第三章 当日 午前

水森さんはどこが悪いんだろう?

深刻な病気なのかな。

静養するくらいだから酷い事になっているのかな。

治る病気かな。

死んだりしないよね。

もう会えなくなったりするのかな。


嫌だな。


あの時、水森さんを呼び止める勇気もなかったくせに、次々と彼の身を案じる事ばかりが頭に浮かぶ。


嗚呼、眠れない。


オレのエッチな妄想について、この時を境にピタリと治まってしまった。

それに取って代わるように、水森さんの身体の事ばかり心配だった。

何にせよ、足の重い土曜になった。

何から切り出したらいい?




「やあ、いらっしゃい。入って」


オレがアレコレ思うより先に、水森さんが玄関のドアを開いてくれた。

いつも通り明るい声で。


「あれから身体の調子は大丈夫だったかい?今日も寒いから、先にお茶であったまろうか」


オレは絵の具塗れの丸い椅子に腰掛けて、渡されたコーヒーを手に包む。

視線はコーヒーに落としたままだ。


「本当にごめんなさい。ご心配おかけして」


水森さんこそ、身体の具合が悪いんですか?それで軽井沢に行くんですか?


「あの後雪が降ってきたろう?あの日は随分冷え込んでいたからね」


どのくらい悪いんですか?もう会えないんですか?


「オレの事、どう思ってますか?」


驚いたのは水森さんよりもオレだった。こんな言葉が、こんなにポロリと口から出るなんて。

そうじゃなくて、そうじゃなくて、もっと聞きたいことがあったじゃないか!


そうじゃなくて。本当は…。


これが一番聞きたかったんだ。


そう思ったら、自然とぽとぽと両眼から涙が出てきた。この前も仕事にならなかったのに、最後の日だって言うのに最悪だ!

水森さんがどんな顔をしているか怖くてまともに見られない。


暫く気まずい空気が流れてから、オレの手元にハンカチが差し出された。


「まだだ。まだ君は僕のモデルだ」


チラリと水森さんは部屋の壁時計を見上げた。


「十二時までは君を描きたい。それから今の話しの続きをしよう」


水森さんは穏やかだった。オレの突拍子も無い質問を、馬鹿にしたり、気分悪くしたりしていない。それどころか、いつもよりも優しい声だった。


オレは水森さんにそう言われたら従うしかない。いつものソファに歩いて行くと観念して服を脱ぎ始めた。


「いいよ、今日は脱がなくていい。

最後に君の顔が描きたいんだ」


最後に。

水森さんはそう言った。

そうか、やっぱりこれが水森さんとオレの最後なんだ。


今日はいつものように、クロッキーやデッサンではなかった。水森さんは丁寧に、オレの顔をスケッチして行く。


きっとオレの表情は冴えない物だったに違いない。それなのに、そんなオレに注文つけることなく、水森さんはありのままのオレを描いていた。

水森さんの視線が今日はまるで拷問のように感じた。




「出来たよ」


長かった。

人生で一番長い時間が終わった。


「お疲れ様でした。…おいで」


オレが水森さんの元に行く頃には、心が随分落ち着いているのを感じた。

あのスケッチの時間は多分オレに必要な時間だった。

イーゼルから外された鉛筆画がテーブルに広げられた。

いつも見慣れた殴り描きのようなクロッキーやデッサンとは違い、緻密で綿密な美しい写実だった。

オレは今日、こんな顔をしていたのか。

何処か愁を含んだ眼差し、不安げな表情。心まで写し取られたような見事な鉛筆画。

水森さんは満足げに、最後に自分のサインを入れた。


「はい。これは君にあげるよ」


「えっ、良いんですか?だってオレ」


「これが、さっきの答えだ」


水森さんはチラリと掛け時計に目をやった。針は十二時半だった。


「これで君との契約は終了だ。仕事は此処まで。ここからは、君と僕とのプライベートだ」


どう言うことだ?水森さんは何が言いたいんだろう?




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る