第2話漫遊の代償

 四月も終わりが近いある日の土曜日、全治がいつも通り散歩しているとスーツケースを引っ張っている男とすれ違った。男はいかにも旅行中という風の服装をしている。すれ違った直後、全治は目の前に革の財布が落ちている事に気が付いた。

『あの人のかな?』

 そう思った全治は財布を拾って、すれ違った男に声を掛けた。

「あの、これはあなたのものですか?」

 全治が財布を差し出して言うと、男は着ていたジーンズの後ろのポケットを慌てて確認した。

「それだよ、私の財布!!いやあ、拾ってくれてありがとう。」

「ところでおじさん、お名前は?」

「増田優二だ、君は?」

「僕は千草全治、増田さんはこれから旅行に行くの?」

「いいや、帰宅するんだ。」

「そうでしたか、何処へ行ってきたの?」

「ざらっと九州へ、長崎と大分と熊本を回ってきたんだ。」

 増田の口調が鷹揚で明るくなった。

「へえー、どれぐらい旅行していたんですか?」

「二か月だな。」

「二か月ですか・・・そんなに旅が好きなんですね。」

「もちろんさ、どうやら君とは話が合いそうだ。もし良かったら「ガニメデス」で、一緒に飲まないかい?」

「いいえ、お金がありませんし、お酒は飲めません。」

「ハハハ、あの喫茶店に行くんだよ。今回は私が奢ってあげるから。」

「あっ、あそこですか。じゃあ行きます、すみませんお世話になって。」

「そんなこと言わずに、楽しもうよ。」

 増田は全治の後ろに首を回すと、そのまま連れ去るかのように歩き出した。

「全治さん、また他の人について行って・・・。」

「アルタイル、ごめんね。でも今は、この人からの興味で頭がいっぱいなんだ。」

「全治様らしい・・。」

 アルタイルはため息をついた、心配が多いのは前世での職業病(ちなみに職業は教師である)だ。増田に連れられて十分程歩いたところに喫茶店「ガニメデス」はあった、増田と全治は入店してお互いにコーヒーを注文した。

「コーヒーでいいの?飲める?」

「はい、大丈夫です。それにコーヒーは好きですから。」

「大人びているなあ、ハハハ。」

 増田はコーヒーが来るまでの間に、九州での旅の思い出を語った。熊本では水前寺公園と鍋ケ滝公園を、大分では金鱗湖と慈恩の滝を、長崎では端島と稲佐山展望台を見て回ったという。

「どうだ、いいとこだろう。」

「はい、それにしても僕が知らないところばかりですね。熊本の熊本城なら知っていましたが。」

「ああ、私は自然が豊かであまり有名じゃないとこを巡るのが好きなんだ。そういう旅もいいものだろう。」

「はい、僕も自分の心のままに旅がしたいです。」

「そうか、でも君はまだ若いからな。旅が出来るのはまだまだ先だ。」

 そうしているうちに注文したコーヒーが届いた、増田と全治はコーヒーを半分飲むと会話を再開した。

「ところで増田さんは一人で旅をしているけど、生活も一人ですか?」

「いいや、妻と息子がいる。」

「じゃあ、どうして一人で旅をしているの?」

「それは旅が一人でするものだからだ。」

「でも皆でする旅もありますよ?」

「確かに修学旅行とか仲間内の旅行もある、でも私の言う旅は一人で気ままに風景を楽しむ旅なんだ。」

「そうですか、でもあなたの妻も子供ももし旅に誘ったら、これまでとは違う旅ができるのではないでしょうか?」

 全治のこの問いに、増田は眉間にしわを寄せた。そして怒った口調で言った。

「私は一人での旅が好きなんだ、好きなことに横槍を入れないでくれ!」

「失礼しました、ごめんなさい。」

「わかりゃいいんだ、もういいよ。怒って悪かった・・・。」

 増田の顔に笑顔が戻った。そして十分後、増田と全治は支払いを済ませてガニメデスを出て、そこで別れた。




 それから五日がたってゴールデンウイークに突入したある日、全治は北野の友達と遊ぶために北野家に向かっていた。北野家に到着すると、北野君と一緒に一人の少年がいた。

「おお、来たな全治。紹介するよ、増田俊平だ。」

「初めまして、俊平と読んで下さい。」

 全治はどこかで聞いた名前だと感じた。そしてしばらく三人は「戦・技・王」で遊んだ、その時北野の父が帰宅してきた。

「おお、新しいダチができたようだな。」

「あ・・俺、増田と言います。」

「おお、北野をよろしくな。」

 北野の父は俊平の肩を叩くと、自分の部屋へと入っていった。

「もう、親父ったら・・・馴れ馴れしいんだよなあ・・・。」

「僕は北野君のお父さん、良い人だと思います。」

「え?俺の親父がか?」

「だって気さくでとても家庭的だからだよ、僕もあんな親父の息子だったらよかったよ・・・。」

 俊平が意味深な事を言った、全治がすかさず質問をした。

「ねえ、俊平くんのお父さんってどんな人なの?」

「いつも一人旅ばかりしてて、俺とお袋のことには興味が無い奴さ。」

 俊平は吐き捨てるように言った。

「もしかして、増田優二って名前の?」

「え?・・・・もしかして親父が言っていた、一緒に喫茶店「ガニメデス」でコーヒーを飲んだ俺ぐらいの少年って・・・。」

「うん、僕だよ。」

「なんだ全治、増田の親父と知り合っていたのか?」

「うん、九州のいろんな名所の話を聞いたんだ。君は優二さんが嫌いなの?」

「あいつは三年前に京都に主張してきてから一人旅にハマってしまった、だから俺とお袋の事は一切見ようとはせずに、将来のための貯金もあいつの旅費でほとんど消えてしまったんだ・・・。」

 俊平は怒りを噛みしめながら言った。

「最低だな・・・。」

 北野は唖然としている。

「俊平君の言う事、理解できる。昨日話していた時『あなたの息子と妻も旅行に誘ったら、これまでとは違う旅ができるのでは?』と質問したんだ、そうしたら『好きなことに横槍を入れるな!』って怒られた・・。この時僕は一人旅が好きなんだって思ったけど、君の話を聞いてそれが尋常じゃないと分かった。」

「全治君・・・僕の事分かってくれるんだね。」

「・・・ごめん、僕は俊平を完全には理解できない。僕には、父がいなかったから。」

「えっ・・・?」

「ごめんね、もう帰っていいかな?」

「おお、またな・・・。」

 何とも言えない虚無感を背に、全治は北野家から出た。






 五月十三日、全治が学校からの帰り道を歩いていると、呆然と道端に座っている増田優二を見つけた。

「増田さん・・・?」

「ん・・・ああ、千草全治君かい?」

「どうしたんですか、そんなところで?」

 増田は少し黙った後、話し出した。

「俺、家族に見捨てられたわ。」

「どういう事?」

「今日旅行から戻ってきたら、妻も息子もいなくて、テーブルの上に『あなたとはやっていけません、離婚しましょう。』ってメモが離婚届と一緒に置いてあったわ。俺がいつあの二人をほったらかしたか、覚えが無くて訳が分からない・・・。」

 頭を抱える優二に、全治は言った。

「それは旅を続け過ぎたからです。」

「どういう事だ・・・?」

「俊平君と奥さんは・・・寂しかったんです。一緒にいるのに一緒じゃない・・・、あなたは旅を続けることであなたは大切な、人情を失っていたんです。」

「そんな訳は無い、私は妻も俊平も・・・・ん?全治君、どうして息子の名前を?」

「僕の友達から知りました、更に言うと三日前に俊平君が転校することになったと同じ友達から知りました。」

「そんな前から・・・。」

「ねえ、あなたは妻と俊平君の事をどのように思っていたの?」

「愛していたさ・・・。」

「じゃあどうしてそれを、妻や俊平君に示さなかったの?」

「そんなん、愛情は感じるものに決まっているからだ!」

 優二は全治に向かって怒鳴ると、それを恥じらい、ばつが悪そうに立ち去った。

「・・・人は家族になっても、人の心は分からないものなのか・・・?それとも好きなことにのめり込み過ぎて、見えなくなっていたのか・・・?」

 全治は道端に座りながら、考えるだけだった。


 




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