金を苦しい人々へ向けられたらとも思うの」
「成程です。僕はそんな風に考えられませんでした。芸術の素晴らしさに感動してしまい、打ち震えています。生きる躍動感を『ひまわり』に込めたのではないかと、上向きの花、横向きの花、下向きの花、それらの花弁が勢いを持ち、人生の岐路さえ感じられます」
壽美登くんの家は、代々
芸術が好きで、特に美術の時間は集中しており、声を掛けられない程だ。
今も、あらゆる角度から『ひまわり』と対話している。
その為に来たのは分かるけれども、私達はそろそろ帰らなければならない。
「さあ、明日から期末試験よ。目の保養になったかしら」
私は、名画から振り返り、肩下まであるポニーテールを揺すった。
壽美登くんは、薄い茶の瞳ががっかりしたことを物語ったが、黙ってエレベーターのボタンを押した。
まだ『ひまわり』が見えると思ったのか、隣の彼は二度振り返ったけれども、無情にも死角になっていた。
高速で通過フロアを示すランプが瞬いて行く。
私は、到着を知らせる音ではっとした。
彼だけが、惜しむ訳ではないと。
五十八億の象徴と本当にお別れのときが来た。
高速で下降する中、俯き加減でいると意外な話題を切り出された。
「花戸祭高の校庭は、これから、ひまわりが満開の季節を迎えますね。もう懐かしい夏休みです」
彼は高い天井を眺めて、高二のしぶとい夏を思い出したようだ。
「そうそう。クラスの出し物は二年A組のときに益子焼喫茶店だったわね」
「僕は、学園祭のマグカップを板づくりでひたすら用意していました。暑いのと熱いのとで三キロ痩せた頃、香月さんが差し入れをくれまして、その節はお世話になりました」
二人して、にこりと一つ笑い合ったら、黙りこくってしまった。
私達だけの緋色の箱で過ごす時間はあっという間だった。
勿論、降りるのが速いせいもある。
私は、うさぎのように大きなビルの一階へと降り立つ。
「ふう、外の空気はいいわね」
ビル風が吹き抜けて、私はスカートと前髪を押さえるのに苦労したけれども、暫く高架された都会ならではの道を行く。
駅へ向かう道すがら、ここへ連れて来た壽美登くんの真意を知りたいと思った。
通路はもう華やかな地下街へと入って行った。
「三年の卒業論文は、決まったの? 壽美登くん」
私には、今、閃いたことがある。
黄色と黄色が氾濫する『ひまわり』で胸が一杯になっている今だからこそ、卒論のテーマに向かないかと思っていた。
理系コースを受験対策に専攻しているから、黄色から茶系の絵の具について研究しようかと薄っすら考えている。
「卒論ですか? 題材は決まりました」
「どんなテーマか訊いてもいいかしら」
私は、下から覗き込むように腰を曲げて彼を見上げる。
「道々お話しします。ご飯は
「OK、OKだよ」
車内で買わないで、駅舎の駅弁店に寄った。
彼がレジで一緒に買うとの申し出を私は丁寧に断った。
壽美登くんの気遣いをありがたいとは思うけれども、そこまでして貰う程の間柄ではない。
とても親しい友達が一番ぴんと来る感じだ。
「香月さん、肉系好きですね。元気があっていいと思います」
食指を伸ばした『
「壽美登くんのは、『
チケット再確認を二人とも繰り返していて、楽しいと思った。
几帳面さが似た者同士なのか。
「肉系か大名系かの戦いが始まりましたわ!」
割り箸を手にわくわくする。
私はお弁当に目がない。
学校へも早朝から自分で拵えている。
満足の行く、肉肉肉、肉肉肉にしたいから。
母がベジタリアンだから、こう育ったのも当然だろう。
「やあやあ、伊達公は独眼ながらに何もかもお見通しです。勝敗は、いつも香月さんにしてください」
壽美登くんは、即刻降参した。
「戦意喪失肉系です。伊達公殿」
彼は争いや競争を嫌う。
芸術の前では解釈一つで平等で平和だと話していた。
私は肉の
隣の座席を見ると、まだお弁当を開けていなかった。
「では、食べ終わってから卒論について話します」
「えっと、壽美登くんもお弁当を一緒に食べようよ」
私は肉と相性のいいご飯を口にした。
これが至極と言うものか。
「そうですね。我が家に舞い込んだ焼き物のことで胸が一杯でした」
「舞い込んだ? 焼き物? えーと、誰かから託されたの?」
壽美登くんはお弁当の漬物でご飯を食べ始めた。
肉系理系女子は、
メインは後にしたいのだろうか?
いや、彼は食事よりも考えごとをしているようだった。
「我が家にひまわりの壺が舞い込んだのです。花瓶ではなく、壺が」
壽美登くんの目は笑っていなかった。
何か混み入った事情があるのだろうか。
ひまわりの壺とは一体どんなものか、私には皆目見当が付かない。
東京へ来たのも壽美登くんからのお誘いがあってのことだ。
機械的に箸を運ぶ内に、二人ともお弁当を綺麗に食べ終えてしまった。
空気が重い中、冷めてしまったお茶で緊張をほぐす。
「これから経緯について話します」
壽美登くんがこちらへ真顔を向けた。
いつも真面目だが、それにしても強張っている――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます