四辻町四丁目の朱雀庵 第2話 狐塚のキツネ
◆◇◆◇◆
1
七月も終わりに近づいて、夏休みに入った。
マンションや雑居ビルが連なる河北市のどこで鳴いているのか、セミの鳴き声は相変わらず
ベッドタウンである河北市にも書店や喫茶店、ゲームセンターを一か所に集めた娯楽施設がある。河北駅構内のKAWAKITAモールが代表的だ。休日になると家族連れや学生で賑わい、若者が都会に出て年々人口が減少する中、町おこしの一環として商工会が隔月で催しをしている。
そんなKAWAKITAモール八階のさざ波文具書店の一角で、
(高校生になって読書感想文なんて……無難に
う~んと、唸り声を上げながら手に取った小説をぱらぱらと開いては棚に戻す。それを何度も繰り返し、すれ違う人からは奇異の目で見られている。
不意に、スマホのバイブレーションが振動する。
『凛ちゃんよさげのあった?』
『全然。どれも読みたい本ばっか』
『たはは』
『笑い事じゃないよ。めぐるはどうするの?』
『私はカズ君に選んでもらうから大丈夫』と、変なスタンプが続く。
『この裏切り者めっ』
凛子とめぐるは小中高と一貫として同じ学校に通い、家が近所同士のいわゆる幼馴染にあたる。性格は全くの真逆で、好きな食べ物や好みのアイドルも違う二人だが、なぜか息が合う。そんなめぐるに彼氏ができたのが一学期の終業式当日。
二学期レビューと言う言葉がある。
スカートの丈を五㎝短くしたり、垢抜けた格好をしたり、後は男女のカップルが成立したりと、高校一年生にとっての一大イベントをめぐるはフライングして同じクラスの男子生徒と付き合いだしたのだ。どっちから告白したのかは凛子が知る事ではないが、ここで重要なのは過程よりも結果だった。
『今度の花火大会三人で行こうよ』
『花火大会?』
『ほら、四辻町の浜辺で毎年やってる』
『あぁ』と、凛子は祖父母が暮らしていた田舎を思い出す。河北駅から普通電車で一時間以上かかる山と海に囲まれた町。寂れた商店街があるだけで他には何もない、まるで都会の喧騒から取り残された田舎町。
ふと、祖母が昔語りをしていた記憶が頭に過るが、靄のようなものが記憶にかかってうまく思い出せない。
『私はいいよ。めぐるとカズ君で楽しんできなよ』
『えぇ~』と、また変なスタンプがスマホの画面に押される。
スマホの電源を切って、凛子は視線を本棚に戻す。
「あ、たんぽぽ娘だ」と、凛子は書棚から一冊の小説を取り出し「へぇ~文庫あるんだ。たまにネットで公開してるのは読んだことあるけど。って、九百円っ!?」
普通の小説や文庫本より高い値段に驚いた凛子は棚に戻そうか、レジカウンターに向かおうかと脳裏で苦渋の選択を虐げられる。
「でも、ここで逃したら次いつ遭えるかわからないし……買っちゃおうかな」
大抵の小説は自分の部屋にある。
なければ父親の書斎からこっそりと借りればいい。
けれど、凛子はたんぽぽ娘は持っていない。
結局、誘惑に負けてレジカウンターに向かおうと決意した凛子の隣から、バサバサと本が崩れる音がして、男性の困った声が後に続いた。
「だ、大丈夫ですか?」
「え? あ、すみません」
慌てふためく男性と一緒になって、凛子は棚から崩れた本を手に取る。
「ありがとうございます」
「いえ」と、小説を棚に戻しながら、凛子は男性を見上げた。
(うわ、背、高い。大学生ぐらいかな)
「どうしました?」
「い、いえっ! なんでもありません」
「よかったら、何かお礼をさせて下さい」
「そ、そんな、気にしないで下さい。別に大した事したわけじゃ」と、新手のナンパかと凛子は疑うが、男性の温顔の表情からは悪意を感じられない。けれど若い男女が一緒になると言う事は何かしらの誤解が生まれるかもしれないと、凛子が断ろうとした時に、不甲斐なくお腹の虫がぐるると唸り声を上げたのだった。
「あ、いやっ! これは違くて……」
「どうやらボクのお腹の虫が鳴ったみたいです。もうお昼時ですし、よかったら一緒にいかがですか?」
「は、はい……」
周りの視線が気になるも、耳の裏まで真っ赤になった凛子は恥ずかしさのあまり、断るのも忘れて男性の後を付いて行くのだった。
KAWAKITAモール十階フロアのレストラン街の一角、男性のなすがままに誘導された凛子は、オムライス専門店で男性と席を囲みながら食事をしていた。
「あ、あの、さっきはすみません」
「何のことですか?」
「い、いえ。なんでも、ないです……」
凛子は半熟卵とチキンライスをスプーンで掬って食べるが、味がしない。
「あ、まだお互いに自己紹介してなかったですね。ボクは河北大学法学部一年の
「あ、あま、天音凛子です。天の音で天音。凛とした子で凛子です」と、凛子は「河北高校一年です」と付け加える。
「凛子。いい名前ですね」と、祐一は優しくほほ笑む。
「凛子は、本が好きなのですか?」
(初対面なのにいきなり呼び捨て!?)
凛子はテーブルを挟んで祐一を見るが、まるでお面でも被っているかのように祐一の表情が読み取れず、天然のジゴロなのではと疑ってしまう。
「たぶん、他の人よりかは好き、だとは思います。その、子供の頃は漫画や絵本が大好きで、よく父親に叱られたんですけど、父親も書斎に小説やら難しい洋書をたくさん置いているから、子供の頃の私はお父さんだって本を読んでずるいって詰め寄った事があったんです。そしたら、うちのお父さんなんて言ったと思います? 大人が読む本だからお父さんはいいのって答えたんですよ。私は世の中の不条理を理解して、お父さんがいない日に黙って書斎で本を読むのが日課になってましたけど」
「面白いね、凛子は」ふふふと、祐一は微笑む。
(―――っ! 初対面の人に向かって何言ってるの私っ!)
スプーンを握ったまま赤面した凛子は俯いて自問自答しながら、元々、人見知りをする凛子は初対面の人に対して小動物のように警戒し、母親の背中に隠れる習性が備わっている、いわゆるコミュ力のない人種であるが、初対面の祐一に対してどこか安心感を抱いている事に気付く。
「あ、あの、どこかでお会いしたことありましたっけ?」
「内緒です」と、祐一は言葉を紡ぐ。「―――おとといは兎を見た」
「え?」
「昨日は鹿、今日はあなた」
「それって、ジュリー・ダンヴァースの」
「次会うまでの宿題です。連絡先を教えて下さい凛子」
2
凛子が祐一と出会って数日が過ぎた。
八月に入り気温は三十五度を記録する。天気予報でも日本列島一面晴れマークが続いて、「今週は熱帯夜となるでしょう」と、天気予報士が答えていた。
「凛ちゃんは髪が細くて癖っ毛がないからいいね」
「やっぱ、めぐると一緒にいると安心するなぁ」
「もう、なに言ってるの凛ちゃん。はいできました」
クーラーの効いた自室で凛子とめぐるは夏休みの宿題を一緒に片付けていたが、二、三時間もすれば集中力が途切れ、本棚の漫画や小説を読み散らかし、それも飽きた夕方にめぐるは凛子の長い黒髪を結って遊びながら、窓から射す木漏れ日に凛子はうたた寝していた。
「三つ編みなんて小学校以来かも」
「私は癖っ毛だから、凛ちゃんの髪の毛触るの好き~」
「どうせならアニメみたいに、三つ編みを後ろで丸めてる奴やってよ」
「んん? シニヨンヘヤーのこと?」
「たぶん、それ」
「ちょっと、待ってね」と、めぐるは凛子の髪の毛を櫛で梳かして元に戻す。「ふんふん」と鼻歌が聞こえると、めぐるはサイドで大きな三つ編みを一つ、余った髪束で小さな三つ編みを作る。大きな三つ編みを頭の後ろでくるくるとお団子を作りヘヤピンで形を整える。余った小さな三つ編みを、めぐるは器用に巻いた。
「はい、できました」と、めぐるがスマホのカメラを内部モードに切り替えて凛子を映し出す。
「おぉ~可愛い……けど、素が美人じゃないから、やっぱ騎士王に似ないなぁ」
「また、アニメの話?」
「やっぱり黒髪だからかな。たんぽぽ色に染めたらそれなりに……」KAWAKITAモールでの祐一のセリフを思い出す。
「おとといは兎を見たわ、昨日は鹿、今日はあなた」
「凛ちゃん?」
「ううん、なんでもない」
祐一が何を意図して、ジュリー・ダンヴァースのセリフを言ったのかは凛子にはわからず、祐一が出した宿題を解けないでいる。LINEを交換したものの、あれから祐一からの連絡はなく、テスト送信したメッセージだけが履歴として残っていた。
「まさか、未来人とか言わないよね」
「みくるちゃんのこと?」
「………………」凛子は後ろで束ねていた三つ編みを元に戻す。「もう止めちゃうの?」と、めぐるが凛子の髪に櫛を入れて「今度は三人で勉強しようよ。カズ君不貞腐れてたよ」
「さすがにクラスの男子を部屋に招き入れるのはちょっと……」
「だったら図書館は? 祐一さんだっけ? 祐一さんに勉強見て貰おうよ」
「でも、私はめぐると違って付き合ってるわけじゃないし」
「じゃぁ、LINEしよLINE。凛ちゃん、連絡先交換したんでしょ?」
「う、うん……」
『天音凛子です。今度空いている時間ありますか?』
………………
…………
……
『構いませんよ』と、数分後に、祐一からのメッセージが届く。
『凛子の空いている時間で構いません』
『じゃぁ、今週末の日曜日に河北駅の北口にある中央広場で』と凛子がメッセージを入力してから、『あ、お昼の十三時でも大丈夫ですか?』
『構いませんよ。楽しみにしています』
「緊張した……」
「どうだった?」
「う、うん、だいじょうぶ……みたい」
簡素なメッセージのやり取りは数分で終わり、凛子は指先が冷たくなっているのに気づく。それはエアコンのせいで室内の温度が冷えているからではなく、まだ凛子はその意味を知らないでいる。
「凛ちゃん、日曜日が楽しみだね」と、めぐるは「たはは」と笑う。
週末の日曜日は炎天下に見舞われ、相変わらずセミの鳴き声が五月蠅い。
緊張して眠れなかった凛子は時間より早く、ここ河北駅北口より南に歩いて五分の河北中央通りの入口で時間を潰していた―――はずなのだが、入口には好青年である祐一の姿が既にあった。
「こ、こんにちは。狐塚さん」
「こんにちは、凛子。できれば、下の名前で呼んで欲しいですが」
「……祐一さん」
「はい。よくできました」
(―――うわ、めがね掛けてるんだ)
「どうしました?」
「……その、今日は会わせたい友達がいて、少し待って貰ってもいいですか?」
「構いませんよ」と、読んでいた文庫本をカバンに仕舞い、温顔の表情で祐一は凛子に微笑む。「なに、読んでたんですか?」と、凛子が聞くと「内緒です」と祐一は答える。
「ここは少し熱い。どうせなら、少し歩きましょう」
「は、はい」と、凛子は後に続く。
(服、変じゃないよね……)
めぐると違いファッショに疎い凛子は、祐一に会うなり意識する。白のカットソーに、ギンガムチェックの黒いスカート。去年、めぐると一緒にKAWAKITAモールの婦人服売り場で買った洋服を、タンスの奥から引っ張り出してきた奴だ。
「似合ってますよ」
「あ、ありがとう、ございます」
凛子と祐一は、
「ここなら、さっきの場所より涼しいですよ。なにか、買ってきましょうか?」
「お、お構いなく」
「それで、宿題の答えはわかりましたか?」
「……いえ」
「楽しみにしています。もう時間もありませんから」
「え?」
凛子は祐一に聞きたい事が沢山あった。
どうして、たんぽぽ娘だったのか。
どうして、ジュリー・ダンヴァースのセリフだったのか。
凛子と祐一は過去に会った事があるのか。
ふと、スマホのバイブレーションが振動する。
めぐるからの着信だった。
『凛ちゃんいまどこ?』
『ごめん、先に来てる。ほら、公園の小さな建物あるでしょ』
『わかった~。カズ君と行くね』
「すみません、友達もいま来たみたいで」
「構いませんよ」
しばらくすると、芹沢めぐると彼氏の
「凛ちゃん」と、めぐるは両手を広げると、凛子はめぐるを抱きしめる。
「うす」
「凛ちゃん、この人が」
「うん。大学生の狐塚祐一さん」
「初めまして、狐塚です」
「初めまして、芹沢めぐるです。こっちは彼氏のカズ君です」
「ども」
「うわ~、超イケメン」
「そ、そう」
「うん。凛ちゃん、面食いだよね」
「……そ、そう」
「では、場所を変えましょうか。どこか行きたい場所はありますか?」
「あ、あの、図書館に」
「構いませんよ。なにか、探したい本でも?」
「夏休みの課題が多くて、できれば祐一さんに見て頂きたいなと」
「そういう事ですか」と、祐一は三人を見渡して「では、この東屋で勉強しましょうか。自然の音を聞きながらの方が勉強も集中できるでしょう」
「っち、俺はクーラーの効いた屋内で勉強したかったのに」
「カズ君……」
「……悪い」
積み木細工のように木を組み合わせただけのガーデンテーブルを囲みながら三人が勉強し、分からないところを祐一が指摘する。祐一の指摘は、さすが大学生と呼ぶに相応しく、高校の授業よりも分かりやすくて丁寧だった。
「う~ん」
「どうしました?」
「あ、いえ、ここの問題がわからなくて」
「ここは、引っ掛け問題ですね。このxに惑わされてはいけません。では、凛子はどうしますか?」
「……どうって、あ、そっか」
「正解です。ここは、この公式を当てはめて。凛子は理解力がありますが、過去の似た問題と比較する傾向があります。もっと全体を見ないといけませんね」
「はい……」
「祐一さんの教え方、凄い丁寧ですね。家庭教師とかの経験があるんですか?」
「え? いえ、人に教えるのはこれが初めてです」
「そうなんですね。てっきり、彼女さんの勉強を見てるのかと」
「あいにくですが、ボクにそのような女性はいません」
「そうなんですね」と、めぐるは横目で凛子を見る。「だったら、凛ちゃんとかどうですか?」
「―――ちょっ! めぐる!」
「凛ちゃん、凄く可愛いですよ」
「それは、否めようもありませんが」
「だったら―――」と、頬が緩んだめぐるをよそに、祐一は答える。「ボクにそんな資格はありませんから」
「ちぇ、お試しでもなんでも付き合えばいいじゃんか。こっちは、花火祭りでダブルデートできると思ったのによ」
「花火祭り?」
「今週の水曜日にある、四辻町の花火祭り」
「四辻町……」と、どこか祐一は悲哀に満ちた表情をするが、それは一瞬の出来事で、まるで暗雲から零れる小粒がアスファルトに染み込むように祐一は何事もなく凛子を見る。「凛子は、花火祭りに行きたいのですか?」
「私は……」視線を一斉に集めた凛子は「行きたいです。めぐると……祐一さんと一緒に……」
「俺はいいのかよ」
「ごめん。菊池も併せて四人で」
「わかりました。凛子が望むなら」と、祐一はにっこりと微笑む。
「よかったね、凛ちゃん」
「うん」
「一時はどうなるかと思ったぜ」
3
凛子はたんぽぽ娘を読み返していた。
四週間の休暇のうち二週間を家族と避暑地で過ごしたマーク・ランドルフは残りの二週間を湖畔の山小屋で一人過ごす。ある日の昼下がりの丘でマークは、四十年後のコーヴ・シティからやってきた女性―――ジュリー・ダンヴァースに出会う。見たこともない生地で仕立て上げられた、まるで海の泡と綿菓子と雪を混ぜて織りなしたような白い布のドレスに身を包むジュリーの話に夢中になり、小高い丘の
おとといは兎を見たわ、昨日は鹿、今日はあなた―――
にわか雨が降ったものの、夏祭り当日は午後から晴天へと変わる。河北駅ターミナルには浴衣姿の若者で賑わい、例に漏れず凛子とめぐる、それに祐一までもが浴衣姿で「俺だけのけ者かよ」と、私服姿の和也が項垂れる。
「似合っていますよ、凛子」
「ありがとうございます」と、凛子は祐一を見上げる。隣で、得意げにめぐるが微笑み「その髪型、時間かかったんじゃないですか?」
「あ、シニヨンヘヤーですよね。実は、浴衣も髪のセットも全部めぐるがしてくれたんです」
「とっても、可愛いですよ」
「やったね、凛ちゃん」
「んなことより、行こうぜ。ここから四辻町まで一時間以上かかるんだからさ」
「それなら大丈夫です」
「なにが?」
「河北駅から準急快速で南下松駅まで乗って、そこから普通電車で四辻町まで行くと四十分ぐらいで着きますから」
「マジかよ」
「もうカズ君、目上の人にそんな口利かない」
「わ、悪かったよ。すんません」
「お気になさらず」と、祐一は温顔の表情で微笑み、切符を買い駅のホームに赴く。構内は凛子達以外にも浴衣姿の若者で混雑して思うように前を歩けず、なんとか準急快速に乗れた四人は人込みに酔いながら南下松駅を目指す。
南下松駅に着く頃になると混雑していた車両も人込みが減り、四辻町行の普通電車に乗り換える際には、凛子達は四人掛けの座席に座る事ができた。
「ここまで来ると誰も乗って来ないな」
「みんな普通電車で四辻町まで行くからじゃない?」
「さすが田舎だぜ。そう言えばさ」と、和也は「四辻町の都市伝説って聞いたことある?」と三人の顔を順に見渡して呟く。
「またカズ君」
「ある時間ぴったりに古ぼけた商店街に行くと、いつもは開いてない蟹座の―――なんだっけ? そのお店に入ると願いが何でも叶えられるって」
「もう、カズ君。ちゃんと話したいなら、ちゃんと調べなきゃだめだよ」
「それって、
「なんだ天音は知ってんじゃん。うわ~むっちゃ恥かいたわ。やっぱ、こう言う噂って女子の方が好きなのか?」
「ううん……」と、凛子は唇に親指で摘まみながら思い出す。「たぶん、おばあちゃんが昔言ってたような……四時四十四分に商店街のシャッター通りにある朱雀庵に招かれると何でも願いが叶えて貰えるって」
「それが本当なら、素敵な彼氏が欲しいなぁ」
「俺がいるだろ?」
「あ、もう叶ってた」と、めぐるは「たはは」と笑う。
「凛ちゃんは?」
「私は……」ちらっと、凛子は祐一の顔を一瞥する。
「じゃぁ、先に祐一さん。祐一さんは何かありますか?」
「ボクは……そうですね、ボクがいなくなっても大切な人に覚えていて欲しい、でしょうか」
「それって、凛ちゃんのことですか?」
「内緒です」と、祐一は言葉を紡ぐ。
四辻町に着くと歩いて数分もしないうちに人だかりができている。地元の人だろうか、みんな同じ方向に歩き凛子達も後を付いて行く。
「カズ君わかってるよね」
「わかってるって」
「どうかした?」
「ううん、お祭り楽しみだね」
「そ、そう。天音には関係ねぇよ」
「……変な二人」
寂れた商店街を通り越して海辺の道を歩く。
海岸に着く頃には、赤や紫、白色の提灯が均等に仄かな灯りをともし、海岸沿いを中心に縁日の屋台が立ち並ぶ。
かき氷の甘い匂い、たこ焼きの香ばしい匂い、金魚すくいに夢中になる子どもに、おもちゃ屋の屋台で泣きじゃくる子どもをあやす父兄。田舎町のどこにここまでの人がいるのかと、同時に凛子は祖母と手を繋いではしゃいでいた記憶を思い出す。
「結構人いるね、めぐる。私達もはぐれないようにしないと」と、凛子が振り向くとめぐると和也の姿が見えない。
「どうやらはぐれたみたいですね。連絡は取れますか凛子」
「スマホ持ってるから……でも、ここは人が多いから」
「なら、ボクの手を握って下さい。凛子まではぐれてしまいますから」
「はい」
恐る恐る凛子は祐一の手を握る。
ごつごつとした大きな男の人の手。
凛子は祐一の顔を見上げて―――昔もこんな事があったようなと、頭の中に靄がかかってうまく思い出せないでいる。
二人は屋台の裏手を通り抜けて、倒木に寄り添うように人から離れる。
凛子はスマホを取り出して電話を掛けるが繋がらない。
仕方なくLINEメッセージを送る。
『ちょっと! どこにいるの?』
『私たちの事は気にしなくていいよ』
『は?』
『がんばれ、凛ちゃん』と、変なスタンプが続く。
メッセージの意図に気付いた凛子は耳の裏まで真っ赤になって、声にならない声が口から洩れる。
「どうしました?」
「すみません……連絡が取れませんでした」
「仕方ないですね。では、二人で廻りましょうか。狭い海辺です。どこかですれ違うでしょう」
「はい」
「ただし、海にはあまり近付かないようにして下さい」
「さすがに溺れません」
「そんなつもりで言ったのでは、まぁ、いいでしょう」
祐一から手を繋ぎ返して二人は祭りを満喫する。
かき氷を食べて変色した舌の見せ合いをしたり、おもちゃ屋でスピードくじを引いたり、ポイで金魚をすくったりと、気付けば花火の打ち上げが始まる頃なのだろう、波の音と一緒に提灯の仄かな灯りで照らされた海面に二隻の漁船が沖合でゆっくりと揺れる。
「なに、あれ……?」
「凛子」と、不安な表情で祐一は「見えるのですか?」
「白い腕みたいなものが海面に幾つも突き出して……」
まるで、おいでおいでと手招きをしている。
「海には幽霊がたくさんいます。悪意のある幽霊や、いまだ成仏できない幽霊まで。それに、ここは四辻町。人間と妖怪が交差する町ですから」
「お兄ちゃん……」
「凛子、記憶が……」
「あ? え、祐一さん?」
「……どうやら、ボクに近付き過ぎたせいで視えてしまったみたいですね」と、祐一は凛子に振り向く。怯えた凛子の頬に触れ、親指で涙を拭い、人差し指で前髪をかき分けて、祐一の唇が凛子の額に軽く触れる。
「さっきの電車の中で、大切な人に覚えていて欲しいと言いましたが、あれは嘘です」と、祐一は凛子を見て「どうか、ボクのことを忘れて下さい」
「祐一さん……」
「さようなら」
ジュリー・ダンヴァースがサトウカエデの林の中に消えるように、祐一もまた泡沫の中へと消えていく。
泡沫に手を伸ばしても触れる事はできず、凛子はただ、茫然と祐一が消えた軌跡を眺めるだけで何もできずに座り込む。
海面に花火の影が映る。
ぽたぽたと涙が零れて浴衣に染みを作った。
「もう、どこ行ってたの凛ちゃん?」
「めぐる……それに、菊池も」
「どうしたの凛ちゃん? なにがあったの?」
「祐一さんが……いなく、なった」
「祐一さん?」
「おい、誰だよ祐一って?」
「なにを……言ってるの?」
「天音こそ何言ってんだよ。俺ら三人で祭りに来たのに、お前がどっかはぐれたんだろ。こっちは探すのに祭りどころじゃなかったんだぞ」
4
タイムマシンの消耗は激しく、父親を失ったジュリー・ダンヴァースが時間旅行をできるのは後1回が限度だった。マーク・ランドルフはジュリーに会うのを楽しみにしていたが、それっきり彼女に会う事ができずにいた。町中捜索して、季節が移り変わり、日曜日の午後にドライブでジュリーに出会ったあの丘に行くのが日課になっていた。花崗岩の露頭をベンチ替わりにマークはジュリーを思う。
おとといは兎を見たわ、昨日は鹿、今日はあなた―――
祐一が姿を消して数日が過ぎた。
凛子は自室のベッドでふさぎ込む。
片手でスマホを操作してLINEを眺めるも、祐一に関係するメッセージだけがぽっかりと虫に食われたかのように見当たらない。
まるで、狐塚祐一と言う存在が初めからなかったかのように。
けれど、凛子は覚えている。
出会ったばかりの慌てふためく姿。
一緒にオムライスを食べた事も。
中央広場の東屋で勉強を教えて貰った事も。
一緒に廻ったお祭りの事も。
「凛ちゃん、ちゃんとご飯食べてるの? 顔色悪いよ」
「めぐる……?」
「おばさんに言って様子見に来たんだ」と、めぐるは「たはは」と笑う。
「私は覚えてないけど、凛ちゃんにとって祐一さんはとっても大切な人だったんだね」凛子が眠っているベッドにめぐるはちょこんと座りながら、凛子の頭をやさしく撫でる。
「ねぇ、凛ちゃん。祐一さんってどんな人?」
「……優しい人。背が高くて、でもどこか抜けてる」
「凛ちゃんは、祐一さんのことが好きなんだね」
「わかんない……」
「凛ちゃん、その祐一さんのこと思い出してみて」
「……めぐる」
「私はいまの凛ちゃんより、いつもの凛ちゃんの方が大大大大だ~い好きだから」めぐるは凛子を優しく包み込み「凛ちゃんは何をしたいの?」
「私は……」
「私の知ってる凛ちゃんは何でもできるんだよ」
「でも! 私は……」と癇癪を起こした凛子は、めぐるの手を払いのける。
枕元に置いていたたんぽぽ娘がベッドの隙間に落ちる。
ベッドの下には二冊のたんぽぽ娘が落ちていた。
一冊は読書感想文のために買った真新しいたんぽぽ娘。
一冊は表紙がセピア色に色褪せて所々擦り切れているたんぽぽ娘。
「私、バカだ……」
ジュリーの事を忘れようと、自宅で一人になったマークは屋根裏部屋でスーツケースを見つけた。それは、妻アンの物だった。偶然開いた蓋を閉じようとした時に、見覚えのある白いドレスが中からはみ出していた。まるで海の泡と綿菓子と雪を混ぜて織りなしたような白い布のドレス―――それはジュリーが着ていた白いドレス。マークはジュリーに、二十年前にジュリアンに出会っていたのだった。
「探さなきゃ……祐一さんはきっと私を待ってる」
「凛ちゃん」
「めぐる……」
「行ってらっしゃい、凛ちゃん」
「行ってきます。めぐる」
真新しい方のたんぽぽ娘を持って、凛子は自室から駆け出した。
凛子は家を出てKAWAKITAモールに向かった。十階のレストラン街から八階のさざ波文具書店で祐一を探して、中央広場の東屋を探しても祐一は見つからない。祐一が消えた日から、凛子の視界の端で変な生き物が蠢いている。子どものような姿だったり、蛭のように手足がなく這いずっていたり、害意はなくただぽつぽつと視える。
凛子は、四辻町の海辺で視た幾つもの白い腕を思い出して嗚咽を吐いた。
そして、誰かに肩を押されたかのように四辻町へと向かう。
四辻町に着く頃には夕方になっていた。
ただ、八月の五時前にも関わらずまだ明るく、西の空は少し茜色に染まるも太陽は炎々と燃えている。
(なに、これ……)
ぽつぽつとしか視えなかった物が、四辻町に着くなりそこら中にいる。
黒い塊のようなモノから、獣のように毛深いモノ、集団で行動するモノまで、それでも四辻町の住民は視えていないのか、普通に生活をしている。
凛子は、ソレ等に気付かれないように商店街へと向かった。
件の商店街に着くと、凛子は昔の事を思い出す。
祖母に連れられて、黄道十二星座をデフォルメ化したタイルを跨いでは大はしゃぎしていた子どもの頃の記憶。
『この商店街には小さな女の子の神様がいるんだよ』
『そうなの?』
『凛ちゃんも、いつか会えるかもしれないね』
『りんこ、おともだちになれるかな?』
『きっとなれるよ』
優しい祖母の記憶。
牡羊座、牡牛座、双子座、蟹座の裏通りにあるシャッター通り、潮風が吹き抜ける中央に小さな灯りが一つ、ぽつりと二階建ての平屋から洩れている。切り株看板には大きく朱雀庵とある。
(ここが、朱雀庵……うぅ、目が痛い)
左目を抑えながら凛子は朱雀庵の入口を見るが、ぼやけているのかスライド式のすりガラスが二重に見える。引き戸に手をかけて凛子が中に入ると、古物商を営んでいるのか所狭しと壺や掛け軸、大皿が飾られている。
「いらっしゃい」
レジカウンターの奥で、新聞を読みながら白髪交じりの初老の男がパイプを蒸かしている。男は凛子の姿を一瞥し、逆三白眼の鋭い眼光に凛子はたじろぐ。
「あ、あの……」
「お前さん、良い目を持っているな」
凛子は押さえ付けていた左目が痛む。
「招かざる客でもなさそうだ。
「は、はい……」
男は首だけ振ってレジカンターの奥の住居へと凛子を案内する。
凛子が廊下を歩くと、真黒な空間へたどり着く。天井から吊るした幾つもの行灯が仄かにゆらぎ、散りばめられた橙の小さな炎が夜空に輝く星を連想させる。
真黒な空間の中央に少女が二人。
一人は白い着物姿におかっぱ頭の女の子。
一人は黒いゴスロリドレスに身を包んだ金髪の女の子。
二人の少女は対照的な姿をして橙の炎に溶け込みながら、そのガラス細工のように無機質な瞳で凛子を捉える。
「お待ちしておりました」
「天音凛子様」
「あなたが、おばあちゃんが言っていた神様?」
「私は魂緒と申します」
「私はアセルスと申します」
「あなたは選ばれたのです」
「この朱雀庵に」
「私が……」
「はい」すぅ、と魂緒が小さな手の平に息を吹きかけると、七色をした蝶々が幾重にも羽ばたく。蝶々は螺旋を描きながら、その羽に凛子の過去を映し出す。
祖母に甘えていた子供の頃の記憶。めぐると喧嘩をした時の記憶。神社で祐一と出会った記憶。夏休みに祐一と出会った記憶。そして、祐一が消えた記憶。
「狐塚の狐に愛された巫女」
「神の使いに愛された巫女」
「あなたは祐一さんを知っているの? どこにいるの? お願い……祐一さんに会わせて」
「それがあなたの願い?」
「あなたは既に知っているはず」
コンコンコンと、まるで魂緒は狐の真似をして、アセルスが小さな手を使って影絵を作る。行灯の仄かな橙の炎に照らされて、アセルスの小さな手は狐を形作り、狐は四方へと姿を消す。
「これは照魔鏡と言う真実を映し出す鏡です」
金色の淵に覆われた鏡を魂緒が両手に持つ。
鏡が凛子を捉えた瞬間、凛子の意識は遠のく。
「さぁ、真実を―――」
「改変するのです」
5
潮風がシャッター通りを吹き抜けて、凛子は朱雀庵の外に座り込んでいた。
左目の傷みが消えて、ゆっくりと手を放す。
ふと、商店街の方から女の子の泣き声が反響する。
「おばあちゃんどこ……?」
「どうしたの? おばあちゃんとはぐれたの?」と、シャッター通りから表通りに戻った凛子が女の子の肩を掴もうとするが、その手は空を触れるだけで女の子に触れる事はなかった。
(―――え? どうして)
女の子の泣き声は、次第に商店街に住む妖怪達を呼び寄せる。柱の陰で恐る恐る女の子を見る小さな妖怪に、女の子の前を通り過ぎる子どもの妖怪。他にも悪意のある妖怪が女の子に近付いて、凛子の気配に気付いた悪意のある妖怪が飛散する。
女の子は泣きじゃぐりながら商店街を出て歩道を歩く。
凛子は女の子の後を付いて行く。
見覚えのある景色。
既視感が凛子の背筋を撫でるが、合わせ鏡のように何かが違う。
(夏に桜が咲くはずない……)
不意に、凛子は理解する。
あぁ、これは子どもの頃の記憶なのだと、女の子は凛子その者なのだと、凛子は子どもの頃の記憶を追懐する。
女の子の後を追って凛子は神社に辿り着いていた。
明神造りの朱い鳥居には狐塚神社とある。
楠林を切り開いた中央の小坂を女の子が登る。凛子も後を追って境内へと向かうと、竹箒を持った紫袴の宮司が慌てふためいて女の子をあやしているが、女の子は宮司の前で泣きじゃくっている。困り果てた宮司は懐からお饅頭を取り出して女の子に与える。
(そうだ、私……どうして、忘れてたんだろ)
凛子は毎年春になると家族に連れられて四辻町に住む祖父母の家に遊びに出かけるのが恒例になっていた。寂れた商店街で買い物して、祖母に買って貰った手持ち花火を夜にして、絵本を祖母に読み聞かせてもらいながら、あの日の商店街で迷子になった凛子は一人になった孤独と、普段見えない妖怪に怯えて泣きじゃくりながら無意識に狐塚神社へと向かった。宮司に懐いた凛子は、それから毎日狐塚神社を訪れては宮司に絵本や父親の書斎から持ち出した小説を読み聞かせて貰う。
それは、祖父母が他界するまで続いた。
(おばあちゃんが死んで悲しくて……それっきり、この町に来なくなってたんだ)
凛子は過去の記憶を追憶して、目の前の小さな凛子と宮司―――祐一を見守る。
「―――祐一さん」
小さな凛子に小説を読み聞かせていた祐一が凛子に気付く。
目が合う。
にっこりと祐一が微笑んだ気がした。
「どうでしたか?」
「これが、あなたの望んだ記憶の改変です」
「夢……違う、これは」と、凛子の左目が疼く。
「はい」
「違います」
「あなたは、ご自分の記憶を」
「真実を覗いて来たのです」
「祐一さんは、まだあの神社にいるの?」
「狐塚の狐は消えるのを待つだけ」
「寿命が来たのです」
「そんな、どうして!」
「狐塚神社には誰もいない」
「無人の神社。神主も宮司も誰もいない」
「あとは朽ちるだけ」と、魂緒が言葉を紡いで凛子は思い出す。若者が都会に出て行くばかりの四辻町に神社の管理者と呼べる後継人はなく、役場の人間が月に一度だけ神社が廃れないようにと清掃をする。八月上旬の夏祭りもそうだ。表面上を取り繕うだけで、祭りの目的を誰も覚えていないのかもしれない。
「まだ、間に合うのよね」
「それは巫女次第でございます」
「それは狐塚の狐次第でございます」
「ありがとう、小さな神様」
「お帰りはあちらです」
「さようなら天音凛子」
凛子の目の前で、二人の少女が歪に嗤った気がした。
すると、さっきまで行灯の橙の光が散りばめられた黒い空間ではなく、凛子は商店街のシャッター通りで立ち尽くしていた。
朱雀庵はどこにもない。
「私……商店街に」と、凛子は辺りを見回して、シャッター通りの裏通りに向かうと夏祭りがあった海沿いの道に出た。凛子は息を切らして走りながら狐塚神社へと向かう。鳥居をくぐり、小坂を登って薄暗くなった境内に辿り着いた。神社には誰も住んでいないのだろう、どこも灯りが点いていない。
凛子は境内を歩いて、二匹の狛犬が待ち構える石段を登って社の扉を開ける。
紫袴の宮司姿をした祐一が息を荒げて伏せていた。
「祐一さん!」
「……凛子、どうして」
「しっかりして祐一さん!」
「そうか……魂緒様の仕業ですか」
「私が何とかするから! 巫女でも宮司でも何でもするから」と、凛子は涙ぐみ「だから生きて……」
「凛子、それは頼もしい限り……ですね」
凛子は祐一の枯れ木のように細くなった腕を胸に手繰り寄せ「おとといは兎を見たわ―――」
「凛子?」
「昨日は鹿、今日はあなた……」
凛子がジュリー・ダンヴァースであり、ジュリアンだった。
真新しいたんぽぽ娘はどこにいったのか凛子の手元にない。
「やっと、会えた」
「おかえり、凛子」
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