血と短剣
まだ薄暗いうちに洞窟を
名無しの
待って、と追ってくる青年の声がして、振り返りざま男は袖に仕込みの
裂かれた喉から赤黒い血を撒き散らし、銀色の髪は石の色に、淡青の瞳は深紅に戻る。
「似ていない」
男がそれだけ言うと、
相手の最も心許す相手の姿に見えるよう幻術をかけていたのだろう。消え際に見えた吸血鬼は、似ても似つかない中年女だった。
どんな風に上手く化けても騙されることはないだろう、と男は思う。吸血鬼は他人の血を次々と飲むために、様々な古い血の混じり合った何とも言えない嫌な匂いがする。
そのまま進むと川のほとりに、転んで泣いている幼い少女を見たので、真っ直ぐ近付き首を斬り飛ばした。小さな首と身体はたちどころに黒い霧に砕ける。
弱く可愛らしいものに化けて人の善意を利用するのも、吸血鬼にありがちなやり方だ。
更に川を
自分の顔などきちんと見たことがないな、と男は思う。長く伸びて乾き切った黒い髪、同じ色の暗い両眼、人を近付けまいとするような難しそうで強い眉。骨ばった顎と、およそ人付き合いのために開かれることはなさそうな口元。確かにこれは怖い顔なのだろう、と思いながら、その顔に
エリューカは何故、怖がらなかったのだろうか。
何故あんなに無防備に近付いてきたのか。
黒い霧。
自分も死ぬときはこんな風だろうか。
一度目の死では、恐らく
二度目の死ではこんな風に、見知らぬ
今殺した吸血鬼も、ほんの少し前までは同じ
エリューカには見せたくない、と思った。
しなないで、とエリューカは言ったが、その通りにはしてやれそうもない。男は
そして万に一つ生き残ったとして、エリューカと再会してもどうなるものでもない。清浄な森の精のようなあのエリューカが、血と断末魔にまみれた自分のような者の近くにいて耐えられるはずがない――男は
吸血鬼は繰り返し様々な者に化けて現れた。男が見知った者の姿、あるいは全く知らないが恐ろしく美しい姿で。
進むほど、木々の間に転がる
骨の側には、朽ちた帽子や上着、剣なども見かけた。いずれも
自分もああなるのかもしれない。
朝陽の昇った頃から再びの夕暮れ時まで、殺して、砕いて、進み続ける男の前に最後に現れたのは、遠い記憶の中にしかいないはずの叔母だった。
自分を産んで死んだ母の、双子の妹。母と瓜二つだというその姿を見に、男は山から町へ忍んで行ったことがある。
まだ子供の時分だった。山の実りで飢えを満たし、時には旅人を襲ったり騙したりして服や道具、幾らかの金を奪っていた頃だ。
叔母は豊かな黒髪をした、美しい人だった。それが、
二、三度見に行き、ついにたまらなくなって姿を見せると、叔母は想像を遥かに越えた憎悪の表情を見せた。
――生きていたのかい、化け物め。
叔母は粗末な部屋の戸口から中に入ってこちらを
――物欲しそうな顔であたしを見るんじゃないよ。お前を産んだねえさんのせいで、あたしはこの通り地獄の暮らしさ。本当ならお前を八つ裂きにしてやりたい。
ただ、小銭のために泣きながら耐えている叔母の姿が辛かっただけだ。それで目の前に出ていってしまった。だが後から考えれば、確実に、全く意味がなかった。できることは何もなかったのだから。そして、会ってしまったことで事態は悪くしかなりようがなかったのだから。
呪われた子を追い払った直後、叔母は自分の客でもある
山狩りが行われ、その辺りにはもう住めなくなって、以来男は故郷に戻ったことはない。
男は、叔母の姿をした化け物の喉をかき切る。
本物の叔母はまだ生きているのだろうか。
化け物め、と叔母そっくりの声色で言って、吸血鬼は砕け死んだ。
斬っても斬っても砕いても、身構えていたほど力の強い吸血鬼は出てこない。人の多い中に
誰もいないこの森の中では、吸血鬼の匂いもよく分かるし、人間を盾に取られることもない。
斬って、進む。
また斬って、進む。
寒い。
空気が重い。
やがて木々の向こう、深い森の暗がりの中にぼんやりと揺れる光が見えてきた。
泉だ。
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