四辻町四丁目の朱雀庵

くおん

四辻町四丁目の朱雀庵 第1話 すねこすり

                 ◆◇◆◇◆


                   1


『ねぇ、知ってる?』

『なに?』

『商店街のシャッター通りにある―――』

『あ、朱雀庵すざくあんの事でしょ?』

 陽光が斜めから差し込む教室の窓際で、頬杖を突いて帰り支度を終えた恭介きょうすけの耳元に、女子グループの噂話が聞こえてきた。

『なんだ知ってるの?』

『有名よ。いつもはシャッターが閉まっているけど、四時四十四分になると―――』

『朱雀庵の入り口が開いて、中に入ると何でも願いが叶う、でしょ!』

『もう、それ私が言いたかったのに』

『でも―――』と、女子グループの噂話に耳を傾けていた恭介は、薄っすらと視線の先で彼女達の姿を捉え、視線を戻す。『―――五組の飯田さん、彼氏と仲直りしたって噂になっていたわね』『一年の向井君がヴァイオリンのコンクールで入賞したとか』『他にも、三年の山田先輩が不良をやめたとか』

 学校新聞だったり、噂のまた聞きだったりと、どれも恭介が知っている噂話だった。

 ただ、朱雀庵と言う言葉を聞いたのはこれが初めてである。

(そんな都合のいいことがあったら……)

 罪悪感が脳裏をよぎり、恭介は悪態を吐く。

『でも、もし何でも願いが叶うって言うならお金持ちになりたいわ』

『私は甘いもの食べても太らなくして欲しいかしら』

『私は野村君の恋人になりたい、かも』

『はっ! 顔も性格も普通じゃない? 野村のどこがいいの?』

『え? ……やさしいところかな』

『それって個性がないってことじゃない』

『ちょ、ちょっと、野村君に聞こえるわよ』と、女子グループの視線が恭介へと注がれて、何本も細い針で首筋を刺されたみたいに血液が逆流する恭介は、女子グループの視線に気付かないように必死に努める。

『大丈夫。気が付いてないみたいだわ』と、安堵のため息が漏れて女子グループは、まるで恭介に興味がなかったかのように別の話題へと移り、放課後が終わる。



 ターミナル駅が蜘蛛の巣のように張り巡らされた河北市から南へ下ると、一ノ瀬町、二条町、三軒坂町と続き、四辻町がある。町名に数字が入っているのは区画整理をした際に、市が覚えやすいように上から番号を割り当てたためだ。にぎやかな市内と比べて、海沿いに面している四辻町にもアーケードの商店街がある。竣工当時は取材に取り上げられたり、地方新聞の一面を飾ったりもしたが、いまはその面影もなくスーパーやコンビニにお客を奪われているばかりで、利用しているのは昔からの付き合いが長い高齢者がほとんどだ。

 風光明媚と言えば聞こえはいいものの、都会から少し離れたそこは喧騒から取り残された田舎のように他には何もない。あるとすれば、海に浮かんでいる漁船や堤防、病院に介護施設ぐらいだ。

『四辻町総合病院前』

 アナウンスに気付いた恭介は、降車ボタンを押してバスから降りる。

 梅雨明けの空気が肌にまとわりつき、どこか潮の匂いがするが、自動ドアを潜り中に入ると今度は消毒液の匂いへと変わる。クーラーの効いた待合室のテレビの音、会計窓口を横切り非常用階段で五階まで登る。ナースステーションで看護師に挨拶して五〇五号室に向かうと、中から話し声が聞こえてきた。

輝明てるあきちゃん、みかん食べる?」

「ありかと、松田のおばあちゃん」

「こっちには、おせんべいもあるのよ。でも最近の子は食べないわよね」

「そんなことないよ清田のおばあちゃん。オレ、辛いの好きだし」

「まぁ」と、パジャマ姿のおばあちゃん達が輝明のベッドを囲みながらほほ笑む中、恭介は「よっ」と、短く声をかけた。

「恭介、今日も来てくれたんだ」

「昨日は来ていない。週に二、三日ぐらいだ」

「まぁ、恭介ちゃんもみかん食べる?」

「あ、ありがとうございます」

「そんなに他人行儀にならなくてもいいのよ。じゃぁ、私達はこれで自分の部屋に戻るわね」と、パジャマ姿のおばあちゃん達がゆっくりと立ち上がり「若いっていいわね」「君江さんも十分若いわよ」「あらやだ」と、ほほ笑みながら腰を曲げて部屋から出ていく。

「輝明は人気あるな」

「若い患者が珍しいだけだよ。向こうも、オレのこと孫みたいに思ってるし」

「そっか」と、恭介は来客用のパイプ椅子に持たれながら輝明を見る。その視線は、輝明の顔からベッド、右足のギブスへと移り、恭介の視線に気付いた輝明は「名誉の結果だ」と呟いて、ギブスを巻いた右足を軽く小突いた。

「え?」

「友達を守ってできたケガだ。ただの骨折じゃないよ。だから、恭介は気にするな。あと一月もすればギブスも取れるし、学校にも通える。そしたらまた走れる」

「夏休み前だろ?」

「そうだな。期末テスト受けれなかったから補習確定だ。補習室はエアコンが効いてるのがせめてもの救いだけどな」

「輝明……」

「そんなことよりも、だ」と、輝明は口調を尖らせて恭介を見据える。「恭介、お前、ちゃんと走ってるのか?」

「あ、あぁ……走ってるよ」

「タイムは?」

「八.四十五秒」

「二秒以上遅くなってるじゃないか」

「………………」

 さっき貰ったみかんの皮を剥きながら恭介は俯く。

「恭介、お前もう来るな」

「え? なにを」

「ここに来る暇があるんだったら一秒でも長く走れ。お前には才能があるだろ?」

「才能なんて……俺にはない」

 野村恭介は、非凡な才能の持ち主だった。

 何をするにも、いつも人並み以上の結果を出した。

 学力も、運動も、芸能も、それは大人達が一目置くほどに。ただ、恭介からしてみれば親や先生に褒められるのが嬉しかったし、クラスメイトの女の子にちやほやされるのが何よりも嬉しかった。女の子に好かれたい一心で、小学生の頃は喧嘩に明け暮れ、中学の頃は運動に力を入れ、勉強のできる高校生活を送るつもりだった。

 そう、本当の天才に出会うまでは。

 風岡輝明と出会ったのは中学に入って間もなくの頃だった。

 野球部、サッカー部と迷った挙句、運動は中学までと決めていた恭介は、結局のところ陸上部に入部した。そんな時、入部届を持って職員室に向かった先で恭介は輝明に出会った。恭介から見た輝明の第一印象は、体格のいい中学生だった。身長は百七十㎝を軽く超え、小学生の頃から陸上をしていたのだろう、筋肉の作り方が全然違っていた。案の定、輝明は入部後まもなくしてレギュラー入り、六月の総体で個人別二百メートル走を第三位の結果に収めた。職員室前の展示ケースには表彰盾が飾られ、屋上から吊るした垂れ幕で学校中、輝明の名前を知る事になる。

『お前、凄いな』

 初めて声をかけたのは輝明の方だった。

 総体、全国大会と終わり、三年生が抜けた二学期に恭介もレギュラー入りした。嫌味にも聞き取れる言い方だったが、輝明の柔和な笑みに「ふはは」と笑ってしまった。そこから恭介は輝明と一緒にいる事が多くなった。輝明に筋肉の作り方やインターバルの取り方、他にも基礎的な事を教えて貰ったり、趣味の話や好きなアイドルグループの話題で盛り上がったり、輝明が陸上以外は普通の中学生である事に気付いた恭介はいつの間にか友達と呼べる間柄になっていた。

「いや、お前には才能があるよ。だから、こんなことで駄目になって欲しくないんだ」

「それはこっちのセリフだろう。輝明がいなかったら俺は走ってなかった。それに俺のせいで駄目になったのは輝明の方だろ? ケガの後遺症とか考えてないのかよ。前みたいに走れなくなったら……」

「恭介―――」と、輝明の鋭い眼光に恭介はたじろぐが「オレのことは気にするな」ほほ笑む輝明と中学の時の輝明の柔和な笑みが重なり、輝明は奥歯を噛む。

「帰る」

「恭介……」



 病院を出ると生暖かい風が恭介の頬を撫でる。

 五時前にもかかわらず、夏の日差しはまだ暮れる事を知らない。

 苛立ちや不安をミキサーで砕いたような感情が恭介の中に渦巻き帰路に着く。気が付けば、商店街の入口の前を歩いていた。

 ふと、女子グループの噂話を思い出した。

「まさかな……」

 商店街は夕方なのに活気がない。精肉屋や魚屋、喫茶店がぽつぽつと開いているだけで客足が少ないのだ。恭介は中に入り、件のシャッター通りを目指す。黄道十二星座を模したタイルの上を、牡羊座、牡牛座、双子座と歩き、蟹座を横切った。

「やっぱり、ただの噂か……」

 シャッター通りはどこも閉まっていて、恭介が奥まで歩くと海沿いの見える裏通りに出たのだった。


                   2


 病院でのやり取りから数日が過ぎて、恭介は陸上部に顔を出していた。

 ユニフォームに着替え、短距離走を走る。

 だが、いままでどうやって走っていたのか忘れたみたいにうまく走れない。タイムは相変わらず遅いばかりで、頭を冷やして来いと顧問にどやされてグラウンド脇のマネージャーから給水ボトルを受け取った。

 どくん、どくんと鼓動が波打ち、ストローに口を付けた。

「顧問の谷山先生も野村先輩に期待しているんですよ」

「―――はぁ、はぁ。ん、マネージャー?」

「すみません。そのまま呼吸を整えてください」

「大丈夫」

 一つ深呼吸をして、グラウンドを走る陸上部員の姿を恭介は眺める。谷山がピストルを鳴らすと数名の部員が走り出す。谷山の怒声と共に数名の部員がゴールを迎えるそこは、さっきまで恭介がいた場所だ。

「あの、風岡先輩の容態はどうですか?」

「え?」

「私、運動音痴なんですけど、お父さんの影響でスポーツ観戦するのが好きなんです。選手と同じ空気に触れてるって言うか、うまく言葉見つからないですけど……一緒に笑ったり、泣いたり、感動を分かち合えるみたいな。なに言ってるんだろ、私」

「いや、続けて」

「それで……本当は野球部のマネージャーになりたかったんです。うちの野球部結構強いじゃないですか? 今年も県ベスト八ですよ。だから、私がマネージャーになって甲子園目指したいなって思ってたんです」

「なんで陸上部に?」

「それは、ですね」と、マネージャーはにっこりとほほ笑みながら「野球部に入部する前に、他の体育部も見学してみようってなったんです。友達と一緒にいろんな部活動を回りながら見学して、陸上部の見学の時に風岡先輩と野村先輩に出会ったんです。最初は、背も高くてなんて格好いい先輩だろうって見てたんですけど」

「………………」

「躍動感って言えばいいのか、風岡先輩が風を切りながらグラウンドを走って、バトンを受け取った野村先輩が走って。その光景に目を奪われて」

「つまり、マネージャーは輝明のことが好きなの?」

「そっ! そんなんじゃないですっ! あ、いえ、……もちろん風岡先輩も野村先輩も格好いいです。私は走ってる先輩方が好きで……って、なに言ってんの私っ!」

 マネージャーは大げさに両手をばたばたと振りながら、否定でも肯定でもない曖昧な返事をして、不器用なりにも恭介を励ましている事に気付いた。

「その……野村先輩の調子が悪いのは、風岡先輩のケガと関係してるんですよ」

「そんなことは」

「私、走ってる先輩方が好きだから、だから、走って下さい」

「マネージャー」

 恭介は、まるで歯に挟まっていた小骨が取れたみたいに、ふわりと身体が軽くなった気がした。走って罪を償えるとは思わないが、恭介にとっても、いま走れるような気がした。

「マネージャーは、自分勝手だな」

「はい。私は自分勝手なんです」

 給水ボトルをマネージャーに渡して、恭介は「練習に戻るよ」と、グラウンドに向かう。



 練習して、弁当を食べて、また練習をする。

 まだ、うまくタイムは縮まらないまま、気が付けば夕方になっていた。

 いつもはバス通の恭介だが、走る事を身体が忘れないように自宅まで走る。

ふと、輝明のお見舞いに行こうかと考えたが、どういった顔で会えばいいのかわからない恭介はそのまま走る。輝明がケガをした歩道橋を超えて商店街を通り抜けようとした時、嫌な風が恭介にまとわりついた。

「なんだ?」

 商店街の入り口で恭介は止まる。

 いつもの潮風ではない。

 もっと不快な、冷たい空気。

 まるで、商店街がおいで、おいでと手招いてるかのように、恭介は中に入る。いつもは開いている精肉屋や魚屋、喫茶店に買い物客がいない。

 いや、誰も彼も姿が見当たらない。

 恭介は黄道十二星座のタイルの上を歩いて、蟹座を横切る。

 件のシャッター通りは閉まったまま、一ヶ所だけ灯りが漏れていた。

「これが朱雀庵……この前は、こんな建物なかったのに」

 シャッター通りの中央に、ぽつりと二階建ての平屋。切り株看板には大きく朱雀庵とある。お寺のような古めかしい木造建築を想像していた恭介だが、建物自体はどこにでもある店舗向けの作りをしている。「ごめん下さい」と、ガラス戸をスライドさせて恭介が中に入ると、古物商を営んでいるのか所狭しと壺や掛け軸、大皿が飾られていた。

 朱雀庵の商品に目を奪われながら恭介があたりを見渡すも、店員の姿がどこにもいない。

「あの、誰もいませんか?」

 レジカウンターの奥から薄っすらと灯りが漏れている。

 住居兼店舗なのだろう。

 恭介は老夫婦が営んでいる近所の駄菓子屋を思い出した。

 特に抵抗もなく、恭介はレジカウンターの向こうの住居へと向かう。廊下を歩いて灯りを目指すと、真黒な空間に出た。

 天井から吊るした幾つもの行灯が仄かにゆらぎ、散りばめられた橙の小さな炎が夜空に輝く星を連想させる。

 恭介が見惚れていると、目の前に少女が二人。

 一人は白い着物姿におかっぱ頭の女の子。

 一人は黒いゴスロリドレスに身を包んだ金髪の女の子。

 二人の少女は対照的な姿をして橙の炎に溶け込みながら、そのガラス細工のように無機質な瞳で恭介を捉える。

「お待ちしておりました」

「野村恭介様」

「どうして俺の名前を?」

「私は魂緒たまおと申します」

「私はアセルスと申します」

 恭介の言葉が届いていないのか、二人の少女は無表情のままお辞儀をする。

「あなたは選ばれたのです」

「この朱雀庵に」

「俺が、選ばれた?」

「はい」と、二人の少女―――魂緒とアセルスは答える。

「それはどう言うことだ? ここが噂の朱雀庵でいいのか?」

「―――言葉の通りでございます」すぅ、と魂緒が小さな手の平に息を吹きかけると、七色をした蝶々が幾重にも羽ばたく。蝶々は螺旋を描きながら、その羽に恭介を映し出す。


 ―――否、恭介の過去を映し出す。


 幼少の頃の記憶。母親に褒められた記憶。輝明と出会った頃の記憶。陸上部員としての記憶。そして、輝明を突き落とした記憶。

「私達は、ずっと恭介様を見てきました」

「あなたのご友人がケガをしたときも」

「―――違うっ! 俺じゃない! 俺じゃ、ない」

「はい。違います」

「これは、あなたが改変した記憶」

「俺が……俺は……」と、恭介は頭を抱えながら膝を崩す。

「あなたは何のために此処を訪れたの?」と、アセルスが問う。

「俺は……なんのために」

 恭介は女子グループの噂話を思い出す。


『ねぇ、知ってる?』

『なに?』

『商店街のシャッター通りにある―――』

『あ、朱雀庵の事でしょ?』

『なんだ知ってるの?』

『有名よ。いつもはシャッターが閉まっているけど、四時四十四分になると―――』

『朱雀庵の入り口が開いて、中に入ると何でも願いが叶う、でしょ!』


「願いを叶えて欲しい」

「どんな願いですか?」

「それは……」

「あなたは、もう気付いているはず」

 金髪の少女―――アセルスのガラス細工の瞳は無機質なまま恭介を見据える。恭介はアセルスの瞳から目を逸らす事ができない。いや、ガラス細工の瞳とは裏腹にアセルスの瞳は恭介の心を見透かしている。まるで見えない何かに首元を締め付けられているかのように、過呼吸に陥る。

「恐れることはありません」

「さぁ、あなたの本当の願いを」

「俺は……」と、恭介は意を決して言う。

「俺は謝りたいんだ。輝明に……でも、どんな顔して謝ればいいかわからない。初めて会った時からあいつが嫌いだった。あいつが羨ましかった。俺にないもの持って羨ましかったんだ。だからあの日、輝明を歩道橋の階段に突き落とした。でも! でも、骨折するなんて思わないだろ」

 恭介はあの日の出来事を鮮明に思い出す。

 昼間に降った雨のせいでグラウンドがぬかるみ部活が休みになった恭介と輝明は一緒に帰る事にした。バス通の恭介と輝明だったが、目の前でバスが出発したため二人で走る。途中、見えない何かが足にまとわりついてこけそうになるも大事には至らず、商店街の近くにある歩道橋を下る時に、それは起きる。

 前を歩く輝明の背中を、恭介が軽く突いたのだ。

「あなたのご友人もあなたと同じことを思っています」

「―――そんなはずないだろ? だって輝明は」

「ずっと後ろを走っていたあなたが怖かったのです」

「いつ、あなたが自分を抜いて前を走るのか、毎日のように恐怖していたのです」

「嘘だ」

「嘘ではありません」

「だって輝明は……俺みたいな不純な動機なんてなくて、小学校の頃から走ってきたんだ。俺は輝明に教えて貰うことがたくさんあった。そんな輝明が俺を怖がるはずないだろ?」

「あなたは、自分が思っている以上に才能に恵まれているのです」

「あなたの才能は、やがてご友人を呑み込むことでしょう」

 にわかに信じがたい。

 輝明を天才だと認めていたのは恭介の方だ。

 輝明は何をするも巨大な壁として恭介の前に立ち塞がった。

 運動は中学までと考えていた恭介がいまも走っているのは、輝明という巨大な壁を乗り越えるため。恭介の不純な動機は、輝明に出会った時から既に目的を変えていたのだ。

「これは照魔鏡と言う真実を映し出す鏡です」

 金色の淵に覆われた鏡を魂緒が両手に持つ。

 鏡が恭介を捉えた瞬間、恭介の意識は遠のく。

「さぁ、真実を―――」

「改変するのです」


                  3


 梅雨が明けようとする七月に入ったばかりのお昼前のあたりから、ぽつぽつと霧雨が降り始めた。天気は荒れて、陽光は分厚い雨雲に遮られる。教室が暗くなったかと思えば、霧雨は小雨に、小雨は大雨にと、バケツの水を零したみたいに土砂降りへとその姿を変貌する。

 恭介は輝明と机を向かい合わせながらお昼を食べていた。

「部活休みかな」

「どうだろう」

「早く走りたいよな」

「こればかりは仕方ないよ。運動部にとって雨は宿敵だからな」

「そろそろお前のタイムに追いつけると思うんだよな」

「恭介……」と、お弁当を食べるのを止めて輝明が「そしたらオレが圧倒的なタイムの差を見せ付けてやる」

「この鬼畜め」

「伊達に小学校から走ってないからな」

「ちえぇ」と、不貞腐れる恭介。

「それより輝明、昨日のテレビ見た?」

「あぁ、見たよ。川合勉の木曜オカルト特番だろ?」

「ゲストの支倉のの香、可愛かったよな」

「だな」と、輝明が相打ちを取ってお昼休みが終わる。

 まるで驟雨しゅううだったかのように、午前中に降っていた雨はグラウンドに幾つもの水たまりを残して梅雨晴れへと変わる。淡い気持ちを残しながら恭介が放課後を迎えると、結局のところグラウンドがぬかるんで使えず部活は休みになった。

「まぁ、仕方ないだろ? 荒れたグラウンドでケガでもしてみろよ」

「わかるけど」

「でも、雨が止んだから傘持ってこなくてよかったよ」

「輝明なら、傘ぐらい貸してくれる女子たくさんいるだろ?」

「そうでもないよ」と、呆れながら靴に履き替えて昇降口を出る。グラウンド程ではないが、ぐしゃりという感触が足元から伝わり、二人は何人もの生徒の隙間を縫って帰路に着く。

 バス停まで数メートルのところ、二人の目の前でバスが発車したのだった。

「あとちょっとだったのに」

「次は三十分後か」

「まじかよ。仕方ない歩くか」

「え?」

「最近、鈍ってんの。輝明もそうだろ?」

「かまわないけど」

 市内から離れた四辻町と言っても平日の夕方は人で賑わっている。サラリーマンの姿が少ないものの、夕飯の買い物をする主婦層やフリーターの姿が目立つ。恭介と輝明は昨日見た川合勉の木曜オカルト特番の話をしながら歩道を歩いていた。

 恭介も輝明も幼い頃から四辻町で暮らしているため、その違和感に気付いてはいないが名前に四辻とあるだけに、四辻町は交差点が多い。

 信号待ちする日もあれば、すんなりと信号を渡れる日もある。

 今日は、信号待ちの日らしい。

「さっきのバスといい、信号待ちといい、今日はタイミングが悪いな」

「確かに。この町って信号が多いから、次の信号で向かい側に渡ろうって思うし」

「どうせなら歩道橋渡ろうか」

「そうだね。そっちの方が早いかもしれないしね」

 二人は歩道橋の階段を上って横断する。

 ふと、恭介は足元に違和感を覚えた。

 何かがまとわりついてうまく歩けないでいる。

「なんだ? 犬? それとも猫?」

 犬にも猫にも見える三匹のナニかが、恭介の足元を中心にぐるりとまとわりついている。輝明の足元にも三匹のナニかがいる。いや、まるで八字を描くように、三匹のナニかが交互に恭介と輝明の足元をぐるりとまとわりついているのだ。

「どうした?」

「あ、いや、目の錯覚かな。なんか変な動物が足元にいるんだよ」

「動物? そんなのどこにもいないけど」

「いや、輝明の足元にも」

「オレの?」

 いまも三匹のナニかがぐるりと足元にまとわりついてうまく歩けないでいるが、輝明には見えていないらしい。

「恭介、お前、昨日のオカルト特番がそんなに面白かったのか?」

「違う!」

「変な恭介だな」と、歩道橋の下り階段に差し掛かった時に、三匹のナニかが輝明の脛の間をすり抜け、「うわっ」と輝明が小さな悲鳴を上げたのだった。

 バランスを崩した輝明は、昼間の雨もあってか階段から転げ落ちる。

「輝明っ!」

 刹那。

 崩れ落ちる輝明の手を、ぐいっと恭介が掴んだのだ。

「やべ、落ちるとこだった。さんきゅうな恭介」

「なにやってんだよ馬鹿っ! ケガしたらどうすんだよ! 打ち所が悪くて骨折でもしてみろ! 選手生命にかかわるかもしれないだろ?」

「恭介……悪い……」

 いつの間にか、三匹のナニかの姿が見えなくなっていた。

 手すりを掴んで体制を整えた輝明は、恭介に優しくほほ笑む。

 ゆっくりと階段を下りて、二人は歩道を歩く。

「恭介……本当はオレさ、お前のこと嫌いだったんだ」

「―――は?」

「小学校の頃から走ってるって言っただろ? オレにとって走ることは生き甲斐って言えばいいのか、オレは走ることしかできないんだよ」

「あぁ……」

「中学一年の総体で個人別三位だっただろ? そして全国大会。本当は一位取るつもりだったんだ。他の誰にも負けない自信があった。たぶん、自分でも気付いてないだけで慢心してたんだと思う」

「そんなことはないだろ?」

「そんなことあるよ。三年の先輩達が抜けた二学期になって、メキメキと頭角を現す奴がいた。誰だと思う?」

「………………」

「お前だよ、恭介」と、輝明はほほ笑む。

「ずっとオレの後ろを走ってきてた奴が、半年足らずでオレの見える範囲まで距離を詰めてきたんだ。正直、オレは焦った。お前、走るのは中学に入ってからだろ? いつか並んで、もしかすると抜かれるんじゃないかって、いつからか怖くなった」

「でも、俺に走り方を教えたのは輝明だろ?」

「あぁ」と、輝明は呟く。

「だって恭介、お前、オレに対抗意識燃やしてただろ? それに偶然、お前が一人で練習してるの見たからかもしれない。だから、教えたんだ」それにと輝明は付け加える。「恭介といると楽しかったしな」

「輝明……」

「ばっ、泣くなよ。恥ずかしいだろ?」

「俺……泣いて、お前も一緒だったんだって……俺もお前が嫌いで……」

 気が付けば、商店街の入口に恭介は立っていた。



「どうでしたか?」

「これが、あなたの望んだ記憶の改変です」

 朱雀庵で意識を失った恭介が目覚める。

 目の前に二人の少女―――魂緒とアセルスが恭介を見下ろしている。

「夢、だったのか?」

「いいえ」

「違います」

「あなたは、ご自分の記憶を」

「真実を覗いてきたのです」

「記憶の真実……」と、恭介が思い出そうとすると頭にちくりと痛みが走る。やがて、散りばめられた記憶が一つになり、恭介は思い出す。

「そうだ輝明は? 輝明は無事なのか?」

「いいえ」

「あなたのご友人はいまも病院で入院しています」

「そんな……」

「でも」と、魂緒が続ける。「回復に近づいています」

「近いうちに退院するでしょう」

「後遺症は? あ、すまない……こんなこと、聞いても」

「あなたの迅速な救助がご友人を救ったのです」

「そっか、よかった……じゃぁ、あの変な生き物は何だったんだ?」

「すねこすりと呼ばれる妖怪です」

「またくぐりと呼ばれる妖怪です」

「妖怪って、あの妖怪か? 人を騙したりする」

「はい」と、魂緒が答える。

 にわかに信じがたい話だが、恭介は魂緒とアセルスを見上げながら妖怪がいてもおかしくないのかもしれないと、心のどこか思ってしまう。

「そもそも四辻町とは、妖怪の住む町」

「四辻とは、人間と妖怪が交差する場所」

「でも俺は一度も」

「あちら側の住人を人間は視ることはできない」

「でも」と、アセルスが続く。「特定の場所、特定の時間、特定の条件が揃うと視えてしまう」

「四辻町は特定の場所」

「特定の時間は四時四十四分」

「つまり、黄昏時」と、魂緒とアセルスが答える。

 恭介は、女子グループの噂を思い出す。

 朱雀庵が開くのも四時四十四分だったはず。

「それで、そのすねこすりに遭ったから輝明は骨折したのか?」

「すねこすりは、ただ人間の股をくぐるだけの妖怪」

「すねこすりに悪意はありません」

「すねこすりに遭った場合は、すねこすりが離れるまで待てばいい」

「お帰りはあちらです」

「さようなら、野村恭介様」

 恭介の目の前で、二人の少女が歪に嗤った気がした。

 すると、さっきまで行灯の橙の光が散りばめられた黒い空間ではなく、恭介は商店街のシャッター通りで立ち尽くしていた。

 朱雀庵はどこにもない。

 恭介は、朱雀庵での事を思い出せない。

 朱雀庵で出会った二人の少女の名前も。

「夢じゃないよな……」

 どこまでが夢で、どこまでが現実なのか恭介にはわからない。

 ただ、言えるのは。

 シャッター通りを吹き抜ける潮の匂いと、輝明の安否。

 商店街から病院までは目と鼻の先。

 不意に、恭介は輝明の顔を見たくなった。

 思いっきり走って病院の中に入る。

 階段を駆け上がり、恭介は五〇五号室の扉を開けたのだった。

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