第2話 罪などとうに消えていたのに

『嫌だったら、逃げてもよかったのに』

 初めてシたとき、先輩はそうわたしを嗤っていた。酷い人だと思ったのに、それ以上にやっぱりこの人はとても綺麗だ――としか思えなかった。


 小学校の頃、仲のよかった友達がいた。どんなときもわたしを守ってくれて、いつも傍にいてくれて、わたしが何を言ってもちゃんと聞いてくれて……そんな、大好きな友達がいた。たぶん、友情なんかよりもずっと強い、ひょっとしたら恋と錯覚してしまうような気持ちを抱いていたのかもしれない。――――だけど。


『ごめん、もう無理』

 そのたった一言で、わたしは孤独になった。彼女も一緒になって虐められるようになったから……それはわかっていたし、受け入れるつもりだった。

 だって彼女――理恵りえちゃんが虐められていたのはわたしといてくれたからだもん、そんなの、わたしだって心のどこかで苦しかった。だから、独りになるのはよかった。でもつらかったのは、卒業した後、わたしに何も言わず違う中学校に行ってしまったこと。

 一緒にいてくれるなら、近くで見ていてくれるなら、たぶんまだ耐えられた。でも、突然ひとりにされて、周りにはさんざんわたしを虐めていた人たちばかりの状況。そんなの、誰だって耐えられないに決まってた。


 教科書に誰のかわからない唾とかが掛かっているなんていうのはいつものことで、無理矢理押さえつけられて嫌いな食べ物を口に入れられたり、買ったばかりのリップクリームを男子の下着のなかに入れられたり、授業の毎時間毎時間、誰かしらから気持ち悪い写真を丸めて投げつけられたり、机にナイフでいやらしいマークを彫られたりしたこともあった。

 もちろん、わたしを庇おうとしてくれる子も全然いないわけじゃなかった。でも、その子たちも虐めに巻き込まれるのを嫌がってすぐに離れていったし、もしかしたらそれが仲間に戻す条件だったのか、その子たちはみんな、わたしの嫌な噂をひとつずつ作っていった。

 生徒たちから気持ち悪がられている理科の先生とわたしがホテルから出てくるのを見た、とか。

 強引に登録させられた出会い系アプリを使っておじさんから高いお金をせびっているからクラスのみんなにもっと払えるはずだ、とか。

 消費期限の切れた食べ物をいつも食べてるからお腹も丈夫で、校舎裏の草がいつも生い茂っているのはわたしが食用に育ててるからだなんていう笑っちゃうような噂とか。


 でも、どんなに嘘臭い話でも、みんなで言うと不思議と説得力が出てしまう。だから中にはそれらと噂を本気で信じて、本気でわたしを気持ち悪がる人も少なくなかった。

 『生きてていい税』とか言って取られる金額も増えて、お店のものを盗らされる頻度も増えて、もう顔を覚えられて外を歩くこともままならないほどになった頃、屋上から飛び下りようとしていたわたしを引き止めたのが、伊藤いとう愛佳あいか先輩だった。


『そんな綺麗なのに、どうして死んでしまうの?』

『綺麗なんかじゃないです、それに……もう耐えられませんよ。こんな風になってまで生きてるなんて、嫌です』

『そっか……じゃあ仕方ないね』

『……、』

 止めてくれないんだ、と落胆したわたしに、先輩は突然『じゃあさ、死ぬ前にさせてよ』と言ってキスしてきた。それが初めてのキスだった。舌をねっとりと絡めて、唾と熱を交換し合うようなキスは、死にたいと思ってたこととか全部どうでもよくなってしまうくらい気持ちよくて。


『もし、さ』

『…………、はい』

『もし君に好きな人とかいるんだったら、これ以上はしないよ? 嫌だったら、ここから出ていいからね。……10、9、』


 唐突に始まったカウントダウンのなかで、わたしが思い浮かべた顔は……すぐわたしに背を向けて、『ごめん、もう無理』と冷たく言い放って。

 その日以来、わたしは先輩に生かされ続けている。


   * * * * * * *


 先輩は、やっぱり酷い人だった。

 何日もかけて丹念に、わたしを先輩なしではいられなくしたくせに、すぐ『じゃあ別れよっか』と言ってわたしを無理矢理従わせるのだ。

 前にクラスメイトたちから流された噂以上のこともさせられたし、先輩自身も一緒になってそういうことをしたこともあった。そんな先輩の姿に見とれながらも、先輩を他の人に好きにされているのが我慢できなくて苦しくて、どうしようもなくなったりもした。


 そうやって、先輩との日々に溺れているうちに、高校で彼女と再会した。ほんの少しだけ、胸が少しだけ高鳴ったけど、ほんの少しだけだった。もう、あの頃、あれだけ彼女にしがみついていた理由がわからないくらいの感情しか、芽生えなかった。

 懐かしいな、とも思わないなんて。

 薄情で、ごめんね。

 けど、純粋にただの挨拶として。

『久しぶり、理恵ちゃん!』

 そう声をかけたときの理恵ちゃんは、どこかびっくりしたように見えた。それからちょっとだけ、どこかが痛むように顔が歪んだ……なに、その顔?


 痛くてつらい思いをしてたのは、わたしの方でしょ? なんで理恵ちゃんがそんな顔するの? そういう顔すれば、後悔してるって伝えたつもりになるの?

 後悔してれば、許されるの?


 あぁ、もう。

 理恵ちゃんがわたしに申し訳なく思うことなんて、もう必要なかったのに。ただ昔を懐かしみながら、これからもよろしくね、って言えたらよかったのに。

 そんな顔するから、もう駄目だ。

 もう……、あの頃の気持ちが甦ってくる。


 ドロドロして、気持ち悪くて、苦しくて、周り全部が敵みたいに思えて、辛くて、悲しくて、そんなあの頃の気持ちを、全部思い出してしまった。

 だから、わたしは決めた。

 昔と同じように傷だらけのわたしを見せて、理恵ちゃんの気を引こう、って。それで、を見せ続ける。そうしたら、きっと理恵ちゃんはずっと苦しんでくれるから――。


   * * * * * * *


「先輩にも相談したんだけど、別にいいって。でも酷いんだよ、本気になったら別れるなんて言うの。難しいよ、そんなの。だって昔好きだった子とこういうことするのに、気持ちを全然入れないなんてできるわけないもんね?」

「なにそれ……、ねぇ、先輩って誰? 椎名しいなが帰ってくるのはここじゃ、」

「違うよ」


 あぁ、苛つく。

 理恵ちゃんの驚いて、青ざめた顔を見れば満足だと思ったのに。駄目だ、こんなんじゃ足りない。なんで、わたしがここに帰ってくるの?


 わかってないんだ、きっと。

 だったら、ちゃんと言ってあげないといけない――じゃないと、可哀想だもんね?


「ごめんね、理恵ちゃん。わたしね、今すっごく幸せなんだ。何されてもいいって思える人がいるの。

 明日になったらもう帰っちゃうけど、またから。だから、寂しくても我慢しててね?」

 ちゃんと、突きつける。

 理恵ちゃんの知ってる、理恵ちゃんの後ろにずっと付いていっていた女の子は、もうここにはいない。わかったら、これ以上わたしを苛つかせないで。


 おやすみ、と軽く言葉をかけて、わたしは理恵ちゃんに借りていたベッドに戻る。後ろから聞こえてくる力ない声がなんと言っているのかよく聞こえなかったけど、明日、先輩に今日のことを話したらどんなことをされるのか――それを思うだけで、身体の奥が少し熱くなった。

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そして私は、翅を毟る 遊月奈喩多 @vAN1-SHing

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