第七話 シノンとアリサ

これは俺が中学時代に虐められていた時、アリサが俺に寄り添ってくれた時の話だ。


––––––。

––––––。

––––––。


キーンコーンカーンコーン。

4時限目の終了のチャイムが鳴った。

(……今日もいつもと変わらないな)

毎日の虐め。俺はそれを当たり前の日常だと感じている為、慣れてしまっていた。

虐めが起きた時は酷く傷ついたものだが、今となっては完全に慣れてしまっていて、最初に比べたら何とも思わないようになってしまった。

もちろん、傷つかないわけではない。

人としての感覚が完全に麻痺していると言えるだろう。

「さて、行きますか」

俺は事前にコンビニで買っておいた昼食を片手に屋上へと早速と向かって行く。

屋上でいつも食べている昼食の時間は俺にとって、そこは唯一の安らぎの場であった。

昼食時間での校舎内は友達同士のお喋りや購買の販売などで賑やかな空間へと変わるのだが、それが俺にとっては耳障りだった。

おそらく嫉妬だ。

俺には友達が一人もいない為、いつも食事は一人だ。

だから友達同士で楽しく会話しながら食事をしているのを見ていると、拒絶反応しているかのようにその空間から遠ざかりたくなる。

みんな誰かしらと一緒に食事をしている。そこの空間で俺だけ一人で食事をするというのは、どうも居心地が悪く、折角の食事も落ち着いて食べられなかった。

そこで見つけた最適な場所が屋上だった。

幸いな事に、屋上に来る者は誰一人といない。

ここの学校は屋上を自由に出入りする事が出来るので、俺はそれを利用して昼食はいつも屋上で食べる事にしたのだ。

「……よし、今日も誰もいない、っと」

とはいっても、確認は毎回怠らない。もしかしたら陰に隠れて待ち伏せをしている……なんて事もあるかもしれないからな。

「さてと、いただきますか」

俺は地面に座り、コンビニ袋から取り出したサンドイッチとカフェラテを取り出し、昼食タイムになる。

「いただきます」

サンドイッチを一口頬張った後、背後から不幸の音が鳴り響く。


––––––ギイイィ。


思わず、ドキっとしてしまう。

普段は誰も来ない筈の屋上のドアが音を鳴らしながら開かれたのだから。

風のいたずらか? いや、風は吹いてなかった。なら、『誰か』の仕業に違いない。

俺は恐る恐る、後ろを振り返る。

その恐怖さに咀嚼するのを忘れてしまう程だ。

屋上のドアに目を向けると、そこには『一人の女子生徒』が申し訳なさそうに顔を覗かせている。

ふと視線が合うと、その女子生徒は観念したかのように姿を現す。

(確かあの人は……学年一優秀だった…………アリサ、だっけかな?)

銀髪ロングに透き通るような肌をしているアリサは、可愛いと美人の両方を兼ね備えた、誰が見ても絶賛するであろう容姿をしている。世の男子はアタックせずにはいられない事だろう。俺も油断していたら一目惚れする所だった。

「やっほ〜」

「え、あ、はい、どうも……?」

急に手を振られ、にこやかな顔を見せてくるものだから戸惑ってしまった。

「私も、ここ使って良いかな?」

「あ、もちろんです」

ここは俺の縄張りでも何でもない。全員が等しく使える公共の場なのだから許可を取る必要もないだろうに。

でも、これは参った。

俺の唯一の安らぎの場が失う事態となってしまった。

ここは俺が『一人』で使用していたから絶好の場であって、他者の乱入が起こってしまってはそういう場ではならなくなってしまった。

(はぁ〜。別の場所を探すとするか……)

俺は重たく腰を上げ、屋上を去ろうとする。

「え、ちょっとちょっと! どこ行くの?」

「どっかに」

「もしかして、邪魔しちゃった?」

「いや、そんなんじゃ」

「なら、一緒にお昼食べようよ」

「えっ?」

聞き間違いだろうか。いや、はっきりと聞こえた。

それでも俺は素直に受け止める事が出来ず、目と沈黙だけで再確認させようと促した。

「だから……良かったら、一緒にどう?」

そう言って、風呂敷に包まれた弁当箱を見せつけてきたアリサを見て、やっとその言葉を受け止める事が出来た。

「いや、俺は大丈––––––」

「はいはい、一緒に食べましょうね〜」

そう言って、無理やり屋上のドアを通り抜けようとすると、アリサは俺の襟足を掴んで強引に引きずり戻そうとする。

「ちょ、おまっ!」

見た目は華奢でどちらかというと小柄な女性なのに中々の力であった事に驚きだ。

俺は何が何だか分からず、アリサに身を任せている状態だった。

結局、俺が座っていた位置に戻る形になる。

「さ、食べましょ?」

明るい笑顔でそう言われると、先程とは違うドキッを感じてしまう。

「いや、だから俺は大丈––––––」

「食べるわよね?」

「……はい」

あれれ〜? 今度は目元に影が覆われているよ〜? こわいよ〜。



     ★



「では、いただきまーす」

「……いただきます」

なんやかんやで昼食を共にする形になってしまった俺は、逃げる事を諦めてサンドイッチを頬張る。だって、逃げたら仕留められそうなんだもん。

それに相手はアリサ一人だ。これが複数人だったら死を覚悟してでも立ち去っただろう。

アリサは特段、俺に対する虐めに加担している様子はないので、そう言った意味でも心の何処かでは気を許してしまったのかもしれない。

「シノン君、だよね? いつもここで食べているの?」

「まあ……そうだけど」

「そっかぁ。でも、ここ良い場所だね。外の空気を感じながら食事なんて」

「あの……」

「ん?」

「君は……」

「あ、ごめんごめん! 自己紹介してなかったよね。私の名前は––––––」

「知ってるよ」

「え」

「学年一の成績優秀者で周りからも親しまれている美少女『アリサ』だろ?」

「……そ、そんなに褒めても何も出ないよ?」

「いや、結構周りではそう言ってるぞ?」

聞く気がなくても耳に挟んでしまうぐらいアリサの事は絶賛されている。

周りはお世辞で言っているわけではなく、本心で言っている事が顔の表情や声のトーンから読み取る事は出来た。

実際、言葉通りであった。

「そ、そんな事言ってるの!? やだ恥ずかしいんだけど!」

赤面を両手で隠すアリサ。

俺は先程聞きそびれた事を告げる。

「––––––で、そんな君が俺に何か用?」

俺が屋上で食べ始めてから三ヶ月。これまで誰も来る事が無かった屋上にいきなり姿を現すなど、怪しい事極まりない。

アリサは俺と同じ学年。クラスは別だが、俺の虐めの件は学年中に広まっている為、知らない事は無い筈。

何か用があっての顔出しに違いない。

しかし、アリサはきょとんとした表情で首を傾げる。

「用? 用という用はないけど……」

「じゃあ、何しにここへ?」

俺と同じく、屋上で食べたいだけなのだろうか。


「シノン君と、お話をしてみたくて」


……分からない。今まで接点等なかった彼女が、何故俺なんかと……。

「先に言っとくけど、面白い話のネタなんて持ってないからな」

念の為に言うと、アリサは可笑しそうに吹き出す。

「ぷっ。別に面白い話をする必要なんてないよ。––––––ただ、一緒にお喋りがしたいだけだから」

「…………」

やはり、分からない。何故、『その相手』が俺なのか。

アリサは人間性や信頼の厚さから大勢の人に囲まれている為、話相手になってくれる人はいる筈だ。

そんな大勢の中、何故俺を話相手に選んだのか。

「……誰かの、命令か?」

「え?」

「誰かの命令で、俺に近寄ってきたのか?」

例えば、虐めの主犯とかな。

「そ、そんなんじゃないよ! 私はただ、シノン君と––––––」

「悪い。体調が悪いから保健室に行って来る」

もちろん、体調など悪くない。

その場の居心地の悪さに耐えられなかっただけ。

「あっ」

俺は振り返らず、屋上のドアノブに手を掛ける。

その時、背後で俺に手を伸ばそうとしたアリサの姿が、ドアのガラスに映っていた。



     ★



––––––アリサと屋上で出会っての翌日。

俺は昼食の時間、屋上に行くか、それとも別の場所にするか迷っていた。

屋上以外に人目の付かない、かつ食事に最適な場所が思い付かなかったからだ。

迷った挙句、俺は可能性に賭けて屋上に向かう決断をした。

階段を一段ずつ進む度に、胸のざわつきは加速する。

手汗が滲み出た手でドアノブに手を掛け、ゆっくりと開ける。

そこに映ったのは…………誰一人いない、外の景色だった。

「……良かった」


「––––––何が?」


「ッ!?」

頭上から聞こえてきた女性の声。

「とおおおりゃああああああッッ!」

「わっ! おい! ちょっま––––––」

誰かを確認しようと上を見上げた時には既に俺に向かって飛び降りて来ていた。

いきなりの事で反応が遅れてしまったが、俺は辛うじて女性をキャッチする事に成功。

「あ、あぶねーだろ!! 急に飛び降りてくんな! ……ってお前は」

「えへへ。ナイスキャッチ☆」

お姫様抱っこされているその女性はアリサだった。

「今日も、来たのか……」

「うん。来ちゃった」

「……はあ〜。分かったよ。一緒に飯でも食おうぜ」

「うん!」

パアッーと明るくなるアリサ。俺はそれが妙に恥ずかしくて、ゆっくりと手から降ろした。



「いただきまーす」

「いただきます」

両手を合わせた礼儀作法後、二人っきりの昼食タイムとなる。

「てか、なんで急に飛び降りて来たんだよ。俺が気付かなかったら大怪我する所だったぞ?」

特に俺が!

「だから飛ぶ前に声かけたでしょ?」

「……」


『––––––何が?』


「いやいや! あんなの掛け声って言わないでしょ! むしろ殺しに行く前の一言だったよ!」

「あっははは! 大丈夫大丈夫! 私、体重軽いから☆」

舌をぺろっと出し、横ピースを決めてくる。

「いや、そういう問題じゃないから! 飛び降りてくる事態が問題だから!」

その姿は小馬鹿にしているようで少々イラっとしてしまったが、可愛いのでOK!!

「……まぁ……その、言いにくいんだけどさ……」

「ん?」

「他の男子には、やらない方が良いと思うぞ……」

「どうして?」

「………………パンツ、丸見えだった」

「………………」

ソワソワしながらスカートに指を向けると、アリサはスカートを抑えながらかぁーっと顔を赤くする。

どうやら、そのような不祥事が起こる事に気付いていなかったらしい。

そりゃあ、スカートで飛び降りればフワッと舞い上がるだろうに。スパッツ履いとけスパッツを。

「…………エッチ」

「なんでだよッッッ!!」

俺もかぁーっと顔が赤くなってしまう。二人ともトマトのように真っ赤だった。

「……スパッツ、履いて来るんだった」

「おう、そうだな。次からは履いてこい。ってか、もう飛び降りるな」

「うぅ〜っ。私とした事が……!」

なんだなんだ? なんなんだこいつは? 本当にこれが学年一の優等生なのか? なんかポンコツそうに見えるんだけど?

「でも、得したね。シノン君」

「ふぇ?」

「……女の子の……パンツを、見たんだからさ……」

「ちょっと待て。俺が悪いみたいな雰囲気になってんだけど?」

「そういうつもりじゃっ……ああ、もう! ごめん! この話は忘れて!!」

「分かった、忘れる。それに安心してくれ。俺はパンツなどに興味は無い」

「えっ、そうなの? 男の子なのに、ちょっと意外かも」

「まぁ変わり者なんだよ。俺は」

嘘です!! 全然興味あります!! パンツ見れた事に心から感謝しております!! 確かシンプルなピンクだったな。シンプルピンク、シンプルピンク。よし、覚えた!!

「……今日も俺に何か御用で?」

俺は本題に入る。これ以上、女の子とパンツの話をするのは恥ずかしいし、昨日みたいに立ち去りたくなっちゃうからね!

「昨日も言ったでしょ。特に用があるわけじゃないよ。一緒にこうして、お話をしたいだけだよ」

「何で、俺なんかと。他に話し相手ならいるだろ?」

「えー? 理由ないとダメ?」

「いや、ダメってわけじゃないけど……。なんかこう、大勢の人に囲まれている学年一の美少女優等生が俺みたいな根暗に話し掛けるって、想像付かなくてな」

「それ、関係なくない?」

「……」

「誰かに話し掛けるのに、条件とかあるの?」

分かっている。そんな条件など無い。ただ勝手に決めつけているだけだ。

頭の中で半分ずつの思考が入り混じっている為、言葉が整理されず黙り込んでしまう。

「…………」

「私はただ、シノン君とお話しがしたくて、ここに来ているんだよ」

「……っ」

「それに、実は集団というのが苦手でね」

「え、そうなの? てっきり得意かと思ってた」

「ううん、苦手だよ。本当はシノン君みたいに、一人で過ごしたいんだ」

「!」

「一人だと優雅で過ごしやすいし、そっちの方が」


「––––––俺は、なりたくてなっているんじゃないッ!!」


突然の荒げた声にアリサはビクッと驚く。

「……シノン、君……?」

「何か勘違いしているようだけど、俺は好きで一人になっているわけじゃない……!」

「えっとぉ、ごめんね。何か勘に触れるような事しちゃったかな?」

こいつは……っ、俺をおちょくっているのか……?

やっぱり、こいつも……。

「……少しでも、期待した俺が馬鹿だったよ」

「え」

俺は食べかけのサンドイッチを無理やり口に押し込んで、カフェラテで流し込む。

「この後、用事があるから行くわ」

もちろん、用事など無い。自分の苛立ちでアリサに八つ当たりしそうになるのを防ごうと思っただけだ。

「ま、待ってよ!」

俺は足を止める。何か言いたげそうな様子であったが、俺はそれよりも先に声を発する。

「もう、二度と俺に付き纏うな」

それだけ言い残し、俺は屋上を去る。

冷たい風が吹き荒れ、俺達の体温を奪うように襲い掛かる。

俺は振り返らず、屋上のドアノブに手を掛ける。

その時、手元にあった弁当箱が無残に落ちていたアリサの姿が、ドアのガラスに映っていた。



     ★



––––––アリサと屋上で出会ってから三日目。

俺は昼食の時間、屋上に行くか、それとも別の場所にするか迷っていた。

屋上以外に人目の付かない、かつ食事に最適な場所はないものの、一応場所は決めてある。

迷った挙句、俺は可能性に賭けて屋上に向かう決断をした。

もし居たら引き返せばいいだけの事。

階段を一段ずつ進む度に、胸のざわつきは加速する。

手汗が滲み出た手でドアノブに手を掛け、ゆっくりと開ける。

そこに映ったのは…………手すりに手を掛けているアリサの後ろ姿だった。

「おいッッ!!」


「––––––え?」


これまでにない全力疾走でアリサに駆け寄り、手すりから強引に引き離す。

「……はぁ、はぁ。何、やってんだよ……っ」

「何って……」

「何があったか知らないけど、早まるんじゃねぇよ!!」

「ええ? え?」

「何があったんだよ……」

「……シノン君、ひょっとして……私が飛び降りると思ってた?」

「––––––え、違うのか?」

「全然違うよ! ただ上から眺めていた景色を堪能していただけだよ」

「……マジか」

どうやら俺の方が早まっていたという事実。なんと恥ずかしい事やら……。

これはこれで今直ぐ立ち去りたい。というか、去ろ。マジでサロンパス。

「邪魔して悪かった。んじゃ––––––」

踵を返して立ち去ろうとした瞬間、俺の腕が掴まる。

握られた感触は柔らかくて頼り甲斐が無い、いかにも女性の手って感じがした。

「昨日は、無責任な事言ってごめんさなさい……」

急な謝罪。昨日という事は、俺が声を荒げた内容に対して言っているのだろう。

「あの後、私は何が原因でシノン君を怒らせてしまったのか、ずっと考えてた。……そして、噂話を耳にして、ようやく理解した」

「…………」

「虐めに、合っているのね……?」

「ッ!」

「……気付かなくて、ごめんなさい」

「……なんで、お前が謝るんだよ」

「だってっ––––––」

「謝るのは俺の方だ。俺はてっきり、その事を知っているものだと思ってた。でも、本当に知らなかったんだな。––––––ごめん!」

深々と頭を下げる俺に対し、アリサはおどおどしてしまう。

アリサが謝る事など微塵も無いし、罪悪感も持つ必要など無い。

俺が勝手にそう思っていただけで、勝手に苛立っていただけの事。

そんな自分に、やはり苛立ちを覚えてしまう。

「……ねぇ。その話、良かったら聞かせて貰えないかしら?」

殆どの人が知っているくらいだ。今更話した所で、どうってことない。

「ああ。別にかまわない。けど、面白い話では無いからな」

念を押してから昼食時間が許されるまでの間、俺は虐めに遭った経緯や人物を出来るだけ詳しく話す事にした。



     ★



「何よ、それ。一方的な虐めじゃない!」

俺の話が終えると、怒りを顕にするアリサ。

「酷すぎるよ……っ!」

「別に、もう良いんだ。慣れた事だし」

「ちっとも良くなあああああい!!」

今度はアリサが声を荒げる。

「……やっぱり、来て良かったよ」

「……!」

アリサの瞳が僅かに潤う。

そんな顔を見せたくまいと、俺の体を抱き寄せた。

「え!? ちょッ!?」

ふわりと、フローラルな香りが漂う。

「……今まで、気付いてあげられなくて、ごめんねっ……!」

アリサの体温が、俺の体にじんわりと伝わる。初めて女の子に抱きつかれ、頭の中は真っ白状態であるのにも関わらず、ただ柔らかい感触だけが俺の思考を満たす。

そして後から、アリサの体が小刻みに震えているのが分かった。

何故震えているのかは、嗚咽と鼻水を啜る音から察する事が出来た。

そして、一つの疑問が生まれた。

「なんで、お前が謝る必要があるんだ?」

アリサが謝るような事は何一つしていない。

俺が虐められている事実に気付かなかった事に謝っているのだろうが、それは謝る理由にはならない。

一番たちが悪いのは、『気付いているのに気付かないフリ』をする事だ。

でも、俺はそいつらを悪く思うような事はしない。

そうしているのは、虐めの標的が自分に向けられるのを避けようとする為だと、俺は理解しているからだ。

誰だって、虐めに遭いたくなどない。俺だってそうだ。

もし逆の立場だったら、俺はその人を助けるのだろうか。多分、答えはノーだ。

「だって……だって……っ」

俺は初めて、アリサという人物を理解した気がする。

アリサはただの優等生なんかではない。

傷付いている人を見過ごすわけにはいかない程の……。


––––––真っ直ぐな、善人だった。



     ★



初めてアリサに抱かれた日から翌日。

俺の学校生活には小さな変化が訪れた。

「あ、シノン君! やっほ〜」

「おう〜っす」

昼食の時間は、アリサと共にする事になったのだ。

昼食時間だけの極小さな変化だけど、今まで孤独だった俺にとっては大きな変化であった。

「あ! またコンビニだねー。シノン君はそのコンビ好きだね〜」

俺は決まってサンドイッチとカフェラテを昼食にしている。

「ああ。このコンビは最高なんだ」

「でも分かるな〜。二つ揃ってお互いの良さが引き出せる感じだよね」

「そう! そうなんだよ! どっちか欠けてはならないんだ。二つで一つみたいな」

「ふふ。なんか変なの」

「な!」

サンドイッチとカフェラテで何を熱く語っているんだ俺は。

でも、不思議な感じだ。気分が良い。

今まで、こうして誰かと話した事なんて無かったからだろうな。

いつも孤独な毎日に絶望して、何一つ期待などしていなかった俺にアリサは突然と現れた。

初めは主犯の指示の元で動いているのかと疑ったが、アリサが来るときはいつも一人で、学校生活中も危害を加えてくる事は無かった。

「あ、チャイムが鳴っちゃったね。今日も話せて良かったよ。じゃあ、また明日ね!」

「ああ。また明日な!」

互いに手を振り合い、その場で解散となった俺達。

時間差で教室に戻ろうとするのは、俺とアリサの関係が疑われるのを防ぐ為だ。

それはお互いの同意の上で行っている。

アリサも俺に近づく際は、尽くす限り周りに気遣ってくれているようだ。

あくまでもオブラートに包んで、誘いの手から上手く躱すように。

アリサはみんなからの人気者である為、そんな人が俺なんかと二人きりでいたら、さぞ怪しまれるに違いない。バレたりしたら学年中でも大騒ぎだ。

俺に対しての虐めもヒートアップするだろうし、何より俺はアリサの信頼が揺らいでしまうのを一番恐れている。

俺に寄り添ってくれるのはとてもありがたい。だがそれは、アリサが『いつも通り』に過ごせる事が最低条件だと思っている。

俺は落ちる所まで落ちた人間。そこにアリサまで道連れにするわけにはいかない。

––––––絶対に。



     ★



アリサとの出会いから一ヶ月が経とうとする頃、俺の学校生活は更に変化が訪れた。

何故か、虐めの頻度が減ったような気がするのだ。

いや、気のせいなんかではない。今まで毎日虐めに遭っていたから分かる。

……なんだ? 一体、何が起こっている? 胸のざわつきが収まらない。

本来なら喜ばしい事なのに、嫌な予感がして堪らないのだ。

そんな落ち着かない休み時間の中、教室の中で一人そんな事を考えていると近くのグループから聞き捨てならない話を耳にしてしまう。

「なぁ、聞いたかよ。アリサが虐めに遭っているって話」

「ああ。あれだろ? なんでも虐めの止めに入ったって」


アリサが……虐めを……?


「そうなんだよ。しかも、よりによって『あいつ』を庇うなんてな……」

『あいつ』という言葉を口にした時、声と視線が俺の方に向けられた感じがした。


アリサが……庇った……? ……俺を?


「なんか、最初に比べたら周りにいた人も離れて行ったよな」

「ってか、ここ最近一人じゃねぇか?」

「あー、確かに」

「まさか人気者だったあいつが、あそこまで落ちぶれるなんてな」

「だな! てか、流石に正義感ぶっているっていうか、自惚れているっていうかさ〜」

心の底から込み上がってくる怒りによって、俺の拳は小刻みに震えている。

その怒りを何とか抑え込もうと、手の甲を強く抓って怒りを分散させようとするが、一向に引き下がってくれない。


今は三時限目の休み時間。

だから俺は昼食時間までの間、ひたすら罪悪感に苛まれ、耐えるしかなかった。


––––––初めて、虐められている方がマシだと思った。



     ★



「一体、どういう事なんだ?」

いつも通り、昼食の時間に屋上に向かうと、既にアリサは来ていた。

風呂敷に包まれた弁当箱を手に持ったまま、ゆっくりと俺の方へと振り返る。

「……待ってたよ。シノン君」

「……ああ。俺もこの時間が来るのを待っていた」

たった一時限だけの間なのに、体感時間がとても長く感じていた。

聞きたくて、聞きてくて。授業中でも飛び出して、アリサを迎えに行きたかったぐらいだ。

「とりあえず、食べようか……」

「そうだね……」

いつもなら楽しみにしていたこの時間が、今日だけは窮屈に感じた。

お互い、相手から何かを察しているのだろう。

それが胸を苦しめる事に繋がっていて、気分が上がらないでいる。

空腹である筈の時間なのに、食欲が消え失せ欠けている。

それでもお互いに気を遣い、今まで通りに接しよと演技しようとしている。


そんな事をしなくても、相手はとっくに気付いているというのに……。


「今日も、良い天気だな」

「うん。そうだね」

「今思えば、二人で食事している時に雨なんて降ってなかったな」

「確かに。偶然って凄いね」

俺達は晴天を見上げて呟く。

「そういえば、シノン君って雨降った時は何処で食べるの?」

「……昇降口とか、かな?」

「じゃ、私もそこに行くね」

「いや、それはまずいだろ。普通に他の人に見られるぞ?」

一人で静かに食べていれば別だが、二人で会話しながらだと通りすがりの学生に目撃されてしまう。

そんな高リスクを取ってまで俺と一緒に食事するのは違うと思った。

俺とアリサの関係は、あくまでもバレない事が前提なのだから。

「シノン君は、私といるの……嫌?」

「そんなわけないだろ!」

思わぬ問いかけに、つい声を荒げてしまった。

アリサとの時間が、嫌な訳が無い。

これまで孤独に過ごしてきた学校生活に、絶望していた学校生活に、未来に光を感じず暗闇の世界に閉じこもっていた俺に、一筋の光を灯してくれたのは他の誰でもない。


––––––アリサだけだったのだから。


「俺にとってアリサとの時間は……救いなんだ」

「……」

「いつも独りで、毎日辛い目に遭って……。こんな学校に通い続ける事に、意味があるのかって……いつもそう思っていた」

何故か、心の奥底に溜まっていた思いを口にしていた。

「俺は変な所でプライドが高いから、親には相談しなかったし、先生にも言わなかった。……いや、言えなかったというのが正しいんだろうな」

暴露して問題になった場合、虐めの主犯達がそれに激怒を感じ、更なる酷い虐めをしてくると感じていた。今度は隠蔽しながら。

だがそれよりも、他人に心配を掛けたくないという気持ちが強かった。

虐められる側にも問題があるという言葉を聞いた事があって、もしかしたら俺が虐められているのは俺自身に問題があったのではないかと、そう思い込むようになってしまった。

現在進行形での虐めの原因は、俺が男として情けなくて、他人と違っていたから。

それなら、俺が男らしく立派になれるよう努力して、他人に合わせられる存在になれば解決出来たのではないかと、そういった風に自責の念が込み上がるようになってしまった。

他にも俺自身が気付いていないだけで、虐めの要因は他にあったのかもしれない。

でも、それを教えてくれる人はいない。

今更、土下座をしてまでも教えてもらおうとも思わない。

だったら、話は早い。


––––––独りになってしまえばいい、


独りになれば、全ての矛先が俺だけに向けられる。

誰も連まなくていい。連んだら、その人に矛先が向けられるかもしれないから。

卒業まで、そんな生活を覚悟していたのに……。


なのに……。


なのに……っ。


なんでっ……。


「うっ……うぅ……っ」


––––––お前は、俺の前に現れてしまったんだ。


アリサは手に持っていた箸を地面に落として、泣き顔を隠すように手で覆ってしまう。


––––––何故、アリサが泣いているんだ。


「ごめんっ……ごめん……っ」


––––––何故、アリサが謝るんだ。


「わたしっ……独りが……怖くて……っ」


––––––何故、アリサが傷ついているんだ。


あぁ。そうか。


俺が……。


俺が……アリサを…………。


弁当の中身には一口しか手が付けられておらず、最初に比べてかなり少ない量が盛り付けされている。

今までは、ぎっしりと詰められていたのに。

アリサの食欲が無い原因は、最近の日々がそこに現れていたのだ。

今までそんな事を知らずに、自己満足の為にアリサに近づいてしまった俺は……俺には……そんな権利など、あるのだろうか。


昼食の時間、俺達はそれから食事をする事なく……ただ。


ただ、アリサはずっと泣き続け……。


ただ、俺は傍観としていた。



     ★



あれから数ヶ月、俺は屋上に行く事は無かった。

アリサから距離を取る事が、互いに必要だと思ったから。

第二候補であった昇降口での食事も改め、俺は一番無いと思った教室で食事をしていた。

これには理由がある。


『俺とアリサは無関係である事を見せしめる為』だ。


アリサは初めの印象とは大きく変わってしまった。

大勢いた周りの人間を失い、毎日の苦痛でやつれ、明るさが持ち前であった輝きも今は失ってしまっている。


噂によると、やはりアリサは俺の虐めを止めるよう主犯に説得したそうだ。

誰一人味方に付けず、たった一人で。

いや、味方になってくれる人がいなかったというのが正しいであろう。

それでもアリサは、俺の為に戦ってくれたのだ。


だが、結果は失敗。

その反動により、むしろ今度はアリサまでもが虐めの標的になってしまったのだ。

その頻度は、明らかにアリサの方が多かった。

きっと、『あのアリサ』が虐めの標的になった事で、陰で妬んでいた者や思いもやらぬ逸材に面白半分で虐めに参加した者もいたのだとか。

俺の被害は可愛いらしいレベルまで下がり、その分アリサが大きな被害を受ける事になってしまった。


––––––アリサが犠牲になった分、俺が救われてしまったのである。


ハッキリ言って、最悪なパターンだ。

俺が最も恐れていた展開が、現実になってしまった。

こうなってしまっては、もう取り返しがつかない。


と思っていた。


どうやら耳に入った情報だと、アリサが虐めに遭っている根本の原因は『俺と連んでいる』事にあるらしい。

最悪な事に、俺とアリサが屋上で昼食を共にしている所を目撃されてしまっていたらしい。

その事も、アリサは見られているなら仕方無いとばかりに正直に話した。

コソコソと行っていたそれが気に食わないばかりに、アリサは標的になってしまった。

アリサは人気者だから、虐められている俺なんかと一緒に居たという羨ましい事実も関係しているのだろうな。

なんせ、二人きりの時間だったのだから。

でも、それなら解決方法は簡単だ。


––––––俺とアリサが絡まなければ良い。


周りに俺とアリサはもう絡んでませんよと、見せつける。

そうすれば後は時間が解決してくれる筈だ。

アリサは元々人気者だった人だから、きっと信頼も取り戻せる。

俺とは違う。


それでアリサが救われるなら、お安い御用だ。


そう心に決め、一人で帰っている時だった。


「待って!」

後ろから発せられた聞き覚えのる声に、思わず足が止まってしまう。

「……アリサ」

息がかなり乱れている事から、ここまで走ってきたのだろう。

俺達がいる場は住宅街であり、他の学生の姿を見る事は無い。

これまで関係を断ち切ってきたから話す事は無いと思っていたが、まさか帰り道で話し掛けられるとは。

だが今なら、絶好の機会とも言える。

「何か、用か?」

「用は、別に無いわ」

「……」

「ただ、一緒に……」

「……」

「…………久々に、一緒に話そ?」

互いの帰り道は一緒なのかは知らないが、途中まで一緒に帰ろうとも捕らえられた。

俺は判断に迷ってしまった挙句、断ってしまう。

「いや、遠慮しとく。俺とは一緒にいない方がいい……」

「……」

「俺といたら……また」

すると、俺の手がギュッと握られた。

「お、おいっ!」

強引に引っ張られる手。華奢な手によって握られた手に温もりを感じた俺は、アリサと出会った時の事を思い出してしまう。

「…………」

あの時の幸せな時間を、もう一度共有したい。そんな欲に、俺はまた浸りたいと思ってしまう。

半々の気持ちを抱えながら俺が黙り込んでいると、久々に元気いっぱいの声が掛けられる。

「さぁ! 行こう! シノン!」

俺の答えなど聞かず、アリサはただ嬉しそうに隣で歩く。

そして、いつの間にか呼び捨てになっていた事には敢えて触れないでいた。



     ★



「ねぇ、シノンってどういう女性がタイプ?」

「うるさい」

「ねぇ〜、教えてよ〜」

「俺に構うな」

「むぅ。じゃあ、趣味とかなら答えてくれる?」

「断る」

「んもぉ。……じゃあ、なんだったら答えてくれるのさ〜」

「何も答える気は無い」

「うわー、秘密主義〜」

「別に良いだろ。ってか、いい加減俺を詮索するような質問はやめろ」

「じゃあ、今度はシノンが私に何でも聞いて良いよ?」

「……何でも?」

「うん。何でも。……あっ、エッチな事はダメだからね?」

「聞かんわ!!」

「え〜ほんとう〜?」

「〜〜〜っ!」

「あははっ! 顔赤い! 顔赤くなってるよシノン!」

「っ! なってない!」

「はあ〜……お腹痛い。さて、冗談はこの辺にして。何か質問あればどうぞ?」

「………………」

「……特に無い感じかな?」

「いや、ある……」

「んじゃあ、それ聞いてよ」

「………………どうして」

「ん?」

「……どうして、俺に構う?」

「…………」

「俺と一緒にいても、何も良い事なんてないぞ」

「…………」

「知ってるだろ? 俺は学校中で嫌われていて……虐めにも合っている。俺なんかと一緒にいたら…………」

「私の心配をしてくれているの? 優しいんだね。シノンは」

「そ、そんなんじゃっ……」

「でも、心配しなくても大丈夫だよ。私が、シノンと一緒にいたいだけだもの」

「……どうして?」

「どうしてって……。シノンはそういう所はポンコツだよね〜」

「……」


「一緒にいたいからだよ」


「!」

「シノンだって、『どうしてそれが好きなの?』って聞かれたら上手く答えられないでしょ?」

「まぁ、そうだな」

「私が一緒にいたい理由は、そんな感じなんだよ」

「…………」

「理由なんて必ずしも必要ではない。ただ、そうしたいからそうしているんだよ」

「…………」

「分かった? えい!」

「イタっ……。急に背中を叩くな」

「えへへ。可弱いからそんなに痛くはなかったでしょ?」

「いや、十分痛かったわ。この怪力女め」

「あっ! 女の子にそういう事言っちゃいけないよ? てか誰が怪力女だ!」

「イッッッタイってマジで! ごめん俺が悪かった俺が悪かったから叩かない

で!」

「素直でよろし!」

「怪力女も素直で言ったつもりなんだけど」

「何か言ったかしら?」

「いえ何も言ってません」

「そう。それなら良いんだけど」

「……あのさ」

「今度は何かな?」

「もしっ……。……いや。無理は、しないでくれよな」

「…………うん。それも、大丈夫だよ。––––––ありがとう」


振り返って向けられた微笑みは夕陽を背景に、とても絵になっていて美しかった。

今までこうして一緒に帰る事などなかったのだから、見れなくて当然だ。

だから、心から思う。


––––––今日、一緒に帰れて良かったな、と。


「……じゃあ。私は、こっちだから」

「そうか。じゃあ、ここでお別れだな」

「……うん。そうだね……」

アリサは名残惜しいように目を伏せてしまう。

「ねぇ、これだけは教えて」

真剣な眼差しが向けられ、俺はギョッとしてしまう。

「ど、どうした? 急に……」

「……シノンは…………好きな人とか、いないの?」

「え」

「……」

「……す、好きな人か……」

「うん」

「…………そうだな」

好きな人自体はいる。

俺がいつも読んでる本の作者とか、イラストレーターだったりとか、沢山いる。

でも、アリサはそういう事を聞いているんじゃない事ぐらい分かっていた。

でなければ、あんなに恥ずかしそうな仕草は見せないだろう。

そんな姿を見てしまった俺までも恥ずかしい気持ちにさせられる。


––––––だから俺は、嘘をついてしまった。


「いないよ」

「––––––っ」

目を逸らした返答。

何故か、アリサと目を合わせられなくて、そっぽを向いてしまう。

顔が徐々に熱くなってくる感覚に襲われて、その温度を誤魔化そうと少しだけ落ち着かない素振りを見せてしまう。

俺の返答を聞いたアリサは呆気を取られていて、暫くすると薄く微笑んだ。

「……そっか」

これ以上聞く事なく、アリサは意味も無く夕陽を見つめる。

すると、信号が青に変わった事を知らせる音が鳴り始める。

「じゃ、行くね! ごめんね。変な事聞いちゃって」

「いや、別にそんな事は」

「シノン!」

「!」

「……またね!」

夕陽を背景に満面の笑顔を向けてきたアリサに思わず見惚れてしまう。

その一瞬を写真に撮って、思い出のアルバムとして残したい程だ。

「ああ。またな!」

俺もつられて、自分なりに精一杯の笑顔を作り、アリサに返事を返す。

歩道の青信号もチカチカと点滅し始めて、アリサも慌てて走り出す。

俺を置いて、アリサが離れて行く姿に寂しさを感じてしまうのは不思議に思った。

俺はアリサが一人で帰る後ろ姿を見届け、角に曲がって姿を見えなくなった後、自分の帰る方向の歩道に進もうと踵を返す。

いつの間にか、歩道の信号は赤信号に変わっていた。



     ★



ここ一週間、ある異変に気が付いた。

それは『アリサが学校に来ていない』のだという。

もちろん誰かに直接聞いた訳ではなく、小耳に挟んだ情報だ。

普段なら他人の話に興味を持つ事などなかった俺だが、アリサの話題となると自然に耳に残ってしまう。

アリサとは別のクラスである俺は、アリサが学校に来ているかの情報を得るには殆ど方法は無い。

唯一の方法としては、昼食を共にしていた時は約束をしているかのように屋上で会うので、アリサが学校に来ているかどうかの判断は基本そこで知る事になっていた。

だが今は自らその場を無くしてしまった為、アリサが学校に来ているかどうかの情報は知る必要性が無くなってしまっていた。

ただ、休み時間とかでは廊下を歩いている姿を学校がある日は毎日見かけるので、アリサ自身が学校を連続で休むという事には違和感を隠しきれない。

何か重い病気に掛かってしまったのだろうか。それとも––––––。

……まさか、不登校……?

そんな心落ち着かない感情に襲われていると、胃がキュッと締め付けられるような感覚を覚える。

そして担任が教室に入ってきた。

ざわついていた教室も一気に静かになり、全員が自分の席に座り始める。

俺は更に違和感を覚える。

いつもなら教室に入ってくる際、挨拶も一緒にするはずの担任がそれをせず、顔も何処か浮かない表情をしているのである。

口を緩めたり硬く結んだりしていて、何かを言うべきか言わないべきかを迷っている様子だ。

もしくは、言う覚悟が出来ていないとも捉えられる。

「……みんなに、悲しいお知らせがある」

目を伏せたまま告げるそれは、明らかに重大な何かが起こったである事を読み取れてしまう。

「みんなと同じ学年である一組の『アリサ』さんが……」

俺は挙げられた名前を聞いて、心臓が掴まれたような感覚がした。



「––––––自殺したそうだ」



     ★



「は?」

気付けば俺は、声が漏れていた。

「昨夜、両親から電話が入ってきて……そういう事だそうだ」

教室内はざわめく。

そのざわめきは、今の俺には鬱陶しいように感じる。

「警察にも既に連絡はしてあるそうだ。原因はまだ判明していない。そしてこれは学校の問題でもある為、俺達教員含む、生徒も全員事情聴取をする事に決定した」

アリサの自殺の原因に対して何か有力な情報を知っている者がいるかもしれないから。

「事情聴取とは言っても、警察が一人一人聞き込みをする訳では無い。今から配る紙に名前は無記入でいいから、少しでも何か知っている事があれば書くだけの事だ。ここでは書きづらい人も、場所と時間を見計って明日の朝までに提出してくれれば構わないから、そのつもりで」

「……アリサが……自殺……?」

俺がぶつぶつ言っていると、後ろの席の人が俺の椅子を蹴ってきた。

「おい、早く回せよ」

気付けば、事情聴取用の紙が俺の机の上に置かれていた。

どうやら前の席の学生が既に配っていたようだ。

「ご、ごめん」

俺は急いで後ろの人に紙を渡す。

「ったく。待たせんじゃねぇよ」

俺の後ろの席は、俺を虐めている主犯の生徒。

アリサが自殺した原因はこいつが関わっているじゃないかと直ぐに思った。

何故ならアリサは虐められていたから。

アリサに対しての虐めの主犯はこいつとは限らない。

けど、俺の学年で虐めをするような中心人物はこいつを置いて他にはいない。

アリサは俺から虐めを守ろうとして立ち向かった挙句、虐めの矛先がアリサに向けられてしまった。

それはつまり、こいつが主犯である事に変わりは無い。

だが結局これは俺の勝手な憶測でしか無くて、決定的な証拠にはならない。

俺一人が言った所で、数の暴力によって打ち消されてしまう事だろう。

それに、俺を庇って自殺したと考えると、俺にも問題があったとも捉えられる。

それは結局、俺も自殺に追い込んでしまった要因の一つに繋がっている事になる。


だからか、ボールペンを握っている手が震えていて、紙に書くのを躊躇ってしまっている。

アリサの自殺に関わっている些細な情報を一分一秒と早く提供するべきだ。

それは分かっている筈だ……っ。

なのに、何故こんなに怯えているんだ……っ!?


––––––。


時間が解決してくれるかと思ったが、そんな事は無かった。


––––––結局俺は、何一つ情報提供する事は無かったのだ。



     ★



結局、アリサの自殺に関しての情報が集まる事は一つも無かった。


未だに信じられない、辛くて悲しい現実。

アリサはもう、帰らぬ人になってしまった。

もう、あの幸せを味わう事は叶わなくなってしまった。

毎日屋上に行こうとも、いつもの帰り道で帰ろうとも。

どんなに強く願おうとも、希望を失わないようにしようとも、最後まで信じていようとも。


––––––アリサはもう、戻って来ないのだ。


原因は分かっている。

虐めの主犯と……俺だ。

あいつが人を虐めるような悪でなければ、俺が虐められるような弱者でなければ。

アリサはきっと……。



––––––だから俺は心に誓った。

アリサみたいに、『一人でも手を差し伸べられる人』になろうと。

相手が自分より強い存在だろうと、数の暴力に屈服させられようとも。


俺もアリサみたいに、誰かを救える存在になろうと決めたんだ。



––––––アリサみたいに、犠牲になったとしても。

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