第19話 そんな器ではないのです

 崖から身を乗り出して叫ぶマリーシャの顔が遠ざかっていきます。

 彼女はあたくしの後を追って飛び込もうとしたようですが、誰かが無理やり引き戻したらしく、崖の向こうに姿が見えなくなりました。


 ごめんなさい、マリーシャ。

 今までずっと傍に居てくれたあなたに迷惑ばかりかけてきたけれど、最後にまた大きな迷惑をかけてしまいましたわね……。


 あたくしは今、奈落と呼ばれているこのフロアの巨大な穴を落ちています。

 足を踏み外した――わけではありません。


 あの瞬間、あたくしは間違いなく

 そのせいで体勢を崩し、落ちてしまったのです。


 ですが、あのときあたくしの後ろにいたのはただ一人。

 まさかが……?


 いずれにしても、あたくしはこれで確実に死ぬでしょう。


 ……怖い。


 けれど、どこかホッとした気持ちもあります。

 これでもう、あたくしはお父様から玉座を引き継ぐ必要はないのです。


 お父様はあたくしを女王にしようとお考えで、王宮に仕える貴族たちの多くがそれを指示しています。

 その期待に応えるため、あたくしも頑張ってきました。


 でも……やっぱり女王なんて、あたくしには荷が重い。

 そもそもあたくしはそんな器ではないのです。


 あたくしはお兄様のことを嫌っていますが、それでも王に相応しいのはやはりお兄様のような人間でしょう。

 乱暴で粗野な男ではありますが、あれが人を率いる能力においてはあたくしなど足元にも及びません。


 元よりあたくしは人前で話をすることすら苦手な性分なのです。

 できることなら王族の役目なんて忘れて、ずっと自室に引き籠っていたいくらい。


 戦うのも好きではありません。

 いえ、嫌いと言っていいでしょう。

 もちろんダンジョンも嫌いです。

 こんな危険な場所に可愛い娘を送り出すなんて、お父様はどうかしています。


 あたくしもただ護られるだけのお姫様になりたかった……。


 幼い頃から好きだったお伽噺。

 その登場人物であるお姫様たちには美しいこと以外に何の能力もありませんが、たとえどんな不幸に遭ったとしても、必ず最後にはカッコいい殿方によって救われていました。

 そしてその男性と結ばれて、ハッピーエンド。


「……ですが結局、あたくしを護ってくれるようなお方は現れませんでしたね……」


 どうやら現実はそう上手くはいかないようです。

 クルシェさまは女性でしたし……。


 ああでも、あのときのは――


 と、そのときでした。

 突然、身体が何かに抱え上げられて、夢想の世界に沈んでいたあたくしは瞑っていた瞼を開きます。


「……っ!?」


 視界に飛び込んできたのはあの男の顔でした。



    ◇ ◇ ◇



 ……やっちまった。


 奈落の底へと落下しながら、俺は内心で呻いていた。


 今もぐんぐん落下速度が増している。

 この穴の底はどうなっているのかは知らないが、このまま地面に叩きつけられたら十中八九死ぬだろう。


 なのにフィオラ王女を追ってマリーシャが身を投げようとしたとき、思わずそれを押え込んで代わりに奈落へと飛び込んでしまったのだ。


『じゃが、なかなかカッコ良かったぞ? くくく、あれに惚れぬ女などいないじゃろう』

「そんなつもりでやったんじゃない。てか、死んだら何の意味もねぇだろ……」


 もちろんこのまま大人しく死ぬつもりはないが……。


「っ! いた」


 暗くて分かりにくいが、前方に人影を発見する。

 フィオラ王女だ。


 俺は気流を操作して加速し、どうにか彼女に追いつく。

 その身体を抱え上げた。


「……っ!?」


 王女の瞼が開き、俺の顔を見て息を呑む。

 意識を失っているのかと思ったが、恐怖で目を瞑っていただけだったようだ。


「な、なぜ……っ?」

「助けに来たに決まってんだろ! それよりちょっと無茶するから歯を食い縛ってしっかりしがみ付いてろ!」

「っ……」


 俺は今度は下方へ風を発生させ、どうにか速度を落とそうとする。

 だがこの程度では落下を止めることはできない。


 足元に限界まで強度を弱めた結界を出現させた。


 パリンッ!


 簡単に突き破ってしまうが、これでいい。

 再び同じ結界を作り出し、突き破る。


 それを何度も繰り返すことで、少しずつ速度を落としていった。


『む! 地面が近づいてきたぞ!』

「了解!」


 ウェヌスの注意を受けて、俺はその刀身を崖に思いきり突き刺した。


 ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!


 刃が硬い岩盤を削る音が鳴り響く。

 両腕に凄まじい圧力がかかるが、俺は必死に耐えた。


 ガガガガガ……。


 やがてどうにか落下が止まった。

 視線を下に向けると、奈落の底が見える。

 あと十メートルといったほどだろうか。


「た、助かりましたの……?」


 俺にしがみついていたフィオラ王女が、恐る恐る顔を上げて訊いてくる。

 この体勢なので当然だが、涙目になったその美貌がめちゃくちゃ近い。

 彼女の吐く息が鼻先を擽ってくる。


「……と、とりあえずは。だが生きて帰れるかはまだ分からない。見ろ」

「っ……魔物が……」


 先ほどの音を聴きつけてきたのだろう。

 暗闇の奥で幾つかの影が蠢き、こちらに近づいてくるのが見えた。


「戦うぞ。いけるか?」

「は、はい……っ!」


 ん?

 やけに素直な返事だな?

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