死月王の泉
露を載せた
くらり、と目が回った。
一瞬だけだ。一瞬の後には、名無しの男は冷静さを取り戻した。そう思おうとした。
エリューカから血の匂いはしなかった。
だからこれはエリューカではないはず。
玉座に座る銀髪の青年から、血の匂いは――しない、何故。
「たくさん殺したんですね」
エリューカの声で。
「やっと、ここまで来た」
エリューカの姿で。
けれども、今朝別れたあのエリューカとはまるで違う。
老人のような温度のない微笑みと、凄惨に暗い淡青の瞳。
腰までの長さだったはずの銀髪は、長く長く、真っ直ぐ伸びて肩を下り手足に巻き付いて流れ落ち、無数の銀糸のように水面の下に消えている。
軽々と森の中を歩んでいた二つの足も、泉に浸かったままだ。
「お前が
「この玉座にある者を、皆、そう呼びます」
「お前を殺すために来た」
「私を殺せば私によって
「そんなことは知っている」
「
よく聞いて。私を殺したら、この泉の水を汲んで色のない瓶に詰め、百夜月光に晒してください。瓶を割ると、中に月水晶ができているはず。それを持ち歩けば安全です。この泉の水は、聖水に似た効能がある。飲ませれば
「お前、」
「覚えましたね? 瓶は、その辺りに古い酒瓶がいくらでもあるはずだから、それを使うといい」
「何のつもりだ」
石の玉座に座る青年は、まるで自らの銀髪に縛り付けられたようにその場を動かない。その脚にも手にも髪が巻き付き美しく伸びて水中に没する。
名無しの男は思い出す。
血を吸われて
それゆえ、古い吸血鬼になればなるほど血を与えねばならない抱え子が多くなり、ましてある広大な地域で王と呼ばれるほどの最上位の吸血鬼ならば、その抱え子の数は――そしてその王の存在意義とは。
これは。
「この世界を終わらせるために来たのでしょう。
それは、私の夢でもあった」
やっと男の知る柔らかな表情で微笑んで、その
「私を殺して。
そして、あなたは、しなないで」
この泉は、
「エリューカ、」
――何人も案内しましたが、何人も死にましたよ。
自分を殺す者を求めて道案内を続けていたのか。吸血鬼たちが気付かぬよう、側にいることで
今思えばエリューカは、この森と匂いが似過ぎていた。触れることはできたし温度も感じられたが、羽根のように軽い奇妙な感触だった。森の精のようだと思った。血の匂いもなかった。
だがそれは、エリューカが実体ではなかったからだし、この泉の水に匂いが消されていたからだ。
霊体となって現れることはできるが、抱え子の吸血鬼たちを殺すまでの力はないということか。
それほどまでに、喰われている。
ここに、この聖水の泉に縛りつけられて、決して逃げないよう、まるで
よく見ると、側には取り外し式の細い桟橋が置かれていた。抱え子の吸血鬼たちがそれを玉座の側まで渡して
銀髪に巻かれたエリューカの素足にも手にも、無数の咬み傷があるのが男には見える。
「お前は、王でありながら呪われてここにいるのか、エリューカ。この水と、銀の髪に」
「ええ。先代の王が私をこんな風にした。私の親きょうだいを殺し、私を殺し、自分の代わりにここに座らせたんです。
王は、自分の抱え子のひとりに位を譲って滅びることができる。新王となった子は、先王の抱え子たちを養わなければなりません。彼女は私が逃げられないようここに縛りつけて王位を継がせました。
ねえ、人の子が五代十代と子孫を残していくだけの長い間、ただここに座って喰われ続けながら狂えないことの残酷さが分かりますか」
淡青の瞳から、涙がひとつふたつ、頬を滑り落ちていく。今朝まで一緒にいたエリューカよりも
王ではなく、餌。
この泉、この森に閉ざされて、ただひたすら餌として喰われ続ける数百年。
「殺してよ。何人も、何人も誘い込んだ。みんな死んだ。私の抱え子たちに殺されて、何人かは
どうか、と震える声で
私を殺して、この世界を終わらせて、と。
名無しの男は動けない。
自分が何をしようとしているのか、分からなくなる。
世界を終わらせる?
一足飛びに死に近づく?
エリューカは何故、死ななければならない?
思考を追い越して、身体は動く。名無しの男は泉に踏み入る。氷のように冷たい湧き水に膝まで浸かりながら玉座に近付いていく間、靴底が無数の骨を踏み砕くのを感じる。
あらゆる死の上におれたちはいる。
いつか必ず来る死に向かって落下するように生きている。
名無しの男は
エリューカは、ほっとしたように
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