そして私は、翅を毟る

遊月奈喩多

第1話 贖罪は終わらず

「……っ、ごめん、なさい、ごめんなさい……、」

 椎名しいなは、私のベッドで眠るとき、いつも泣いている。別にお互い、今更それについて何か詮索するような間柄じゃないから、そんなときは黙って寝室を離れる。

 据えたような汗とかその他諸々の臭いが籠った寝室を出ると、ちょっと空気が美味しくなったような気もするのに、ほんの少しだけ、さっきまでしていたことの余韻への未練が首をもたげてくる。もう少し、ひたってたかったな――そう思ってしまうのは、わがままなんだろうか?


 冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターを取り出す。前に椎名から勧められて買ったけど、備えていたような事態なんて訪れないまま今に至る、なんてことのない天然水だった。

 窓の外を見ると、夕方過ぎから降っていた雨がどんどん強くなって、わたしたちを世界から隔離するみたいに外の景色をどこかに追いやってしまっていた。ふたりきりで取り残されたような感覚になっても、別にそれはそれで悪くなかった。


 だって、わたしと椎名だけになったら、もう彼女がどこかであざを作ってくることもないでしょ?

 泣きながら、青アザだらけの顔ですがり付いてくる彼女を抱き締める瞬間、私はいつも、自分が外で傷付いた彼女の帰る場所になっていることに満足していた。けど、それと同時に、やっぱり彼女を傷付けるやつらに対する憎しみも抱いていて。

 椎名に、1度訊こうとしたことがある。

 何があったのか、誰にそんなことをされたのか、どうしてそんなことするやつと離れないのか、洗いざらい聞き出そうとした。


 だけど椎名は曖昧に笑いながら『いいよ、わたしが悪いから』と答えただけだった。その怯えたような目付きが、明確に私の質問への拒否にもなっていて。

「…………味気な」

 こんな無味乾燥なものを飲んでいるより、もっと椎名に触れていたい。そう思いながら、彼女との決して短くない付き合いを振り返っていた。


   * * * * * * *


 椎名とは、小学校時代からの付き合いだ。といっても、中学校の間は離れてしまっていたから3年くらいの空白はあるんだけど。

 あの頃の椎名は、誰にでもビクビクしていて、いつも誰かに虐められて泣いている子だった。たまたま席の近かった私が彼女を助ける役回りになって、そのままベッタリと頼られるようになって。あの頃、椎名は私の妹みたいな存在だった。いつも私のあとをついてくる彼女の手を引く――そんな関係性がとても気持ちよくて、ずっと続いていけばいいと本気で思っていた。


『あのふたり、デキてるんじゃね?』


 そんな噂話が、私たちの時間を変えた。

 今なら、根も葉もない話だと一蹴いっしゅうできただろうか。もちろん、今では単なる事実だけど、少なくともあの頃の私たちにはそういう感情なんてなかったのだから。

 けど、あの頃の私はそういう風に思えなかった。クラスの子たちが私を嗤う声に耐えられなくて、事実無根の噂がどんどん面白おかしく広められて、ついには仲がいいと思っていた同級生にまで『椎名に指入れたの?』なんて半笑いで訊かれるようになったりしたのが、どうしようもなくつらくて。

 いつの間にか、椎名を庇っていただけのはずなのに、私まで虐めの標的にされているのが肌でわかってしまったのだ――いいことをしてたはずなのに、なんでこんな目に遭わなきゃいけないの!? 苦しくて、悲しくて、腹立たしくて。

 何度訂正しても、むしろ『本当だから言い訳するんだ』とか『何も言い返せないから黙ってるんだ』とか、私がどう反攻しても面白おかしく騒がれて、先生に相談したら『冗談もわからないやつ』と揶揄やゆされて。


 それに耐えられなかった私は、椎名の手を振りほどいた。そして、そんな私を何事もなかったかのように“仲間”として扱おうとしてきた同級生たちが気持ち悪くて、私は少し離れた街の中学校にかようことにした。

 そうやって、私たちの間には3年間の空白が生まれることになった……。


   * * * * * * *


 高校で再会した椎名は、以前とは違って活発で明るい子になっていた。私を見て『久しぶり、理恵りえちゃん!』なんて微笑みかけてきたのだ――小学校の頃、自分可愛さに彼女を見捨てた私に対して。

 だけど、それが表面上のものであることはすぐにわかって。椎名の抱えるものの一部が垣間見えたその日、私たちは一線を越えた――半ば衝動的に身体を重ねて、どろどろに溶け合って。


 椎名は、初めてではなかった。

 私の後ろをただ付いてきていたはずなのに、私の知らない椎名が、そこにはいた。


 そこで、何かが狂った。

 何かが変わってしまった。

 幼くて無垢な友情を築き直そうとしていたはずの私たちは、いつの間にか濁った欲望まみれの、お互いに利用し合うような関係に成り下がっていた。

 この関係は、楽だった。

 たまに我に返ったときに酷い自己嫌悪に襲われるけど、それ以外はただ溺れていられたし、その間は椎名の影から目を逸らしていられたから。


 椎名が、他の人とこういうことをしてる――それで、酷い扱いを受けている。前にそれに気付いたときも、気が狂いそうなほど荒れ狂っていた感情を欲望でごまかすことができた。

 だって、私には彼女のために憤る資格なんてない。彼女が伸ばしてきた手を振り払った私には、そのうえ孤立した彼女を見届ける覚悟すらなかった私には、彼女を想う資格なんてないのだから。


「…………、うっ、……っ、」

 鼻の奥がツンとした、と思ったらもう遅かった。あっという間に視界は滲み、堪えようとした涙は喉からせり上がってくる熱に押し出されて、止まらなかった。

「ごめん、ごめん……っ、」


 椎名が泣いているのを見た日は、だいたいこう。ふたりしてお互いに見せずに涙を流して、たぶんお互いに謝り続けている。

 けど、こんな苦しい関係を続けることでしか、私は私のなかに渦巻く感情を鎮められなかった。私が見捨ててしまったあの寂しげな女の子に償う手段なんて、これしかない。


「大丈夫、理恵ちゃん?」

「――――っ!?」

 後ろから、不意に声をかけられた。

 起きてたの、ていうかいつからそこにいたの? 誰にも見せるつもりのなかった姿を見られたことに動揺していると、そのまま背中を抱き締められた。

「あ、あの、椎名、あのね、」

「ありがとう、理恵ちゃん。理恵ちゃんがこうやって優しくしてくれるから、わたしは先輩のところに帰れるんだもん」

「え、」

 耳元で囁かれたその声は、どこか場違いなくらい艶めいていて。それに、なんて言ったの? 今、すごく聞き捨てならないことを言われたのに、それを問い質せない。


 って、なに?

 あなたが帰ってきてるのは、ここじゃないの?

 ここから、どこに帰るの?


 ふふふ、と笑う椎名の顔が、間接照明の薄明かりのなかで別人のように見えた。

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