第五話 お嬢様と打ち明け
エリーナ先生のちょっとした手伝いを終えた俺達は、寄り道する事なく家(お嬢様の城)に到着した。
今日の入学式は色々と想定外な事態が起きた為か、俺は身も心も疲れていた。
……あれ? これって鬱症状じゃない? ウソォ!? 目の色ハイライトになってないかしら!
多分、なっていない。疲れているとはいえ、一晩ぐっすり寝れば明日にはケロッと何もなかったかのようにHPが全回復していると思う。多分。
もし全回復しない日々が続いていたら、それはバグでない限り本当に鬱である可能性が高い為、要注意だ。
寝ている間も仕事や辛い出来事を思い返してしまって脳が覚醒し、休息が取れていない証拠だからだ。
よく生きる為に仕事している人が、仕事に潰されて亡くなってしまうというニュースを耳にするが、それでは本末転倒ではないかと思う。
何故、もっと自分を大切にしないのか。
いつも、その疑問が浮かび上がる。
誰かの犠牲で成り立つ構造など、それは成り立っていないのと同じだ。
誰かが犠牲になって潰れて、消え去ったとしても、また新たな犠牲者が生まれる。
ふざけた成り立ちだ。
それが全国多数存在していると考えると、腹の底から怒りに似た呆れ溜息を溢してしまう。
そんなのは全部崩れて、跡形も無く消え去って欲しいと心から願うばかりだ。
だがそんな犠牲にも、俺は、俺だけが納得している事が一つだけある。
『自分の犠牲で、誰かを救える』という事だ。
これは社畜ブラックのような無意味の犠牲ではなく、本当の意味で誰かの救いに繋がる必要不可欠な犠牲の事を指す。
今回でいえば、お嬢様の自己紹介の時に俺が椅子から『わざと』倒れた事がそうだ。
もしあのまま続いていたら、お嬢様は恥をかく事になっていた。
あの時のお嬢様は一番前の席でありながら緊張して周りが見えていなかったかもしれないが、俺はちゃんと気付いていた。
周囲の目は、場の雰囲気は、恥を掻きそうな一人の姿を見て『面白がろう』としていた事を。
それは自分達を安心させる為の手段だったのかもしれない。
誰か一人が恥を掻いて笑われるような事が起きれば、全員の印象はその人に強く働きかける事が出来、その人に気を集中させる事が出来るからだ。
重要なのは、これはあくまでも意識の問題という事。
いずれ自分の自己紹介の順番が回って来るのだから、その矛先は自分に向けられる可能性だって十分にあるだろう。
だからこそ、そういう笑い者は『早めに炙り出したい』のだ。
一人目が恥を掻くのと、二人目が恥を掻くのでは印象が変わってくる。
誰も失敗をせずに自分の番が回ってくるというのは謎のプレッシャーが容赦無く降りかかり、失敗するわけにはいかないと更に自分で自分にプレッシャーをかけ始めてしまう。
それに対し、どうしてもトップバッターというのは必要以上に注目を浴びせられ、必要以上にプレッシャーを感じ、必要以上に良く見せようとしてしまう。
それが返って裏返り、大失敗してしまうなんてケースは良くある話だ。
だからこそ、一人目であるお嬢様を恥の落とし穴に誘い出し、突き落とそうとした。
お嬢様はメンタルが弱かったというのもあり、誰が仕掛けたのかも分からない落とし穴にハメやすかったのも事実だった。
人というのは残酷な事に、己が救われるのなら他人を平気で突き落とす事が出来てしまう生き物なのだ。
別にそれを間違いだとは思わない。
誰だって、自分の事を優先にしたがるのは当然だ。
俺もその考えの一人だった。
でも、今は違う。
自分にとって救いたい、救ってやりたいと心から思えるような人に対してだけは、俺は喜んで犠牲になってみせよう。
––––––それが、己の命を絶つ事になろうとも。
★
「さて、ここからは執事として振る舞わないとな」
俺は凝り固まっていた体の全身をほぐすようにグッ〜っと伸びをする。
学校の間はお嬢様と執事の関係を隠す為に学生として振る舞う約束になっていたが、こちらに戻ってきたら普段通りお嬢様と執事としての関係に戻す事になる。
俺は学校の制服から執事服に着替え、仕事モードに切り替える。
本日やる事があるとすれば、お嬢様の昼食と夕食の準備と部屋の掃除程度だ。
しかも有難い事に、どちらとも俺が殆ど手を施す事はない。
食事作りは専任のコックがいるし、掃除もメイドさんがやってくれている。
俺のすべき事はメニュー通りの料理が作られているか、異物混入がないか、汚れ残しがないか等のチェック程度だ。
何か大きなミスが起きない限りは俺の出る幕は無い。
よし! これならスマホゲームに時間を割く事が出来るぜ!(ガッツポーズ)
俺はそんな歓喜の期待を胸にいっぱい膨らませながらお嬢様の部屋に向かう。
そろそろ昼食の時間が近づいてきている為、前もって連絡をしておく為だ。
アホのお嬢様の事なので、『え!? もうそんな時間!? やっば〜!』とか言い出してドタバタされても困る。
俺はお嬢様の部屋をゆっくりと開けながら、『入りますよ〜』と気の抜けた感じで呼び掛けをし、足を踏み入れる。
中を覗くと、窓の外をぼんやりと眺めているお嬢様がそこにいた。
セーラー服のままでいる事から、どうやら着替えは済んでいないようだ。
「お嬢様、そろそろ昼食の時間ですのでご準備の方を––––––」
「わあっ!」
俺が声を発するとお嬢様はビクッと体を震わせ振り向く。
俺の方に向けてきた訝しんでいる顔から『ノックぐらいしなさいよ、バカ!』と言いたそうだ。
「……ノックぐらいしなさいよ、バカ!」
よしっ! 当たった! と内心ガッツポーズをしていると、お嬢様は続ける。
「で、何の用かしら?」
どうやら先程の俺の声は聞こえてなかったらしい。
「いえ、ですから、もうすぐ昼食のお時間ですので……」
「え!? もうそんな時間!? やっば〜!」
よしっ! 当たった! もうお嬢様検定三級は余裕かな!
お嬢様は壁に掛けられている時計に目をやると慌ただしく動き回る。
身振りも目線もあちこちとおどおどしていて、思考が定まっていないように感じられる。
俺は落ち着かせようと、一旦お嬢様に声を掛ける。
「落ち着いてください。とりあえず、先ずは着替えましょう」
「そ、そうね……!」
少し落ち着きを取り戻すと、お嬢様は言われた通り躊躇する事なく着替えをし始める。
そして気付けば既に白のブラウスを脱ぎ終えていて、控えめな花柄の刺繍が施されている水色のブラジャーが無防備に曝け出されてしまっている。
「……お、お嬢様っ……」
「……あ……あぁぁ……っ!」
俺は少しだけ凝視してしまったものの、直ぐに視線を外す。
透き通るような艶肌ペチャパイを見られてしまったお嬢様は顔を真っ赤にし、あまりの恥ずかしさにプルプルと震えている。
ヤバイ!! この展開はアニメで見た事あるぞ! パシンとされるやつだパシンと!
「きゃああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」
パシン––––––。
頬を思いっきり叩かれた俺はその勢いに負かされ、うつ伏せに倒れてしまう。
着地が悪く、鼻が床にぶつかった衝撃で鼻血がタラ〜リと流れ落ちてきた。
ヒリヒリジンジンとした痛みが俺を襲う。
だが不思議と、そこまで痛くは感じない。
……あ、なるほど。そういう事か。聞いた事があるぞ。
交通事故で骨が折れたにもかかわらず、その時に痛みは然程感じず、場が済んだ後に遅れて急に痛みが襲い掛かってくるという現象を。
あれは思わぬ出来事に全身が過剰に興奮しているから痛みを感じづらいのだそうだ。
という事は、俺もそれに当てはまっているに違いない。
……そうか。俺はお嬢様で興奮してしまったか。
「……みっ、見たでしょ……?」
おいおい、この二択は……。どうせ素直に見たと言えば『ホント最低!』とか言い出して、見てないと言っても『ウソ! 絶対見た! ホント最低!』とか言い出すんだろ? ホント最低!
だから俺は素直で良い子で正直者で心が綺麗で真っ直ぐで純粋な思春期男子なので本心からの感想を告げる事にしました☆
「ふーん、エッチじゃん」
「ホント最低!」
近くに置いてあるクッションを俺の方へと投げつけてくるお嬢様。
綿がメインのクッションである為、全く痛いとは感じない。
ボフンッと柔らかい弾力で弾き返されるだけ。
そんな攻撃力0の攻撃をぶつけてくる辺り、『ふーん、可愛いじゃん』と感じてしまう。
……あ、痛みが襲い掛かってきました!
★
昼食を終えたお嬢様を見送った後、俺はお済みの食器を洗面台まで運んで行く。
今日は前回と違い、ワイルドに口の中に頬張る姿ではなく、何処か忙しない感じで落ち着きがないような感じであった。
暑いのか顔全体も赤く染まっていたし、ソワソワしながらも自分の胸元に視線を向けていた。
あ、察し。
先程の胸(ブラジャー付き)を見られた事を引きずっているのだろう。
無言のまま食事をしていたお嬢様を横から見てそう感じた。
「……俺は何も悪くないよな?」
着替えろと誘導したのは俺かもしれないが、まさか俺の目の前で脱ぎ出すとは思わなかった。
思春期男子という事もあり、思わず凝視してしまったが、それでもこの件に関してはお嬢様に問題があると思います!
いくらアホで天然で頭のネジが何十本と抜けているお嬢様でも、男の前で脱いだお嬢様が悪い! ですよね!? 弁護士さん!! お巡りさん!!(必死)
そんな葛藤をしながらも俺は城の汚れがないのか巡回した後、自分の部屋に戻る。
自分の部屋といっても、執事として雇われたから寮みたいな感覚で与えられただけ部屋だ。
部屋の中は机や椅子のセットに一人用ベッド。50インチのテレビに中型冷蔵庫といった生活をするのに十分な物は備え付けられている。
お嬢様の世話をするのに毎回自分家から行き来していたら時間や距離的に大変なのは目に見えていたから。
俺はベッドに横たわった後、仰向けになり天井をボーッと見つめる。
「……一応、謝っとくか?」
俺は少しだけ体がぐったりとしたのを感じると、その後ベッドの心地良さに眠気が襲い掛かってきて、そのまま睡魔にされるがまま眠りについた。
★
目が覚めた時は、十八時を回っていた。
「え!? もうそんな時間!? やっば〜!」
時計の針を確認した後、ガバッと勢いよく体を起こす。
何故こんなに焦っているのかというとお嬢様の夕食の準備があるからだ。
俺がやる事は殆ど無いとはいえ、自分の仕事を放置するのは気が引ける。
というよりかは、既に夕食の時間は始まってしまっている。
もうどんなに急ごうとも無理だ。
それでも俺はお嬢様が夕食をしているだろう食事部屋へと慌てて走って向かう。
「お嬢様ッ!」
扉を勢いよく開くと同時に声を発する。
「……いない?」
俺はその事実を確認した後、今度はお嬢様の部屋へと再び走って向かって行く。
階段を上り、お嬢様の部屋に着いた俺は扉を勢いよく開ける。
部屋の中にはその大きな音に驚き、ポカーンとアホ面をしているお嬢様がいた。
「……ど、どうしたの? そんなに慌てて……」
心配そうな目で見つめてくるお嬢様に対して俺は頭を深々と下げて謝罪する。
「申し訳ございません。ご夕食のお時間だというのに呼び掛けが遅くなってしまいました」
少しだけ、間が空く。
その間は何を意味しているのだろうか。
怒りか。呆れか。その両方か。
「ぷっ」
そのどちらでもないかのようにお嬢様は可笑しそうにけらけらと笑い出す。
何が面白かったのか。
そんな疑問を解消すべく、俺は顔を上げお嬢様の顔を伺った。
「……あの、お嬢様?」
「いえ、シノンって真面目だなぁと思って」
「……? それの何が面白いのですか?」
「だって、初めはあんなに不真面目だったのに、そういう所は真面目なんだもん」
初めというのは、ノックをしなさいと言われ嫌ですと断った事やお嬢様の食事中にスマホゲームをしていたという部分であろう。
確かに初対面でそんな事をされたら不真面目と思われても仕方が無いと思う。
今までお嬢様に付いていた執事はそういう事は一切しなかったのだろう。
「だからあんたって、なんか一緒にいて新鮮だわ」
柔和な笑みを向けられ、俺は少しだけ身を沿ってしまう。
それ。その素敵な笑顔やめろ。無自覚で無意識で無知で発動するのだからタチが悪い。
俺はその気恥ずかしさを誤魔化すように声を発した。
「……そ、それよりも、夕食のご用意が出来ていると思いますので向かいましょう」
「その事なら心配はいらないわ」
「え」
「料理長に夕食は後で食べると伝えてあるから。保温庫にしまっておくから好きな時に食べてだって」
「後でって……。この後、何か用事ありましたっけ?」
一日のスケジュールは把握している。
その中に夕食を後にしてまで何かする事があると聞かれると、ない。
個人的な用事だろうか。
「つまようじ」
「は?」
思わず、間抜けな声を発してしまった。
え、なに、今の? もしかして親父ギャグ? 嘘だろ、お嬢様……。アホを極めた先に、遂にはおっさんになっちまったのかよぉ……。まだJKだろ。諦めんなよ!
そんな事を内心嘆いていると、お嬢様は頬をほんのりと朱に染めながら聞いてきた。
「どう? 面白かった?」
イキイキとした雰囲気で感想を尋ねてくるので俺は困惑してしまう。
面白かったとかといえば……全然面白くない。こんな芸を公の場で披露したら白ける事は間違いない! 俺が保証する!
でも何が一番困るかって、お嬢様のその闇一つない透き通ったキラキラとした瞳を俺の感想によって汚す事なんだよなぁ。
守りたい、その瞳。
だから俺は面白いともつまらないとも読み取れる言葉を送る事にした。
「……新鮮でした」
「何よそれ」
いや、ホントに何よそれ、ですよ。
くすっと噴き出すお嬢様。その表情、雰囲気は先程と変わらない。
俺の選んだ言葉はどうやら間違いではなかったようだ。
ホント。何よ、それ。
「で? この後用事でもあるんですか?」
「用事、は無いけど」
「じゃあ、何で食事を後にしたのです?」
「それは……」
お嬢様の目が泳ぐ。
口は拗ねるように尖らせ、頬はまだほんのりと朱色のままだ。
一体なんなんだ? と内心思っていると、お嬢様は横目で俺の目と合わせるように向けてきた。
「あんたと、一緒に食事がしたかったのよ」
「え? 一緒に、ですか?」
「ほ、ほら! 後ろで見守られながら一人で食事するのもアレじゃない!? だから、一緒に食べたいなーなんて……」
胸がドキッとしたような感覚を覚える。
心臓の鼓動は急に速くなっているし、呼吸も浅くなっている。
胸の辺りは何処かくすぐったくて身を捩りそうになるが、不思議と嫌な感覚ではなかった。
そんな言葉にしづらい感覚を追い払うように大きく溜息をつき、体が軽くなったのを感じてからお嬢様に呆れ顔で告げる。
「そのぐらい、良いに決まっているじゃないですか」
そう言うと、お嬢様はニパーッと一層明るい雰囲気に移り変わる。
おいおい。お前はサンタさんからクリスマスプレゼント貰った子供か。
「じゃ、遅くならないうちに行こう?」
「はいはい。慌てて転ばないように気を付けて下さいよ」
「むぅ。私を子供扱いして」
子供みたいですよ。本当に。
こうして俺の手を優しく握って、遊園地で遊びたい所を先導してくれるような姿がね。
俺はお前の親父か。
★
夕食を終え、部屋に戻ろうとする俺とお嬢様。
今日の夕食は普段お嬢様の後ろで見守っている構図とは違い、初めての対面食事であった為、何処か気恥ずかしく緊張してしまっていた。
だがそれも束の間。その気は直ぐに雑談によって払拭される。
主な雑談の内容は入学式の事だった。
校舎内の作りや自分達の教室にクラスメイト、自己紹介。体育館内の綺麗に装飾されたモールや綺麗な演奏を奏でてくれた吹奏楽、新入生を温かく迎え入れてくれた在校生や職員の方々、校長先生の長話(鳴り止まぬ拷問)による愚痴。愚痴。愚痴。あと、愚痴。
どれも話す事が沢山あって会話が途切れる事なく、食事の場は二人だけしかいないのに賑やかで絶えなかった。
まだ話足りない部分があったけれど、時間はそれを許してはくれない。
時間という概念の縛りの中で生きている以上、俺達人間はそれに基づいて行動をしなければならない。
こんな楽しい夕食の時間を終わらせるのは勿体無く感じてしまうが、それも仕方がない事。
この後は入浴をしなければならないし、睡眠時間も十分に確保しなければならない。
そして、明日の自分を迎えいれなければならない。
時間というのは時に残酷で、時に幸せをもたらす。
そして、容赦無く平等に人々の時間に終わりをもたらしていく。
今日も明日も明後日も、これからもずっと……。
俺達が幸せと感じている今日は、極短い期間限定なのだ。
★
本当であれば、廊下の分かれ道でお嬢様とそこで解散し、自分の部屋に戻るはずだったのだが、部屋に戻ろうとする際、食事中での話足りなかった部分を少しでも話して楽しい時間を共有出来たらなと談笑していたのだ。
楽しい時間は意識を集中させてしまうのもあってか、気付いたら俺はお嬢様の部屋の前まで来てしまっていた。
それにハッと気付いた俺はお嬢様に一度会釈した後、自分の部屋に戻ろうとする。
踵を返し、その場から離れようとした矢先、俺の腕をガシッと掴まれた。
不意に掴まれたそれに驚き、顔だけをお嬢様に振り返る。
「どうしました?」
「ちょっと……もう少しだけ話してかない?」
柔和な薄い微笑みを向けられ、俺は心落ち着かない気分になっていた。
「……お嬢様が良いなら」
別に断る理由など無い。
部屋に戻ってもスマホゲームか筋トレか読書をするかの三択しかない。
それに、さっきの会話が弾んで楽しい時間の余韻もあるのか、お嬢様ともう少しだけお話をしていたいという自分がいる。
その気持ちを自分から言うのは恥ずかしいが、お嬢様からの誘いであれば乗らない理由が無い。
そういった意味でも、自分の気持ちを素直に言えるお嬢様は凄いなと関心していた。
「じゃあ、どうぞ」
「失礼します」
お嬢様が部屋の中へ招き入れると、俺は軽く頭を下げ踏み入れる。
「適当な場所に座って良いから」
「本当ですか? じゃあ––––––」
俺はお嬢様の寝ているふっかふかのベッドにダイブする。
「うほぉ〜。ふっかふかだぁ〜」
トトロのお腹の上って感じなのかしら。
「きゃああああ!!」
なんだようっさいなー。メイちゃんより声量あるぞ君。
「イダァ!!」
背中をパシッと叩かれる。執事服は生地が薄い為、衝撃は十分に伝わってきてしまう。
「なんですかお嬢様」
「なんでじゃないわよ! 何いきなりレディのベッドにダイブしているのよ!?」
お前はルー大柴か。
「え、だって適当な場所にって……」
「それは常識の範囲っていうか……。とにかく、いきなり女の子のベッドにはダメ!」
「うぃ〜」
俺を巻き寿司みたいに無理やりベッドから転げ落とそうとするお嬢様。
落下寸前まで来たところで着地の準備をした俺は難なくシュタッと無事に成功。
……全く、女心というのは良く分からん。下着とか生理用品とか恥ずかしい物を見られているわけじゃないから良くない? あ、良くないですか。はい。
ただベッドからはお嬢様のフローラルな香りが漂ったのを俺の嗅覚が感知したので、きっとこういう事を気にしているのだろうなぁと学習したシノン君でありました。
「じゃあ、このソファなら良いですか?」
「ええ。そこなら大丈夫よ」
俺は革質のハイバックソファに身を預ける。
俺の体重に沿って凹み、適度な柔らかさが俺の全身を包み込んでくれた。
お嬢様によって交感神経が過剰に刺激された体も、今は副交感神経が優位に働き全身がリラックスモードに切り替わる。お嬢様、ソファを見習って下さい。
気持ちが安らかに落ち着いてきたところでふとお嬢様に目を向けると、何やら小型キッチンで準備をしていた。
「何をしているんですか?」
素朴な質問に対し、お嬢様はこちらに振り返らずそのまま答える。
「お茶出しの準備よ」
そう言われ、俺はソファから立ち上がる。
俺のいる位置からはお嬢様の手元が見えないからだ。
そーっと遠くから手元を覗き込むと、既に二人分のティーカップが用意されており、コンロにはドリップポットに火が掛けられていた。
本来お嬢様にお茶出しをするはずの執事が逆にお茶出しをされるとなると居た堪れない気持ちにさせられるので、俺はお嬢様の元まで歩いて行き、申し訳ない気持ちと表情を見せながらその役を引き受けようとし始める。
キッチンの壁側に置いてある紅茶やコーヒーのパックに手を伸ばそうとすると、お嬢様に遮られた。
「大丈夫よ。これくらい一人で出来るわ」
「いや、そういうわけには」
「気持ちだけ受け取っておくわ。ありがとう」
薄く微笑むお嬢様。まるで俺が手伝おうとした意図をしっかり理解している感じであった。
「それに、部屋に招いたのは私なのだから、私がお茶出しするのは当然よ」
そう言われてしまうと、俺は言葉が出てこない。
頑固そうに見えるお嬢様の事だ。これ以上何を言っても聞いてくれないだろう。
今回はお嬢様に甘え、大人しく待機している方がお嬢様の為かもしれない。
「では、お願いします」
「ええ。任せなさい」
バチコーンとウィンクをかましてきたお嬢様。心なしか、星がいくつか弾けたような気がする。
俺の知っている情報だと、その手のキャラは天然で、何かと失敗をしでかす厄災者なんだが……。
「何が飲みたい?」
その問いは、先程キッチンの所に置いてあったパックの種類を聞いているのだろう。
大きく分けると紅茶とコーヒーの二種類しかないのだが。
「じゃあ、メロンソーダで」
「シノン君?」
「ごめんなさいコーヒーでお願いします」
「了解したわ」
物楽しみに冗談を抜かしてみたら、お嬢様は目の影を一層濃くし、ニッコリとした笑みをこちらに向けてきた。
…………こっわ。この子霊圧半端じゃないわ。俺は一体いつからメロンソーダが置いてあるなんて錯覚していたのだろう。
お嬢様から君付けされた時は気をつけようと心に強く刻んだシノンであった。
★
二つのカップに注がれたコーヒーを小型テーブルまで運んできたお嬢様。
「はい、どうぞ」
「はい! ありがとうございます!」
「……なに緊張しているのよ?」
「いえ、別に……」
流石に霊王を前にしたら緊張しちゃいますよ!
緊張している事実を指摘され居心地が悪く感じた俺は、それを誤魔化すように話題を振る。
「あ、ブラックなんですね」
「あ、ごめんなさい。ブラックは苦手だったかしら?」
「いえ、僕は好きですけど。お嬢様がブラックというのが少し意外で」
「あら、そう? 私こう見えて結構大人の口なのよ?」
「へぇ〜。これまた意外」
お嬢様はてっきり、ミルク砂糖たっぷりのお子ちゃま向けの味付けを好むものだと思っていたわ!
「そんなに意外かしら?」
俺とお嬢様は同時に一口コーヒーを飲む。うん、美味しい。
「はい。てっきり、ミルク砂糖たっぷりのお子ちゃま向けの味付けを好むものだと思っていました」
「それを言うときは甘党って言って貰って宜しいですか?」
先程みたいに霊圧を放つ事はなかったものの、代わりと言わんばかりにティーカップを持つ手がプルプルと震えているのに気付く。
「すいません間違えました甘党ですね」
「もう遅いわよ」
お嬢様は二口目のコーヒーを飲む。
「……でも、あなたの言う通り、私はお子ちゃまなのかもしれないわ」
「え?」
遂に止めを刺されるかと思いきや、刺してきたのは自分に対してだった。
ティーカップの中で揺れているコーヒーを見つめているお嬢様の姿は懐かしむような、それでいて哀しげな表情をしている。
それに触れるべきか迷った挙句、少しだけ重くなった気がする空気の中で僅かな沈黙に耐えられず俺は聞いてしまった。
「何かあったのですか?」
「ええ……まあ……」
歯切れが悪い返事に、俺は聞くべきではなかったと後悔する。
その罰が悪そうな姿に、そう感じるものがあった。
敢えて自嘲する事でその件に触れて欲しいという社会的欲求を満たそうとする人も存在するが、今回のはそうは思えない。
お嬢様のは思わず心の底にある闇の部分の本音がポロッと出てしまった感じだ。
天然なお嬢様でもある為、その可能性は十分にある。
だが今は、それとこれとは別。
そんな後悔の念を払拭するかの如く、俺は遠慮気味に気遣い言葉を放つ。
「いや、別に話したくない事なら話さなくて大丈夫ですから」
これも間違いであった。
変に気遣うと、気遣われた者は気遣われているという申し訳なさから、『本当に大した事じゃないんだけどね』というようなニュアンスで自分に保険を掛け、最終的には心が開かれたように鮮明に話し出す。
本当は話したくないのにもかかわらず、だ。
「……聞いては、くれるの?」
「え。あ、もちろん」
「……。……なら、折角だから聞いてもらおうかしら」
意外だった。触れないで欲しいというオーラを感じ取れたのに、それが錯覚であるかのように俺の見ていたものは間違っていたのだから。
話したくはないけど、聞いてほしい。
そんなトリックにも見える話術にハマってしまったかのような気分だった。
その後、お嬢様は残り少ないコーヒーを一気に飲み尽くす。
空っぽになったティーカップをテーブルに置くと、コーヒーの苦味によるものだろうか。苦笑した顔で俺に告げる。
「そんなに良い話ではないけれどね……」
「…………」
お嬢様と視線が合うと、俺は先に視線を逸らしてしまう。
その苦笑から察するに、あまり聞きたくないような内容に思えたから。
やはり後悔の念は払拭されない。
俺は悪あがきをするかのようにまだ半分程ティーカップに残っているコーヒーを一気に飲み尽くす。
不思議だった。
ブラックは得意な筈なのに、このブラックコーヒーは苦く感じたのだ。
★
二人ほぼ同時にコーヒーを飲み終えると、お嬢様は体育座りの状態で俯きながら話し出す。
俺はその隣で意味も無く視線を茶色のカーペットに向けたまま、あぐらをかいて耳だけを傾けている。
「私の家族はね、みんな天才なんだ」
「えっ」
自分の事を言い出すかと思えば、家族であった事に少々驚いてしまう。
家族が何か関係しているのだろうか。
「シノンは来たばっかりだから知らないと思うけど、私には他に三人の家族がいるの」
「三人」
「うん。お姉様に、お母様とお父様の三人」
「なるほど。至って普通の四人家族なのですね」
「構成は普通でも、中身が普通じゃないのよ」
「……と言いますと?」
「……私の家族は、超優秀なのよ」
お嬢様は思う部分があるのか。下唇を噛んで悔しそうな表情を浮かべる。
「優秀って、どのくらい優秀なんですか?」
超優秀と言っているぐらいだ。きっと文武両道を成し、どちらも学年で一位というのが目に浮かぶ。
でも俺は仮にそうだとしても、それに対してそこまで凄いとは思わない。
あくまでも『その枠の中』で優秀なだけであって、外に出れば更に優秀な人なんてごまんといる。
まぁ凄い事に変わりはないのだが。
お嬢様は口を震えさせながら、その優秀さに恐れを感じながら言葉を発する。
「全員、中学高校大学と偏差値が一番高い所で、かつ勉強も運動も一位以外を取った事がないぐらい超優秀なのよ」
「ま、まじかよっ……」
俺は血の気が引いた。
「本当だよ。大学なんて世界で一番偏差値が高いとされる『アーバード大学』に一発で合格しちゃうぐらいだもん」
「ア、 アーバード大学ッッッ!?」
俺は体を飛び跳ねて目が飛び出るくらい大きく驚く。リアクション芸人なら一発で合格にもなるほどのリアクションだった。
「……優秀なんてレベルじゃねーぞ……それ」
「だから、超優秀だって言ったじゃん」
敬語を使う事を忘れている事に気付かない程、驚きに驚いてしまっていた。
大学は海外という事は、中学高校は国内であったという事だろう。
国内で一位だけでも大変名誉ある事なのだが、海外でも一位の座に君臨し続けるとは。
俺はきっと『それ』がお嬢様の哀しみの原因につながっているのだろうと勘付いた。
「ま、まぁ……。お嬢様の家族が超優秀である事は分かりました。ですが、それが今回の話とどう関係しているというのですか?」
本当は薄々と気付いている。でも、お嬢様の口からハッキリと答え合わせをしなければならない。
「私のせいで、家族の名に泥を塗ってしまったのよ……」
「泥?」
「……私の家系は大派閥を担っている部分もあるから、そこに取り巻く企業やお偉いさん達、その他一般住民まで名を知られる程有名なの」
「へぇ、それは知らなかったです」
「それも含め家族はあれだけ優秀な者だから、みんなからの信頼も厚くて好意を寄せる者も多く、クラスどころか学校中、他校や他社からも良い意味で注目を浴びるようになって……気付けば、記者から取り上げられる程有名人になっていたの」
お嬢様の瞳は哀しみに満ち溢れている。
「……それで?」
「私はその逆で、何も出来なかった」
膝を抱えている手には力が込められている。
「有名であるが故に、私の事を知っている人も大勢いた。家族揃ってあれ程優秀なのだから、私もそれと同じくらい優秀なのだろう、ってね」
「…………」
「事の発端は中学の入学式だったわ」
「入学式ですか?」
「そう。入学式の時、入学受験の点数が一位の者だけが行える『新入生代表挨拶』があるでしょ?」
「あー、ありますね」
俺も中学の入学式の時に、新入生代表挨拶が行われた記憶があった。
代表挨拶に選ばれたそいつは常にテスでは満点を取る程の奴でその凄さに学年内で噂になっていた。
確かあだ名は『ガリ勉』だったな。
対してスポーツはダメダメだったのも覚えている。
「私はそれに選ばれなかった……」
「…………」
「そこから私への、家族への軽蔑と嘲笑が……始まったの」
お嬢様は両膝に顔を埋めてしまう。
「私がっ……私のせいで……みんなに恥を掻かせてしまったのよっ……」
涙声だった。それを悟られないように、気付かれないようにと、必死に言葉を繋げようとしている。
俺は隣で哀しみの姿で抱え込みながら俯いているお嬢様を哀れの感情で見つめる。
肩から背中に掛けて震えているのが分かる。
それを見て俺は、腹の底から熱が込み上がってくるような感覚に襲われる。
その熱を吐き出そうと、俺は言葉に熱を加えてお嬢様にぶつける。
「くだらないっすね」
「え?」
語気を強めて放った言葉に、お嬢様は咄嗟に俺の方を向いていた。
頬には先程まで見せなった涙の跡がついていた。
「そんな事で悩んでたんですか?」
「そんな事って……」
「そんな事ですよ。ちっぽけでどうでも良くて、本当にどうでも良い事です」
俺はお嬢様の言葉から何を言いたのか理解していた。
それは、『優秀な家族と違って、自分だけが落ちこぼれ』であるという事。
優秀で続いてきた、築いてきた名誉ある家族に続いて、自分の行いによってその名誉に泥を塗って崩してしまった事。
その責任に強く重く感じてしまっているお嬢様は、どうすれば責任を果たせるのか暗中模索しているという事。
「あ、あなたにとってはどうでも良い事かもしれないけど、私にとっては重要な事なのよ!」
癇に障ったのか、お嬢様も対抗するべく語気を強める。
それでも顔が弱々しい為、迫力には欠けていた。
「どこがですか?」
「えっ?」
「どこが重要なのか聞いているんです」
「どこって……っ」
少しだけ黙り込んだ後、言葉を探り探り発するようにお嬢様は答える。
「……家族が、あんなに優秀なのに、自分だけ優秀じゃないって……そんなの、おかしいでしょっ……?」
俺の理解は正しかった。
お嬢様は自分だけが家族とのレベルが違う事に嫌悪感を抱いている。
唇を再び噛み締めているその表情。なんて分かりやすい。
でも俺は、その内容についてどうこう言える言葉が無かった。
俺はお嬢様の事も、家族の事も知らない。
知った風な口でお説教じみた事を言うのも気が引けた。
ただ、一日お嬢様と共に過ごして分かった事があるとすれば、お嬢様は『おそらく優秀ではない』という事。
これは俺の主観でしかならないが、お嬢様はドが付く程の天然という印象だ。
制服の値札は取り忘れるし、クラス発表では自分の名前を見落とすし、簡単な案内図を読み取る事も出来ない。そして、自己紹介でも危うく失敗しかけた。
もちろん、これだけで勉強や運動が出来ないと断言する事は出来ない。
しかし、少なくとも優秀な人が『こんなにミスをする』とは想定しづらい。
優秀と称される人は、『いつも完璧に見える』という共通点があるからだ。
本当はどこかで隠れて多くの失敗をしているのかもしれないが、お嬢様の失敗の度合いはそれと異なる。
だから俺は、お嬢様は優秀だとは思えない。
そもそも、なにを持って優秀と決めるのかは俺には分からないが、きっとお嬢様の中では勉強と運動、つまり文武両道を極め、かつ一位の座に居座り続ける事を指しているのだろう。
家族の話をしている内容からそう断言出来る。
––––––だから、だから何だと言うのだろうか。
「……お嬢様は、どうなされたいのですか?」
真っ直ぐな瞳をお嬢様に向けると、罰が悪そうにお嬢様は直ぐに視線を逸らして答えた。
「それは……。高校で、優秀な成績を収めて––––––」
「違う」
「!」
「そんなの、ただの憧れでしかないだろ」
つい荒っぽい口調を放ってしまった。
何ムキになっているんだ俺は……。普段は怒りの感情など表に出しやしないのに。
……そうか……。俺はお嬢様が、過去の自分と重なって見えていたのかもしれない。
––––––俺は過去の自分を見ているようで、苛立っているんだ。
「俺は『誰になりたい』かを聞いているんじゃない。『お嬢様はどうしたい』のかを聞いているんです」
お嬢様は戸惑いを見せながらも言葉をつっかえて話す。
「だ、だから私は……ゆう」
「本心ですか? それ」
「っ……」
「……」
「……」
「……俺は、人に対してとやかく説教地味た事はあまり言いたくありませんが……」
お互い、視線を交差するのが気まずくて、自然と床に敷かれたカーペットに俯いてしまう。
俺は言葉の続きを発する時には、自然とお嬢様に視線が向いていた。
「自分の気持ちだけは、嘘をつかないで下さい」
発する直前に嫌な思い出を思い出してしまい、少しだけ刺のついた冷たい口調になってしまった。
それが心に突き刺さったのか、お嬢様は本当に刺されたかのように眼を見開きながらハッとし、俺の方へと振り向く。
「……」
「……」
目が、合ってしまう。
「……さい」
ボソッと、ハッキリと聞き取れない言葉を発したお嬢様。
「黙りなさい!!」
緩急をつけ、怒りを滲みさせたように声を荒げる。
ダイレクトに向けてきたその言葉に俺は胸の辺りが重くなったような感覚に陥った。
「何よ! 知ったような口を聞いて! あんたに私の気持ちの何が分かるって言うのよ!?」
俺は言葉を失う。
今のお嬢様はまるで別人のように、態度が荒々しかったから。
「私の家系は優秀じゃなきゃいけないのよ! そうしないといけないのよ!」
「……」
「みんなそうやって結果を出して! 信頼されて! 愛されて! ……私もっ……その一人になりたかったのよ……っ」
「……」
「でもっ、私には出来なかった……っ!」
「……」
「精一杯やったつもりだけど……出来なかった……っ」
本音と、お嬢様の頬に綺麗な滴が溢れ落ちる。
現状の悔しさから来る涙を堪えているのか、それとも過去の悔しさから来る涙を堪えているのか分からないそのクシャっとした顔を、俺は目を逸らす事が出来なかった。
「出来の悪い私は家族から見捨てられ、学校でも虐めに遭うようになった。『あいつは唯一の落ちこぼれ』っていうレッテルを貼られてねッ!」
語尾に差し掛かる瞬間、語気が強くなったのを感じた。
俺はそれ感じた後、反射的に眉がピクッと動いていた。
「……でも、もうどうしたらいいのかも……本当は……分からないのよっ……」
ポタポタと、涙がカーッペットに落ちてゆく。
涙の落下地点には、じんわりと濡れ跡が滲んでいる。
もう涙を堪えるのを諦めているかのように、お嬢様は涙を拭う事なく次々と小さな滴を落としていった。
「分かってるっ。ただの努力不足なんだって事ぐらい……っ」
「……」
「……でも……ひぐっ。でも––––––」
続きの言葉を待たずに、俺は––––––お嬢様を胸に抱き寄せた。
「––––––え」
「……もういい」
俺はお嬢様の後頭部を手で覆いながら、耳元で囁く。
「よく頑張った」
視線の先には、俺達の今の姿が映し出されている。
「辛かったよな。寂しかったよな。悲しかったよな」
一語一語言葉にする度に、俺はお嬢様の背中を優しく摩る。
お嬢様の背中は、とても熱かった。
「俺はお嬢様の事を良く知らないから、知ったような言葉を掛ける事は出来ませんが。……でも。これだけは分かります」
鏡に映っているお嬢様の背中を見て、俺は応えた。
「お嬢様は、ポンコツだという事です」
そう言うと、俺の袖を摘んでいるお嬢様の力が強くなった気がした。
「……なによそれ。欠陥品とでも、言いたいわけ?」
「そうです。欠陥品です。……中古屋で売られているような程にね」
「……っ!」
お嬢様は歯軋りを鳴らす。
反論してこないのは、正論だからだ。
「ですが世の中には、中古品を求めている者もいます」
「––––––!」
お嬢様はハッとなる。
「高性能で喉から手が出る程欲しい物なのに、それでも、劣化版を愛する者がいるって不思議だと思いませんか?」
お嬢様は何も答えずに、首だけを僅かに縦に揺らす。
「世の中、絶対に高性能でなければいけないなんて無いんですよ。デザインが良ければ良いっていう人もいるし、中身もそこそこ使えれば良いっていう人もいるんです」
––––––例えば、俺とか。
お嬢様は嗚咽を漏らしながら、ただ黙って耳を傾けている。
もしくは嗚咽が邪魔して、話せないのかもしれない。
浮かんでくる涙の量は、少しずつと増している。
「だからお嬢様は、高性能になる必要なんて無い。なろうとする必要も無い。どんなに欠陥品でも、それを求める人はいるだろうし、その人が高性能にも劣らないような手を施してくれるかもしれない。だから……俺からお嬢様に伝えたい事は一つです」
無意識に、お嬢様の背中に当てていた手に力が篭ってしまう。
「これだけは絶対に譲れない何かを、大事にして下さい」
一瞬だけ沈黙が起こってしまう。
きっと俺の言葉を聞いて、それについて考えているのだろう。
でもそれは、そんな直ぐに決めるような事じゃない。
「今決めなくても大丈夫です。ゆっくり、ゆっくりで大丈夫ですから。いつか必ず、その答えを自分で見つけてみて下さい」
俺は敢えて『自分で』とわざとらしく伝えた。
今のお嬢様は長い時間積み上げてきた物が崩壊し、頭の中がごちゃごちゃしていて、自分はどうしたら良いのか、何をしたら良いのか、どう人生を歩んで行けば良いのか迷走してしまっている。
そんな着眼点が定まっていないようでは、この先も迷走し続けてしまい、気付いた時には手遅れなんて場合もある。
だから俺は、先手を打つかのようにお嬢様に言葉を告げた。
今はそれだけに集中してもらう。あれこれ言ってはいけない。
積み上げてきた時間が長ければ長い程、心の傷の治りも時間が長くなる事だろう。
そう簡単には、傷は癒えてくれないのだ。
だから少しでも、傷が癒える治療薬として作用してくれればと思う。
きっとお嬢様の中では、これが人生で一番の挫折なのだと思うから。
本当に、ゆっくりでいい。
伝えるべき言葉を言い終えた俺は、お嬢様をゆっくりと引き離さそうと肩を退けようとする。
––––––しかし、引き離す事が出来なかった。
お嬢様は、まるで生まれたばかりの子供のように、離れたくない、まだこうしていたいと言わんばかりに、手には力がギュッと込められている。
それに対して俺は、強引に引き離す事が出来なかった。
「私は……私でいて、いいのね……?」
「当たり前じゃないですか」
お嬢様の人生は、お嬢様だけのものだから。
「……好きなように、進んでいいのね?」
「当たり前じゃないですか」
お嬢様の人生に責任を取れるのは、お嬢様だけだから。
「信じて、いいのね?」
俺はお嬢様の髪が盛大に乱れるようにくしゃくしゃと撫でた。
「当たり前じゃないですか」
お嬢様の人生を最終的に信じるのは、お嬢様だけだから。
「…………う……ぐっ……うぅっ……うわあああああぁぁぁぁぁぁぁんっ!!」
俺の胸に顔を埋めつつ、溜めていた全ての負の感情を吐き出すように、自分で自分を偽っていた事を嘆くように。
お嬢様は、俺に泣き顔を見せる事なく、ただひたすら泣き続けた。
★
暫くして泣き止んだお嬢様は、俺の胸に渦くめていた顔をようやく離した。
目元は泣き続けた事により赤く腫れており、顔も赤くなっている。
本来なら女子の悲しみの泣き顔を拝めるのは気が引けるが、今のお嬢様の顔には何処か吹っ切れたようにスッキリとした表情をしていて、なんだか俺までも何処かスッキリとした感覚に陥ってしまう。
お嬢様はまつ毛に引っかかっている涙を腕でゴシゴシと拭った後、落ち着いた様子で言葉を発した。
「私、間違ってた……」
お嬢様は視線を何処かに向ける事なく、独り言のように呟く。
「優秀な家族に憧れて、期待されて、自分もあんな風にならなきゃって……思ってた」
自嘲気味で話すお嬢様。
「でも、無理して、なろうとするのは間違っていたんだね」
「……別に、憧れでなろうとする事自体は間違ってはいないと思います」
俺も『あの人』に憧れたから、今の俺がいる。
「ただ世の中には、努力だけでは叶わない事もあるという事です」
多くの人間が出来ない事を、平気で成し遂げてしまう人もいる。
鋭く察しが良い肌感覚、努力を努力と感じない尋常な積み上げ、心が折れるような事があっても立ち向かい続ける事が出来る鋼のメンタル。
人はそれを天才だったり才能だったりと呼ぶが、俺はその一言で勝手に括って済ますのはちょっと違うと思っている
天才や才能という言葉は、敗者が言い訳として創り上げた逃げの言葉のように感じるからだ。
敗者は勝者の積み上げてきた量を計り知れていないから、自分の自信や努力やプライドを守るために用意してある便利の言葉として使っているように思うのだ。
勿論、俺も『あの人』の事をそう思っていた。
俺には到底手の届かない、雲の上の存在。
でも、嫉妬や悔しさ、悲観的になる事は無かった。
その道が駄目だと思うなら、進む道を変えれば良いだけだから。
そんな事を理解しておきながら、『あの人』の辿った道を進んでいる俺は矛盾しているようにも感じてしまう。
心の底ではきっと、この道を選択した事に、闇の中に潜む人影が気付かれないように、後悔の念を隠している気がした。
俺はそれに気付いているようで気付いていない。
それどころか、闇の中には一筋の光が差し掛かった気がして、その人影の存在を消失してくれた。
「ですが、安心して下さい」
胸の中が良い意味でざわめき、俺は少しだけ明る気な表情とトーンをしてしまう。
お嬢様は子供が初めて物を見る時のような呆けた顔で俺の目を見つめる。
安心してくれという言葉に、何処か期待を含んでいるかのように希望の光が綺麗な瞳には宿っていた。
「お嬢様には、俺が付いています」
……期間限定では、ありますが。
「お嬢様は、高校生活をどのようにお過ごしたいのですか?」
素朴な疑問でありながらも、俺は聞かずにはいられなかった。
『今のお嬢様』は最初に望んでいたものは縁遠いものと改めて認識し、自分という自分を見つめ直している段階だ。
その上で急かした質問をしたのは間違いのようにも思えてしまうが、それでも俺は聞いていたであろう。
心のざわめきが、俺を急かすからだ。
お嬢様は床に敷かれたカーペットに視線を向け続けたまま顎に手を当て、考える素振りを見せる。
少しだけ考え込んだ後、お嬢様は何か閃いたようにパッと顔を上げる。
「私は、平凡で平穏に過ごしたい」
「平凡で平穏、ですか」
「うん。勉強も運動もそこそこで、友達は……信頼出来る人が一人いれば良いかな。後は、平穏に過ごせればそれで良い」
「ほーん。意外ですね」
「……意外ってどういう事かしら?」
「僕はてっきり、友達100人作って富士山の上でおにぎりを食べてワッハッハと笑い合いたいかと思っていました」
「それ、小学一年生よね? 私、高校一年生なのだけど?」
「あ、すいません。間違えました」
「フフッ……。シノン君は今日の夕食を最後の晩餐にしたいのかしら?」
「すみません許して下さい反省しております」
「……まぁ、今日は許してあげるわ」
「え」
……おぉ。あの暴力女が珍しい事もあるものだ。
防御大勢のまま固まっている俺を他所に、お嬢様はスッと立ち上がる。
そして俺の方に振り向き、見下ろす形になる。やだ巨人みたいで怖い。食べないで!
そんなお嬢様に恐怖を感じていると、お嬢様から手を差し伸べられる。
「えっ?」
「ありがとう、シノン。おかげで、何か見えてきた気がする」
明るく眩しい笑顔。華奢で頼りない小さな手。
これは、見覚えのある光景。
––––––いつもの、お嬢様だ。
「……こちらこそ、ありがとうございます」
俺はお嬢様の手を握り、立ち上がる。
手の温度はじんわりと温かく、手から俺の全身へと伝わってきたような感覚に陥る。
この日初めて、お嬢様の手を握った。
それが非常にむず痒くて気恥ずかしく、直ぐにパッと手を離してしまう。
そんな気持ちを悟られないように、俺はスタスタと先に部屋を出て行こうとする。
「では、お風呂の準備を致しますので」
「あ! 私も手伝うー」
「そうですか。では、そこのソファに座ってじっとしていて下さい」
「それ何も手伝えないんだけど!?」
「何もしないのが手伝いです」
「あなた『手伝う』って意味、知ってる?」
「お嬢様こそ、『奇奇怪怪』という意味をご存知で?」
「どういう意味よそれ!」
「イッッッたぁ〜!」
バーロー。ゲンコツはやめろゲンコツは。
ていうか、それどっちの意味で言っているのか分からんのだけど。
––––––でも、これでハッキリした。
お嬢様は、いつものお嬢様だ。
毎度毎度クリティカルを放ってくるお嬢様だ。
この奥にまで染みる痛みが、その証拠でもあった。
まだ完全復活、とはいかない部分もあるだろうが、それも、ゆっくり消化していけば良い。
(……にしても、平凡で平穏、かぁ……)
平凡に関しては今回のこの件で何とかなるとしても、問題は平穏の方だ。
これは個人の問題ではなく、他人の問題が関わってくるから非常に厄介だ。
自分を制御出来ても、他人を制御する事は不可能に近い。
お嬢様はあれでも、大派閥の名家の娘だ。
きっとそれを気に食わないと思っている奴は必ずいるはず。
どんなに優しくても、親切でも、絶対的な信頼を持ち合わせていようとも。
どんな人間にも必ず、後ろ指を立ててくる奴は存在する。
光あるところには必ず影が存在するのと同じで、これも因果関係に等しい。
ですがご安心下さい。お嬢様。
どんな影が現れようとも、俺がその因果を断ち切ってあげます。
俺の役目は、お嬢様を御守りする事。
例えこの身を犠牲にしようとも、必ず御守りしてみせましょう。
––––––それが。
今は亡き、恋をしていた彼女の意志を勝手に引き継いだ、俺の役目なのだから。
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