未明の夢

 夜明け前、目を覚ましたエリューカが川へ行き、戻ってくる。

 喉を潤しに行ったのだろう。まだ朝陽が届かないのに、不用心なことだ。

 その間中、男は目を閉じたままでいたが、エリューカが戻ってくると目を開けた。

 視線が合うと、指一本で砕ける美しい細工物のようにエリューカは微笑む。


「まだ眠っていて」


 岩場に腰かけたままの名無しの男に、エリューカは白い両手を投げかけた。


「朝陽が射すまでもう少しだけ、……」


 やはりこれは吸血鬼ヴァンパイヤ、夜族なのではないだろうか。こうして自分を喰うつもりではないだろうか。

 エリューカはするりと抱きついた。男の後頭部から首を撫で、耳のそばに唇を寄せては、猫のように蛇のようにゆっくりと頬ずりする。美しい銀色の髪がさらさらと視界を流れた。こめかみに口付け、額に口付け、エリューカはいつしか名無しの男の頬を両手で包むようにして、彫りの深い顔立ちの、鼻のてっぺんに口付ける。男はエリューカの、自分よりは余程細い身体を銀の髪ごとゆるりと抱き寄せる。

 横向きに座るように抱かれたエリューカは何の抵抗もせずに、更に身を寄せた。森の匂いがする。


「……あなたは、まだ、眠っているんだよ」


 震えてかすれた声、エリューカは淡青の瞳から涙をこぼしている。しなないで、とささやいて、名無しの男に口付ける。しっとりとして柔らかいその唇が、自分などに触れていたんでしまうのではないかと男は思う。

 自分はまだ眠っているのだろう。

 そして、このエリューカはやはり吸血鬼ヴァンパイヤではない。

 エリューカからは、死人の匂いも、混じり合った血の匂いもしないのだから。

 その唇からは、血ではなく涙と森の香りがするようだった。

 男はエリューカの唇をむさぼる。丸飲みにしたいような気さえしていた。自分こそもう吸血鬼ヴァンパイヤになりつつあるのではないかという考えが頭をかすめたが、男の首をかき抱くようにして応えるエリューカの腕の優しさに、唇の温かさに、やがて何もかもを手放す。


 永遠に夜明けが来ないなら。このままでいられたら。



 けれどもこれは、最後の夜。

 最後の、短い夢だ。




 そして、もう夜が明ける。






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