第九話 誘惑と困惑
ギルドとの対決から翌日の月曜日。
土日という休暇の曜日であったのに、体は休まるどころか疲労が蓄積したような日々であった。
どんなに愚痴を溢そうと祈ろうとも、時間は無視し続けるように過ぎ去って行く。
今日からまた、学校生活が始まる。
––––––と、思っていたのに。
まさか……退学を迫られるなんて、思ってもいなかった。
★
––––––月曜日の放課後。
俺はエリーナ先生から呼び出しをされた為、職員室に向かっていた。
なんとも長くなりそうな用件らしく、アリスに長時間待たせるのは気が引ける為、今回ばかりは先に帰ってもらうよう申し立てた。
執事としてお嬢様を一人で帰宅させるのは危険とも感じたが、放課後直ぐに帰宅すれば外も明るく犯罪に巻き込まれる確率は小さいだろうと判断し、自分を納得させていた。
念の為に屋敷に着いたら到着メールを俺にするよう伝えている。
それだけがお嬢様の安否を確認取れる自然な方法だったから。
「今度は一体、なんの用件なのやら……」
気怠そうに職員室をノックし、入室する。
職員室の端っこに席がある所にエリーナ先生はいた。
俺は近づき、声を掛ける。
「あ、シノン君〜。こんにちは〜」
「あ、こんにちは……」
エリーナ先生は柔らかい表情で挨拶を告げる。
そしてお嬢様には無い、その夢が沢山詰まっている胸も相変わらず柔らかそうだ。
ついつい俺の目が本能的にそちらに向いてしまうのを何とか堪えながら、エリーナ先生に用件を聞く。
「今日は何の用件ですか? また荷物運びですか?」
エリーナ先生は首を横に振る。どうやら違うらしい。
エリーナ先生の返答を待っていると、急に耳打ちで話だす。
生暖かい吐息が変にこそばゆくて、全身に鳥肌が走る。何よりエロい。
そんな耳打ちで話すなよ。興奮しちゃうじゃないか♡
「今日……時間あるかな?」
何故か、ドキッとしてしまう。
思春期男子がこんなむっちりエロい体型に甘い言葉をかけられたら本能が断りを許さない。
おまけにエリーナ先生は癒し系お姉さんの雰囲気が出ているが、童顔によって幼さを感じ庇護欲も唆られる。
これならお姉さん系と妹系のどちらにも捉えられるので、男子から好まれる確率もグッと高まる。
まさに万能キャラ。
既に多くの男子からアプローチを受けてきた事が容易に想像出来てしまう。
「えっ、あ……。時間? ええっと……どうしてですか?」
女子からの誘いに慣れていない俺は挙動不審になってしまう。
お嬢様から誘われた時はこんな事はなかったのに、どうしてエリーナ先生の時はこんなに……! あ、そうか。胸か。
それはさて置き、純粋に俺を誘う理由が皆目見当がつかない。
二人っきり……という意味か? それとも、偉い職員の方々と何か話があるとか? とにかく、エリーナ先生に呼び出される理由が分からないでいた。
そんな困惑の顔を向けていると、それを察したかのようにエリーナ先生は事情を告げた。
「昨日の事で、ちょっとお話があってね……」
「!」
昨日という単語を言われ、呼び出された理由がハッキリと分かった。
––––––ギルドとの騒動だ。
まさか、エリーナ先生に見られた!?
それとも、通りすがりの誰かが告発!?
いずれにせよ、喜ばしい用件では無い事は確かだ。
「……何時に何処集合ですか?」
「う〜ん……そうね〜。じゃあ、十七時三十分に近くのコンビニでどう?」
光陰高校から徒歩十五分程の距離があるコンビニ。
俺の帰宅ルートとは正反対側にある。
一度も立ち寄った事は無いが、場所は難なく辿り着ける。
「分かりました。では、そこで」
「うん。また会おうね〜」
場所と時刻だけ確認し、俺は職員室を出た。
★
時刻は十七時二十五分。エリーナ先生と待ち合わせの時間まで五分前となった。
とりあえず、コンビニの中で雑誌を立ち読みして時間を潰しているが、エリーナ先生の姿は見当たらない。
そもそもエリーナ先生が何で来るのか知らない。
徒歩、自転車、車。手段はいくつかあるが、エリーナ先生が何で学校に来ているのか、そもそも家から遠いのか。
今思えば、俺はエリーナ先生の事を何も知らないでいた。
だがそれも当然と言えば当然で、まだエリーナ先生と出会ってから二週間程しか経っていない為、相手の情報量が皆無でも仕方がない部分もある。
俺は比較的コミュ障で陰にいるような存在。
どうしても必要であれば絡みに行く事もあるが、今は特にそういった事は無い。
しかもエリーナ先生という相手が教師であれば尚更だ。
エリーナ先生とは絡む事は業務連絡以外、絡む事は無いと思っていたが、まさかこのような件で実現されようとは……。
会って間もない人に暗い話題で呼ばれるのは、どうしても気分が浮かないものである。
俺もエリーナ先生と何を話すのか胸中穏やかでは無い。
この吐き気を感じる重い気分から早く解放されたいと思っていると、一台の黒い車がバックでコンビニの駐車場に停まる。
時間的にエリーナ先生だろうか。
バックで車を停めている為、顔を伺う事は出来ない。
停めてから暫くすると、運転席から一人の女性が降りてきた。
スカートのスーツ姿に加えてキャップにマスク、おまけに黒のサングラスまで身につけている。
側から見れば完全に不審者だ。
もしかして、噂に聞く強盗って奴か!?
テレビで放送されている強盗の姿もあんな感じだ。
ポケットにナイフや銃を持ち合わせていても何ら不思議では無い。
俺は雑誌を読んでいるフリをして戦闘態勢に入れるよう気持ちの準備をする。
相手がナイフや銃を持っていたら抵抗は厳しいが、不意打ちなら打開出来る可能性はある。
それに、相手は何故かスーツ姿だ。
戦闘をするにも不向きな格好である為、機動力は俺に分がある。
そんな不審者に対する打開策を頭の中で練っていると、不審者は躊躇する事なくコンビニの中に入って進んで行く。
––––––俺の方に。
(えっ、なんでっ?)
てっきりセオリー通りレジを襲うのかと思っていたが、何故か俺をターゲットに此方に近付いて来る。え、恐っ!
そんな困惑と恐怖が入り混じった顔を向けていると、不審者は俺の前で立ち止まり、手を振ってきた。
「お待たせ〜」
「え」
その声には聞き覚えがあった。
「……エリーナ先生?」
「ピンポーン〜。良く分かったね〜」
俺は一気に脱力する。
不審者の正体は変装(?)したエリーナ先生だったのだ。
俺は素朴な事を聞いてしまう。
「良くそんな格好で歩けますね」
「だって〜、教師と生徒が外で待ち合わせをしているのがバレたら不審がられるでしょ〜?」
「……もう十分不審がられていますよ」
ほらぁ! さっきから周りの視線が痛いもん! やめろぉ! そんな目で俺を見るなあああああぁぁぁぁぁ!!
「早くここから出ましょ!」
俺はグイッとエリーナ先生の腕を引っ張る。
「あぁんっ。シノン君ったら強引〜。ちょっと飲み物買ってくるから、先に乗ってて〜」
俺はエリーナ先生から鍵を受け取り、先に車で待機する事にした。
女性に対して強引な手引きはしないタイプの俺だが、この時ばかりはそうも言ってられない。
なんたって、俺の名誉が掛かってるからね! 俺、もろ制服だし!
★
エリーナ先生の車に乗り、何処かへ向かって進んでいる。
これから何処に向かうのか行き先はまだ聞いていない。
何も知らされていない状態の中、密室空間で二人っきりというのも緊張して仕方がない。しかも、女教師だし。甘い香りがするし。あとエロいし。
ソワソワしてしまう自分を落ち着かせる為にも、俺はエリーナ先生から頂いたホットコーヒーを一口飲んだ。
このコーヒーは先ほどのコンビニで購入した物。
「コーヒー美味いです。程よい甘さ加減で」
「そう〜? それは良かったわ〜」
コーヒーSサイズに対してスティックシュガー一本とミルクが一個という辺りだ。
先生は俺がブラック好きかどうか分からなかった為、中間の味付けにしてくれたのだろう。
「これから何処に向かうんですか?」
「ふふっ。二人っきりになれる所よ」
「?」
そんな親密に話さないといけない内容なのだろうか。
「そんなに大事な––––––」
「それよりも聞いて聞いて〜。一年三組の担任である〇〇先生がね〜」
話を遮られ、エリーナ先生のペースに飲まれてしまった俺は聞き役に徹する。
結局、目的地に着くまでの間、エリーナ先生の世間話が尽きる事はなかった。
★
車に乗ってから三十分が経つ頃。
エリーナ先生は木々がそびえ立つ何とも道が外れたような所を平気で進んでいた。
周りを見渡してみると道路がやや遠くに見えるだけで、近くにお店などの立ち寄る所は何一つ無い。
先を見てみても、何かあるとは思えな……あった。
「さぁ、そろそろ着くわよ〜」
車が進んで行くと、それに比例して先にある建物が目にハッキリ映るようになってくる。
「––––––えっ?」
俺は建物の上部に取り付けられている看板の名前を見て絶句してしまう。
いや、俺の見間違いだろう。それか疲れているのかもしれない。
目をゴシゴシして、改めて看板の名前を確認する。
「––––––!」
見間違いなんかではなかった。
看板にはしっかりと––––––。
『LOVE♡ホテル』と明記されている。
ハートの部分がやたらとピンク色の電球で明るく主張しているのが何だか大人の雰囲気を漂わせる。
「あの、エリーナ先生……。あれって」
「ホテルよ〜」
それは分かっているんだ。俺が聞きたいのは何故そのジャンルのホテルなのかを聞いているんだ!
二人っきりの空間を選ぶなら確かにホテルは最適な場所かもしれない。
だが、何もラブホテルに拘る必要性はないだろう。
ただのホテルなら学校の近くにもいくつかあった。
ラブホテルに関しては情報が無いので知らないが、ここが一番近い所なのか?
そんな不安を他所に、エリーナ先生はラブホテル専用の駐車場に車を停める。あ
「さぁ、着いたわよ〜」
「いやっ、ちょっと待って下さい! ここ生徒と教師が来ていい場所じゃ–––––」
突如、猛烈な眠気が俺を襲う。
溜まっていた疲れが急に来たのだろうか。
しかし、何故このタイミング……?
……頭がボーッとしてきて、気が遠くなるような感覚になる。
そして体の力も徐々に抜けていくような感覚に襲われ、やがて眠気と共に俺はその場で崩れ落ちるのであった。
★
「う〜ん……あれ。……何処だ、ここ?」
目が覚めると、俺はベッドの上にいた。
最初に視界に入ったのは薄ピンク色の天井。
見渡してみると天井だけでは無い。壁もだ。
見慣れない色の部屋に違和感を感じずにはいられない。
部屋の明るさもぼんやりとした照明が部屋全体を照らし出す。
「そういえば……。俺はあの時、急に眠くなって…………」
俺は顎に手を当てながらここに居る経緯を思い出す。
エリーナ先生に車で連れて来られたのがこのホテル。
しかも、ただのホテルではなく……ラブホテル。
「––––––そうだ! エリーナ先生は!?」
視界に映る範囲内にエリーナ先生はいない。
すると、微かにチャプンという水の音がしている事に気づく。
「…………あそこか?」
視線の先はバスルームと思われる一室。
扉の作りのフォルムからしてそうと思われる。
また、トイレだけの一室も無い為、この部屋はユニットバスの造りである事が予想付く。
俺は抜き足差し足でそろ〜りとユニットバスの入り口に近づく。
そんな入り口の前には籠が置いてあり、その中を覗くと女性の衣類が無惨に放り込まれていた。
一番上には可愛らしい花柄刺繍が施されたピンク色の下着があった。
「ふぉぉッッ!?」
思わず興奮してしまい、鼻息が荒くなる。
俺はこれ以上のガン見は罰が悪いと思った為、込み上がってくる本能を理性で必死に押さえ付ける。
なるほど。これが天使と悪魔の自分という奴か……。
「あら、起きたのね〜」
「!」
ドア越しで聞こえてくるとろ〜りとした甘い声。
「……エリーナ先生ですか?」
「そうよ〜」
やはりそうであった。まぁ、ここで知らない人がいたら怖いけど……。
「今上がるから待っててね〜」
「え、あ……はい……」
今すぐ聞きたい事がある焦る気持ちを抑える。
ドア越しの顔は何かやりづらいし、相手にも迷惑だろう。
俺はエリーナ先生が風呂から上がるという事なので、この場から立ち去ろうとした。––––––その時だった。
––––––ガラン。
ユニットバスのドアが開かれる。
音に反射的に振り向いてしまった俺は見てはいけないものを見てしまう事になる。
エリーナ先生の全裸姿だ。
「わああああああああああああッッッ!」
これまた反射的に顔を隠し、後ろに振り向いてしまう。
生まれて初めて見た他人の全裸。しかも女性。しかも担任。
俺は罪悪感に似た感覚に襲われるも、心の底では『ラッキー!』とか思っているに違いない。いや、違ってくれ。
それでも見てしまった事実に変わりはなく、その一瞬の光景を脳に頑固な油汚れのように焼き付いているのだから本能というのは恐ろしい。決して俺がドスケベなわけではないとだけ一応言っておく。
ってか、何で男を前に平然と全裸で現れるんだよ! 俺が悪いみたいになっちゃうでしょうに!
「ってか、何で男を前に平然と全裸で現れるんですか! 俺が悪いみたいになっちゃうから!」
心の声が表に出てしまっていた。
そんな俺の気持ちをエリーナ先生は理解していないのか、首を傾げて不思議そうな目で俺を見つめてくる。
「え〜、いいじゃな〜い。別に減るもんじゃないし〜」
「俺の寿命が減りましたよ」
「ふふっ。シノン君ったら面白い〜」
「……」
「ねぇ〜、こっち振り向いて良いよ〜?」
「ダメです。早くタオル巻いてください」
「実はタオル持ってきていないんだよね〜」
「ここはホテルだからタオルぐらい置いてありますよ」
「なんだ〜。意外と冷静じゃない〜」
「?」
「……ちょっと待っててね。直ぐに着替えてくるから」
そう言うと、俺の横を通ってベッドルームに向かっていくエリーナ先生。
おそらく既にタオルは持っていて、着替えの用意がベッドルームに置いてあると見える。
「終わったら呼んでください」
「は〜い」
気の抜けた返事。そのトーンと口調はいつものエリーナ先生と同じだ。
だけど、出ている囲気は違うように感じる。
己の身に何か危険を感じる。
これまでの虐め被害で養ってきた男の勘が、そう言っている。
それにここは…………ラブホテル。
部外者が立ち入る事が出来ない、二人だけの密室空間。
…………俺は既に、エリーナ先生の罠にハマっているような気がした。
★
「もう大丈夫だよ〜」
そう告げられた為、俺はエリーナ先生に振り向く。
そこに映ったのは、––––––エリーナ先生の全裸だった。
「エリーナ先生ィィィィィィィィィッッッ!?」
「あはは〜! 引っかかった引っかかった〜!」
「ちょっ! お願いだからマジでやめてください! 心臓に悪いです!」
「ごめんごめん〜! 次はちゃんと着替えるから〜」
「……頼みますよ、ホント」
ってか、次はってなんだ、次はって……。
「どうぞ〜」
暫くして、再び声を掛けられる。
俺は恐る恐る、視界の端で僅かにエリーナ先生の容姿を探る。
そこには白のブラウスが見えたので今度こそ着替えたと思い、目を向ける。
そこに映ったのは、––––––服に着替えたエリーナ先生だった。
「……ほっ」
「凄くお疲れの様子ね〜」
「一体、誰のせいでしょうね〜?」
「ね〜」
「…………」
分かってはいたが、何か調子狂うな……この人。
ふわふわしているというか……頭のネジが数本抜けているというか。
お嬢様とはまた違ったポンコツ感も感じる。いわゆる天然女子って奴か。
だが、今はそんな感想を抱いている場合ではない。
「エリーナ先生、教えて下さい。今日は何の用件があってこんな所に連れてきたんですか?」
「だから〜、昨日の––––––」
「『それだけ』を話すなら、わざわざこんな道が外れたホテルなんかに来る必要性は無いと思うんですが……」
ラブホテルというのは気恥ずかしいのでこの際言わないで置く。
「……フフッ。そうよね〜。わざわざこんな所まで来たら疑われるわよね〜」
いつもの笑顔のように見えるそれは、今の俺にとって不気味に見える。
「じゃあ〜、そろそろ本題に入ろっか〜」
エリーナ先生はぐるりと踵を返し、両手を後ろで繋ぎ、背中越しで話し始める。
「シノン君は昨日、他校の生徒と喧嘩していたよね〜? 先生、偶然見ちゃったんだ〜……」
「……っ」
ここで納得した。
昨日のギルドとの件は、誰かに目撃されていたという事を。
そして、その目撃者がエリーナ先生だという事を。
「でも、安心して〜。この事は『まだ』誰にも言ってないから〜」
その一言を聞いて、俺は肩の荷が降りた。
どうやら昨日の件はエリーナ先生しか知らず、学校には連絡が入っていないようだ。
後日、連絡が入ってくる可能性も捨てられないが、現状は知られていないという事実だけで俺はホッとしてしまう。
だが、腑に落ちない。
『それだけ』を伝える為に、ここまで呼び出す筈がない。
そして先ほどの『まだ』という点も引っかかった。
大抵相手の弱みを握った場合に用いるそれは、俺に何か要求して来るであろう事が察せられる。
そんな言葉の裏を深く考えていると、エリーナ先生は俺の方へと振り返り、衝撃な事を口にした。
「ねぇ––––––私の執事になってよ」
俺はそれを聞いた途端、目が点となり、頭の中が思考停止状態となった。
何を言っているんだ……? その疑問がただ蟠りとなって胸中を騒がしくする。
俺が呆けた状態でいると、エリーナ先生は薄く微笑み、申し訳なさそうに首を傾げる。
「あ〜、急にごめんね〜? 驚いちゃったよね? そっか〜。そういえば、私の事まだ教えてなかったね」
両手を合わせて『ごめんね〜』と謝る姿は純粋な女性の様に見える。のだが……。
「私––––––お嬢様なんだ」
今の不適な笑みを浮かべているその人は、何を考えているのか分からない謎の女性だった。
「俺がエリーナ先生の……執事に……?」
「そう!」
再び両手を合わせて、今度は満面の笑顔を見せてきた。
そんな無邪気で可愛らしい笑顔を見せられたら、大抵の男は墜ちてしまうのではないかと思わせられる。
きっと、俺もドキッとしてしまう事だろう。
でも、『今の俺』は微塵も感じなかった。
「何を言っているのか、良く分かりませんね」
言葉の表面上、本当は理解している。
だが、本質は理解出来ていない。
––––––何故、俺がエリーナ先生の執事にならないといけないのか?
––––––そして、俺が執事をやっているという情報を何処で手に入れたのか?
俺はお嬢様と執事の関係である事は隠している。
誰かに話した事も一度も無い。
てことは、誰かが勝手に暴露したと解釈するのが妥当であろう。
その『誰か』は直ぐに炙り出す事は不可能。
「フフッ。その苦悶の表情……何故どうして? って顔に書いてあるわよ?」
「全くその通りですよ……」
どうやら、俺の考えている事はお見通しらしい。
その疑問の答えを明かす様に、エリーナ先生は淡々と告げる。
「––––––じゃあ先ず一つ目、シノン君が執事である事を何処で知ったのか、ね」
俺の心を丸裸にするかのように質問の内容を的確に当てにくる。
え、なに? 読心術とか極めてんの?
すると、エリーナ先生はスカートのポケットからスマホを取り出し、何やら画面をいじり出す。
探し求めていた『ある動画』を見つけると、それを俺に見せながら再生し始める。
『お嬢様は、俺が守る』
「ッ!!」
それは昨日、俺がギルドに言い放った台詞だった。
動画はまだまだ続く長さであったが、その動画の内容は見なくてもしっかり理解し、俺の記憶にも鮮明に残っている。
エリーナ先生のスマホには。
––––––俺とギルド達のやり取りが、しっかりと盗撮されていたのだ。
エリーナ先生は動画を一時停止し、俺に視線を変える。
「これが、シノン君が執事である事を見抜けた証拠の根元よ」
「……なっ!」
「この一連の流れを、私は最後まで見届けさせてもらったわ。––––––シノン君とアリサさんが屋敷に帰る所までね」
「なんだと……!?」
つまり俺達は、ストーカーをされていたという事。
「最初見たときは絶句したわ〜。まさか二人がお嬢様と執事の関係だったなんてね」
それからエリーナ先生は屋敷の事、俺達の事を事細かく調べ尽くしたという。
昨日のギルドとの件は約十八時に終了した。
つまり、たったの約半日でそれだけの詮索力があるのだから、それだけ俺達の事が気になって仕方が無かったのだろう。
そしてここまでの計画……。
「……二つ目の、俺が執事になれという件は?」
そう聞くと、エリーナ先生はスッと両手を俺の頬に添える。
そして、エリーナ先生は俺の瞳の奥を覗くかのように強い眼差しを向けてくる。
俺は金縛りにあったような感覚に襲われた。
「あなたが強いからよ」
その惚れ惚れしたような表情。
何か確信があるのだろう。
まぁ、十中八九盗撮された俺とギルドの対決を見て判断したのだろうが……。
「俺はエリーナ先生が思っているような強い男ではありませんよ」
謙遜なんかでは無い。真実を告げる。
それが可笑しかったのか、エリーナ先生は口元に手を当てクスクスと笑った。
「いいえ。あなたは強いわ。昨日の戦いを見た私がそう言うのだから、間違いないわ」
やはり、昨日の件での判断か。
「……随分と、人を見る目に自信がありそうなんですね」
「ええ、あるわ。私がこれまで何人の男を見てきたと思っているの?」
過去を思い出し、落胆しているかのような表情。
そこからして、嘘で言っているようには感じられない。
それ程エリーナ先生はお嬢様として、多くの執事を近くで見てきたのだろう。
そしてその分だけ––––––失望させられてきた。
「……今までの執事達は、とんだ腰抜け達だったわ。お嬢様である私の身を護衛する筈の者が、いざ敵を目の前にした時直ぐに怖気ついちゃうんだもの。見てて凄く頼り甲斐が無かったわ。実際、やられるか逃げるかのどちらかだったしね……」
エリーナ先生もこれまで色々なチンピラ達に絡まれてきたのだろう。
お嬢様を護衛する筈の執事が情けない姿を晒したら失望してしまうのも納得だ。
それにエリーナ先生は容姿端麗で性格も穏やか。そして全身から溢れ出るフェロモンが醸し出されている。
それのより、世の男子が絡まずにはいられないというのも納得がいってしまう。
これだけ可弱そうな女性だ。
恵まれた遺伝体質なだけに、皮肉なものだ。
きっと、自分の命を自ら身を呈してまで守り抜こうとしてくれる側近が欲しかったに違いない。
俺がお嬢様にしたように。
「だから私は決めたのよ。執事にする条件は––––––『強い男』である事、ってね」
「…………」
エリーナ先生にとって俺は『強い男』として認定されているという事か。
ましてや執事を務めているのだからこれ程都合の良い展開は無いだろう。
実際、喧嘩慣れしているギルド達を相手に怖気つく事なく、真正面から倒していく芸当は生半可な力では厳しいだろう。
自分で言うのもなんだが、俺だってそれに見合った努力はしてきたつもりだ。
努力を無しにあそこまでの力を身に付ける事など、決して有り得ない。
エリーナ先生もそれは目撃しているし、その過程を理解しているに違いない。
なら、もう隠し通す事は不可能であろう。
自分では自分の事を決して強いとは思っていないのだが、他者から見たらそう見えてしまうのも仕方が無いのかもしれない。
でも、俺は既にお嬢様の執事として務めている。
それを容易く承認する事など出来ない。するつもりも無い。
なのに、エリーナ先生は断られる事など微塵も思っていない余裕の笑みを浮かべているのは、『それ』を手にしているからだ。
「……俺達の事を調べたと言うなら……俺達の関係も知っていますよね?」
遠回しに『俺は既にお嬢様の執事として務めているから無理』とオブラートに伝えたつもりだが、エリーナ先生は一切動揺する事なくスマホの画面を俺に見せ、脅すかのような口文句を向けてくる。
「あら、そう? なら、この動画を教員の人達に告発してもいいのね?」
俺を精神的に追い詰める為か、音声を流しながら動画を再生し始める。
俺やお嬢様、ギルド達の声が部屋中に響き渡る。
その声が、昨日のやり取りが頭の中でフラッシュバックされる。自分でも、今は酷く険しい表情をしている事が分かった。
そんな事などお構いなしに、エリーナ先生は続けた。
「もう察しているかもしれないけど、あなたの選択肢は二つに一つしか無いわ」
「……っ」
「私の執事になるか、それとも退学になるか。……ああ、そうそう。安心して。私の為に忠実してくれるのなら一生困らない報酬も与えてあげるわ。勿論、私もあなたを一生大事にする」
エリーナ先生は自分の胸に手を当てて誓う。その姿を見るに、嘘で言っている訳ではなさそうだ。
もし嘘だとしたら、理由をつけて離れる事も可能になるからな。
それに、俺にとってもデメリットが無い。
ただいつも通り執事として責務を全うするだけで、一生安泰の生活が保証される。
執事の業務自体、俺にとってはなんの苦痛でも無い。
一つ大変な事があるとすれば、ギルド達に絡まれた時の防衛程度だろう。
未だに鍛錬を怠った事はない俺にとって、それは自信がある。
エリーナ先生自身だって、そこまで悪い人間では無いと思う。ただ傲慢なだけだ。俺が執事になれば、至って普通の可愛らしい女性として振る舞うのだろう。
どこかの暴力女とは違う。
給料だって課金したら直ぐになくなってしまう程度だ。それは俺が悪いな。
ともかく、俺がエリーナ先生の執事になる事は、先の長い人生においてこれ以上ないメリットでしかないのだ。
俺はエリーナ先生の誘惑によって、困惑の顔を浮かべる。
俺が必死に考えている素振りを理解してか、エリーナ先生も黙って見守る。
急かさないのは俺に気遣っての事なのか。
それとも勝利を確信している余裕から来るものなのか。
スマホからはまだ俺達の音声が流れている。
結局その音声が俺を急かし、精神的にじわじわと削っていく。
それも自発的による行為だろう。はっきり言って耳障りだ。
だからこそ、俺は冷静に保てずにいる。
だからこそ、エリーナ先生は余裕でいる。
––––––だからこそ、エリーナ先生は『油断している』。
「!!」
俺はその隙を突いて、スマホを奪おうとした。
「っ!?」
––––––だが、失敗に終わった。
何故か、エリーナ先生は俺の行動を『先読みしたかのように』かわしたのだ。
「残念だったわね」
「っ」
「フフッ。『どうしてバレた?』って顔ね」
「……よく分かりましたね。結構本気でやったつもりなんですけど……」
「何となく……そんな気配を感じたのよね。女の勘ってやつかな?」
勘で済まされる話では無い。
俺は全力までは出さなかったとしても……少なくとも7、8割の力量でスマホを奪いにいった。
それはギルドとの対決と同じ力量。
いくら勘が当たったとはいえ、それに反応し対応する体が出来上がってなければ抵抗する事は不可能。
エリーナ先生が……。
ギルドでも反応出来なかったそれに反応したという事は…………。
「エリーナ先生はひょっとして、何か武道とか習っていたとかします?」
「………………」
エリーナ先生は薄く微笑むと、両手を合わせ関心したかのように告げる。
「まぁ凄い! 今の行為は『それを探る為』でもあったのね!?」
本当はただスマホを奪いにいっただけ。ただ、躱された事によって新たな疑問が生まれただけだ。
折角関心されたので、そういう事にしておく。
「……どうなんですか?」
「どっちだと思う?」
「意地悪ですね……」
「こういう時って、どうするのが正解か知ってる?」
「…………」
俺は顔を訝しみ、『分からない』と顔で示すと、エリーナ先生は人差し指を立てて正解を告げようとした。
「正解は––––––!!」
俺はエリーナ先生が口を開いた瞬間の『隙』を突いて、今度は全力でスマホを奪いにいく。
人間は二つの事を同時処理する事に向いていない。
それは脳の仕組み上、仕方の無い事だ。
今エリーナ先生は『俺に正解を告げる』という一つの指令が脳から伝えられている為、『もう一つの対応には遅れる』というのが自然。
だから俺は、そこを突いた。
そして見事、俺はエリーナ先生のスマホを捕まえる事に成功した。
––––––だが。
「!」
それとほぼ同時に、エリーナ先生の蹴りが俺の横腹を襲いに掛かる。
俺は辛うじてその攻撃を腕でガードする事に成功。
そしてすかさず間髪入れず、俺がガードしている事に気を取られている間にエリーナ先生は俺がスマホを掴んでいる腕に手刀を入れ、その悲痛に力を緩んでしまった俺は、結局……スマホを奪う事に失敗してしまう。
(つ……強い……っ)
一旦距離を取られてしまった俺のこの時の思考は、スマホを奪うという意識を完全に削がれていて、今はエリーナ先生の『異様に慣れた手つき』に思考を持ってかれてしまっている。
「やっぱり、何か習っていますね……」
「ふふっ」
「でなければ、この説明がつかない」
「……」
「エリーナ先生。それだけの防衛術を身につけているのなら、強い男を側に付ける必要性は無いかと……」
「……ふふっ。シノン君って、本当に面白い子ね〜」
間延びした声。
口元と胸元に手を当て、笑いを堪えているかのような姿は不気味さを感じる。
そういえば、さっきまでエリーナ先生の特徴である語尾の間延びが無かった事に気付く。
妙に違和感があったのはそれの事か。
キャラ作りでもしていたのか?
ここまで来ると、エリーナ先生の事が余計に解らなくなってくる。
笑いが済んだエリーナ先生は一呼吸をした後、スッと疑惑の目を向けてきた。
「そうやって––––––『弱いフリ』するのやめたら?」
向けられた強い眼差しは、確信によるものだった。
「……俺は本気でしたよ」
「い〜や、あなたは全然本気を出していない。そんなの動きを見れば直ぐに分かるわ」
そう。俺は『全力を出しているつもり』で向かって行った。
それが正真正銘、俺の持てる全力であったかと問われれば……ノーだ。
敢えてそうしたのは、エリーナ先生の指摘通りだ。
エリーナ先生は俺の実力を認めているが為に、俺を欲している。
––––––なら、『俺がその期待を裏切れば良い』
エリーナ先生が目撃していた時の俺と、実際の俺との違いを『わざと』測らせ、そして––––––興味を削いてもらう。
これが、相手を傷つけずに解決出来る唯一の手段であったが、長年のエリーナ先生の目はどうやら誤魔化せなかったらしい。
「きっと……エリーナ先生の洞察力が鈍くなっているんですよ」
だがそれでも、ここで白状するのは水の泡になってしまうので、無駄な足掻きと思いつつ、最後までやり通す俺。
––––––すると、前方から素早い拳が俺を襲う。
「ッぶね!」
間一髪避ける事に成功したが、俺の髪の毛がシュッと何本か切られたような気がした。
「な〜んだ。やっぱり嘘じゃない」
「……」
「さっきの攻撃……全力でやったんだけど。あれを避ける事が出来たのは今まで誰一人といないわ」
「……」
さっきの素早い拳は俺を試す一撃だったのだろう。
体が危険を察知し、反射的に避けてしまったのが仇になってしまったようだ。
「わざと手を抜いて、私を失望させようなんて……無駄よ」
「くっ」
「さぁ、どうする? 社会的に抹殺されて学校を退学するか。私の執事として一生着くか。それとも––––––私をここで殺すか……」
「……っ」
新たに増えた選択肢。それはエリーナ先生が俺の実力を改めて認めた上での候補なのだろう。
俺は––––––エリーナ先生より強い。
力で一方的にねじ伏せる事もどうやら可能のようだ。
自ら自分に不利な選択肢を与えるという事は、そもそもその選択肢を選ぶはずが無いという確信の現れでもある。
殺人なんて犯してしまえば、それこそ社会的に抹殺される。
バレない可能性もあるが、見つかった時の代償はかなり大きい。
そもそも、そこまでする道理はないし、犯罪をしてまでというのはナンセンスだ。
「俺は…………」
––––––お嬢様の顔が思い浮かぶ。
「俺は……!」
––––––。
––––––。
––––––。
「…………それがあなたの答えなのね?」
「……ああ」
やや俯きながら答えを告げる。
視界に映るのは床に敷かれた薄ピンク色のカーペットのみ。
それでも––––––。
勝利に満ちた笑みを浮かべているエリーナ先生の姿は容易に想像出来た。
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