第二章 月からの風

 

五感が監視されている。

月から吹いてきたその風は、

18階のリビングのわずかに開いたサッシの狭い隙間から忍び込んでびょうびょうと音を響かせ、

カーテンを舞い上げ、

寝室へと向かってくる、

のを目の裏側に感じる。


そのときわたしは、夫にしがみついていて、

お互いの毛穴からお互いの気を舐め吸い取り、

頭を抱きしめ、

くるぶしに爪を立てられ、

ふくらはぎに這う舌の感触に全身を弾ませ、

脇のくぼみを吸われ、

膝頭を愛撫し、

太腿に浮き上がる筋肉の筋に沿って指を這わせ、

もっと隙間なく密着したくて、

力こぶの裏側の柔らかい肉に噛みつきたくて、

張りつめた弦が切れる瞬間の声を聞きたくて、

のけぞる首の浮き出た血管を見たくて、

うなじに湧き出た甘露の匂いを嗅ぎたくて、

たまらなくて、

もどかしくて、

その欲望がわたしのなのか夫のものなのか判別できなくなり、

寂しさに焼き焦がされながらも、

その風に乗ってきたものの気配を身体のどこかで感じていて、

脳髄が永遠に溶け続け、

身体の中心から溶けた鉄の湯が全身に広がり、

ふたりの肉はどろどろに溶け崩れ一つの肉の塊になり、

びょうびょうと鳴る風音の中、

夫が一声うめいてわたしの中に精を吐き出した瞬間、

わたしが頂きに昇りつめて顎が外れるほど口をいっぱいに開けて首をギュンと仰け反らしたその瞬間、

寝室の北の角、たんすの上に腰掛けて行為を見下ろしていたらしいその子の視線を感じたわたしが仰ぎ見る寸前にその姿は消えていた。


東洋一のマンモス団地だそうだ。

竣工したばかりの高層棟の入居抽選で夫が見事に当選を引き当て、先月この18階の3DKに引っ越してきた。

国鉄のストライキで首都圏のダイヤが大幅に乱れていると今朝のテレビは報じている。

夫はそれを耳で受信する。

目は新聞、舌は朝食、指は箸、鼻は時々わたしのうなじのあたりを彷徨う。

つまり、五感が正しく独立していて、他の領域に侵入していない。


 わたしは、味噌汁のワカメを箸でくるくる回して味噌の海を泳がせたりしながら、

「ねえ、同じ夢ってみたことある?」

 と夫に訊いた。

 夫は新聞から顔を上げてわたしに言う。

「同じって、何が同じなの?」

「登場人物」

「同じ人が出てくるの?」

「うん」

「ぼく?」

と夫が真面目に言うので、わたしは微笑して彼の手を握る。

こういう素直さが好き。

「だといいんだけど」

「男なの?」

「うん」

「誰?」

「わたしが聞きたいくらいよ。あなた誰なのって」

「昔の彼とか?」

「ばか」

「知らない人?」

「うん。全然」

「ふぅーん」

と考える夫に、逆にわたしが訊く。

「誰なんだろ」

「二枚目? 年は?」

「わからない」

「わからないって……いつも出てくるんだろ、そいつ」

「だって、いつも後ろ向いてるんだもの。こっちに背中向けて」

「後ろ姿か……」

「……なんか……気持ち悪いわ」

「で、そいつなにかするの?」

「尾けてくる」

「……あのね」

 夫はそう言って苦笑し、わたしの手を握る。

「背中向けて尾けてくる? 後ろ向きなんだろ」

「じゃなくて、気配なの。尾けてくる気配。それで、わたしが振り返ると、その人、十メートルくらい後ろにいて、背中向けているの。いつも同じパターン」

「ふぅーん」

わたしは夫の顎に唇を押し当てて、そこについたご飯粒を指先でつまんで食べる。

髭剃り後の化粧水の味。

苦いけれど、わたしの幸せを下支えしている味だから、好き。

「もうやめよ、こんな話。ホントに怖くなっちゃった」

「やっぱり昔の彼じゃないの?」

 と夫はにやにやしながら言う。

 わたしは夫にもたれかかった。

「わたし、あなたしか知らないのよ」

「今夜も出てくるのかな?」

「いやだなぁ」

「聞いてごらん。あなた誰ですかって」

夫がわたしのうなじに唇をつける。

くすぐったくてわたしは首を竦める。

「逆に、芽がその男の後を尾けるとか」

わたしが抱きつく。

夫の喉仏に歯を立てる。

夫が笑う。

「わたしが怖がってるのに、そんなにおかしいの?」

「だってさ」

夫がわたしの喉を噛む。

わたしは、のけぞって笑い、抱きつき、ふたりは笑い転げる。

「ほら。芽だって。ぼくたち、へんだよ」

「ほんとね。……じゃあ、こうしたら?」

夫から身体を離してみる。

たちまち寂しくなってあわててくっつく。

頬に頰を重ねて、胸騒ぎを肺の奥、胸の深く、砂漠の砂の奥深くに埋めてしまう。

幸せなのに寂しい。

理由のわからない罪深さが砂嵐のように吹き荒れている。

わたしは涙声になっていた。

「ずっと……こうしていてね」

夫はたくましい腕をわたしに巻きつけて強く抱きしめてくれる。

そのまま肋骨が折れてもいいと思った。

わたしの五感を護ってちょうだい。


わたしは大学病院の廊下を歩いている。

靴の音がくっきりと響いて、ああ違う靴にすればよかった、もっとヒールの低いゴム底の靴に、と後悔する。

リノリウムの床が鈍く光っていて、わたしは目を落として床ばかり見ながら歩く。

背後が気になっていた。

振り返る。

白衣だ。

十メートルほどの距離を置いて、白衣の背中がある。

わたしは、足を早める。

待合室のベンチにわたしがいる。

廊下の突き当たりが気になる。

その角に白衣の背がある。

こちらを監視しているかのような男の背。

わたしは意を決して立ち上がる。

男に向かう。

男はその場を離れ、歩き出す。

夫が提案したように、今度はわたしが追う。

階段を上る白衣の男を追う。

男が外来ロビーに出た。

わたしも後に続く。

男の姿を見失う。

病院中を探す。

諦めかけた時、わたしの全身が強張る。

気配。

すぐ背後に男がいる。

男は手を伸ばしてわたしの肩を掴もうと手を伸ばした、気配。

指先が近づくのがわかる。

うなじがピリピリする。

わたしは無意識にその言葉を叫んでいた。

その言葉を……

誰かがわたしの名前を連呼している。

誰かが抱きしめてくれる。

……夫に抱きしめられていた。


ここは大学病院ではなくわが家の寝室だということに気がついた。

夫が、わたしのひたいの汗を掌でぬぐいながら心配そうに訊いてくる。

「またあの夢?」

わたしは夢のすぐ横で生きている、あるいはわたしの横であの白衣の男が息をしている。

男の気配は薄い影のようにわたしにまとわりつく。

いるという気配のぬるりとした感触。

目の裏側のあたりで密かにわたしをうかがっているそいつ。

わたしは五感のすべてを駆使して気配の正体を探るが、逆にわたしの五感が少しずつ盗まれている。

五感の壁がじわりと溶かされ、白衣の男が浸潤してくる。

五感の境界はなくなり、白衣の男はわたしの感覚の核、あるいはすべてになろうとしている。

その感触が居心地悪く気持ちが悪く、わたしは悪酔いしたように宙を見つめていた。

「なにを謝っていたの?」

と、再び夫が訊く。

わたしは、目が覚めたように我に帰り、夫を見た。

「なんのこと?」

「ゆるして、って言ってたよ。大声で」

「……え」

「ゆるして、ってうなされてた」

どうして、とわたしは考える。

夫はさらに訊く。

「覚えてないの?」

「……うん」

「どんな状況だったの?」

「……追いかけられて……肩つかまれて」

「それは覚えているんだね」

「……パニックだった……」

「可哀想に、うなされるのも無理はない」

 夫はそう言って、わたしを抱きしめてくれる。

「……ゆるしてって言ったのね、わたし……」

「うん。はっきり言った」

そのまま夫の腕の中で眠った。

わたしを離さないでほしい。

あの男からわたしを護って。


深夜、ふいに目覚める。

隣に寝ているはずの夫がいない。

ベッドサイドにメモがある。

 【おふくろが倒れたらしい。芽がぐっすり寝ていたので一人で病院に行く。あとで連絡する】

 わたしはタクシーで病院に向かった。

救急外来で照会すると集中治療室へ案内された。

入り口でナースを呼んだ。

自分の名を告げ、義母の容態を尋ねた。

「脳溢血です。搬送が早かったので、今のところ意識障害は現れていません。検査の結果をみながら先生が治療方針を検討しているところです。待合室でお待ちください」

「義父と主人が来ているはずなんですが」

 とわたしは訊いた。

「お父様は奥様の入院の準備のためにご自宅に戻られました。ご主人は電話をお探しでしたから、おそらく外来ロビーの方にいらっしゃると思います」

電話を探していたということは、おそらくわたしに連絡をしたかったのだろう。

ロビーの奥に公衆電話が並んでいる。

当直の医師やナース、事務職員が行き来するが、夫の姿はなかった。

行き違いになってしまった。

わたしは救急外来の待合室に戻った。

奥に中年の夫婦が一組、こちらに背を向けてひっそりと待っている。

わたしはその夫婦から距離を置いて入口近くのベンチに腰掛けた。

背後のドアが開いた。

夫だと思い、振り返ろうとした。

できなかった。

動けない。

金縛りになりながらわたしは思っていた。

あれは夫ではない。

おそらく、おそらく、そこにいるのは白衣の男だ。

靴音がわたしのすぐ背後で止まった。

その気配に皮膚が粟立った。

男の指先が迫るのを感じる。

うなじが、ピリピリと震えうぶ毛が逆立ち、そして、わたしの肩に手がおかれた。

心の底に波が立った。

「……あぁ」

とわたしの口からため息が漏れるのを他人事のように感じた。

ショックだった。

男の手の、優しさと温もりが意外だった。

胸いっぱいに膨らむものがある。

なんだろう。

心の奥の寂しさに小さな火を灯してくれる。

険しくなっていたわたしの眉が解放される。

突然こみ上げてきた。

わけも分からず。

涙があふれてきた。

肩に手を置かれた、

たったそれだけのことなのに。

「……ゆるして……」


わたしは泣きじゃくって目を覚ました。

寝室の天井が見えた。

またか。

またあの夢か。

でも、いつも感じていた気分の悪さはなかった。

夢の男が現実との境界を溶かし崩してわたしの中に浸潤してくるという、何ともいえない気持ちの悪さはなかった。

初めての接触だった。

肩に置かれた男の手。

あれは夢ではない。

あの感触。

掌の重さから伝わって来る男の肉体の確かさと体温は現実のものだった。

許してと懇願するわたしを、許す感触だった。

わざわざ現実との境界を溶かしてわたしの中に侵入してきて、許すことを伝えてくれた。

彼は、無条件で許してくれた。

だから、何を許してもらうのか全くわかっていないにもかかわらず、わたしは心の底から安心した。

でも、やはりあれは夢。

安心も暖かさも、虚しい。

グラスに液体を注ぐ音が聞こえる。

ベッドサイドの椅子に夫が座っていた。

テーブルに置いたグラスにビールを注いでいる。

ベランダのサッシが開いているのだろう。

風が鳴っている。

びょうびょうと。

わたしの前髪がさわさわと揺れる。

風はわたしたちの間を舞っている。

夫はビールを飲み干すと、わたしの横に潜り込んできた。

わたしはぼんやりしたまま尋ねた。

「……お義母さんは?」

夫は肩肘をついてわたしの顔を見下ろしている。

右手はわたしのパジャマのボタンを外しにかかっている。

「おふくろがどうかしたの?」

わたし、混乱している。

そうだった。

あれは夢だったんだ。

困惑している。

その困惑の中に微妙な罪悪感が混じる。

「また変な夢、見ちゃった」

罪悪感を見咎められないように、さりげなく言うのだが、唐突の快感に声が上ずった。

夫がわたしの乳首を指先で転がし始めた。

わたしの気がゆるやかに上昇していく。

「言ってよ」

 と耳元で夫が囁く。

「え」

 とわたし。

 愛撫が次第に執拗に激しくなる。

「ぼくにも言ってよ」

「何のこと?」

「ゆるしてって」

夫が入ってきたが、わたしは感応できない。

月から吹き降ろしてきた風がわたしの体温を下げた。

「ゆるして、って言ってよ」

 夫は再び言った。

「なに言ってるの」

「たのむから」

「いやよ、恥ずかしい」

 夫が昂まり、果てた。

シャワーを浴びながら、わたしは自問自答をしていた。

あの男に……許しを請うような何を、わたしはしたのだろうか?

夢の中のことだというのに、あるはずもない記憶を探っていた。


 顔がない。

真正面から見ても、どの角度から見ても顔がわからない。

顔はある。

空洞ではないし透明でもない。

確かにある。

でもぼんやりとしていて、わたしには見えない。

わたし以外の他の誰かなら見えるかというと、そうとも思えない。

目があるべき場所から視線が、来る。

その視線に見つめられると、わたしの眉間のあたりから白煙が立ち上る。

小学生の時、虫眼鏡で太陽の光を紙の一点に集めたように。

 男は昼下がりにやってきた。

その時、わたしは目覚めていた。

だから夢ではない。

掃除機を使っていたら来客のブザーが鳴った。

玄関のドアを開けて、わたしはそのまま立ち尽くした。

あの男、夢の男、白衣の男がそこにいた。

初めて見た正面の姿。

でも、顔が……隠しているわけでもないのに顔の部分が判然としないその男は、靴のまま室内に入ってきた。

わたしは後ずさり、そして反転して背を向けて逃げた。

男の手がわたしの肩に触れた。

全身が竦んだ。

男の手の優しい温もり。

優しいのか、遠いのか、あるいは飾りがないのか、わたしは決められない。

ただただ、あの夢と同じだった。

同じ浮遊感。

わたしは、喉を切り裂かれたまま広大な砂漠に一人取り残されたような悲しみに襲われて、自分で自分の両肩を抱きしめた。

自分を抱きしめた手が男の手と重なった。

男はわたしの体を回して正面から向き合わせた。

果てしもなく、限りもなく、深くて、静かな、こんな目に見つめられて、わたしは、終わりのない砂のうねりを夢にみて、遠い記憶を抱きしめて、寂しさと密やかさの謎の狭間に揺れながら、重力を失った真空状態の中に引きずり込まれながら、思わず、吐息を漏らした。

「あぁ……ゆるして」

立ち昇ってくる懐かしさとせつなさにおののく。

とてつもなく長い歳月に触れたように、人知を超えた時の流れに打たれて、心のひだが震えた。

時、の流れ?

違う、時じゃない。

その記憶は、過去のようでもあり未来のようでもあり今この時のようでもあるが、そうじゃない。

それは、時の連続ではない。

連なる時のどこかで起こった記憶ではない。

それは、波が岸に打ち寄せ、その度に勤勉に沖へ帰ってゆく、その連続。

それは、風に流される砂が形作る砂丘の無限の連なり。

それは、満ち欠けを繰り返しながら人間の欲望を支配する月のセレナーデ。

時とは似て非なるもの。

わたしは男に抱かれた。

静かに深くわたしは抱き包まれ、

口の中に砂が混じってジャリジャリするところをみると、

どうやらわたしたちは海に来ているらしいとおもうのだが、

潮の気配は遠く、

砂のイメージだけが濃厚で、

ここは砂漠かしらと思いながら、

わたしは月下の砂上で男に抱かれ、

少しずつ男の重みで砂の中に沈み、

やがて二人の体は完全に砂の中に埋もれ、

その無重力の中でわたしは男を大切に味わい、

慈しみ、

深く深く感応してゆき、

そして男の肌に舌を這わせるごとに口の中に砂が増えて、

その砂を飲み込むのは不思議と不快ではなく、

砂の一粒一粒がプチンプチンと弾けて、

甘いバニラの霧になり、

その霧に包まれて、

やがて至福と歓喜のカタマリがおへその少し上のあたりで膨らみ、

熱を発し、

真っ赤に焼けて、

その熱いカタマリが全身に広がり、

毛細血管を駆け巡り、

すべての毛穴から理性が溶け出し、

ぐんぐん昇りつめ、

こんなに昇ってしまって足元が不安になってしまい、

でも上昇するわたしは止まらなくて、

どこまでもいつまでも昇りつめて、

そのあげく、

わたしのぷるぷる震える唇からその名前がこぼれ出た。

その名を連呼しながら、

その連呼に自らがさらに刺激され、

でも謎は謎のままで、

わたしの肉体はその周囲でさまよい、

温かさの意味も分からずに涙があふれ汗が噴き出し、

どんどん昂まり、

昂まって、

極まり、

四億年の塊が一気に押し寄せてきて、

すさまじい喜悦に顔が輝き歪むのが感じられて、

窓がわずかに開いていて、

月から吹き降ろしてきた風の、

びょうびょうと鳴り響く遥か彼方へと引き摺り込まれそうになるが、

じゅうりょくがどんどん失われ、

そのまま流れるまま流されてゆこうと身を任せた。

抱かれるわたしは、涙や鼻水やよだれや汗や他の体液でびしょ濡れだった。

顔はひどく歪んでいるし、全身が断続的に激しく痙攣しているし、どうしようもなくてしがみつくものが欲しくて、夫にしがみついた。

頬で頬を味わいむさぼり、果てる瞬間、子宮の底から声が飛び出した。

「いくおさんっ!」

びょうびょうと鳴る風音の中で、

夫が射精し果て、

わたしの胎内を精子が懸命に泳ぎ、

やっとの思いで卵子に辿り着く。

呼吸が落ち着いて、

わたしはおもう。

誰なの?


朝食は静かだ。

テレビは沈黙し、夫は新聞を読まない。

すべての音が無限の砂に吸い込まれる真空の静寂の中、わたしはたった一つのことだけを問い続けている。

 ……誰なの……。

ベランダで洗濯物を干す。

風が吹いて一枚のドレスシャツを連れ去る。

わたしはもの憂げにそれを見送る。

……いくおって……誰よ……。


夫がケーキを買って帰宅した。

何の記念日? と尋ねると、おでこをくっつけて、愛してると囁く。

一緒にお風呂に入って、した。

そのあと、リビングのソファで、した。

ベランダで火照った身体を風にさらしていると、背後から抱かれて、そこでした。

夫としている間、わたしはいくおのことばかり考えていた。

夫との現実がどんどん空虚なものになり、わたしの体内はいくおで満たされた。


妊娠が確定すると夫はわたしのお腹を気遣い、家事もさせてくれない。

食事の支度や片づけ、部屋の掃除、食べ物や日用品の買い物、洗濯、アイロンかけ、裁縫、切れた電球の交換。

夫は、輝く笑顔で深夜まで家事をこなしてくれる。

だからわたしはなにもすることがなく、ほとんどぼんやりと一日を過ごしている。

腹部が大きく迫り出してきた。

来客のブザーが鳴るが、立つのが億劫だ。

ドアを開けると、花束を抱えた熊が立っていた。

「お届けものです」

紫色のチューリップの大きな花束だった。

カードが添えてある。

 【from いくお with Love】

しばらく動けなかった。

お腹の底がズキンと疼いた。


クリニックで検査を受けた。

わたしのお腹の中で、モグラのようなものがもぞもぞ蠢いている。

今日も熊が花束を届けにきた。

紫色のチューリップはガラスの花瓶に生けてベランダの白いテーブルの上に置いてある。

わたしは古いチューリップを捨て、新しいものと交換した。

まだ捨てるほど古くはなっていないのだが、三日に一度送られてくるのだから仕方がない。


 朝食を作る夫に、

「ねぇ、今日はわたしが夕食を作るわ。なにがいい? ラビオラにしようとおもうんだけど」

と尋ねるが夫には聞こえなかったようだ。

ベランダに目を向けると、白いテーブルにいくおが座っていて、ガラス越しにわたしを見ている。

 夜、夫が帰宅すると、わたしはキッチンから声をかけた。

「おいしいラビオラ焼いてるからね」

聞こえなかったようで、夫はベランダの白いテーブルを見ている。

紫のチューリップは今日も新しいものと交換したばかりだ。

 わたしは焼きあがったラビオラをテーブルに運ぶ。

「できたわよ」

夫は玄関で靴を履いている。

どこかへ出かけようとしている。

「どうしたの?」

「ラビオラだって? ぼくがチーズ嫌いなの忘れたの? どうせ、いくおの好物なんだろ。それに、僕が贈った花はどこ?」

「ちょっと待って」

わたしは、リビングにとって返し、サイドボードにしまっていたカードの束を握って玄関に戻った。

それを夫に差し出した。

数十枚分を輪ゴムでくくった【fromいくお】のカードだ。

「なにこれ?」

 と夫が訊く。

「このカード、あなたなんでしょ?」

 とわたし。

夫はカードをめくっている。

何枚も、何枚も。

わたしを愛してくれる夫の愛の総量は、そのままくるりと靴下の裏表を逆にするようにひっくり返ってしまって、すべて愛の裏側に変換してしまった。愛の裏側に何があるのか、わたしはその時初めて知った。人の感情の最も暗い部分をいくおが刺激したのだ。チューリップとカードは夫の屈折した抗議であり警告なのだ。とわたしは思った。

今こそ、誤解を解かなければわたしたちは破綻する。

「こんなことやめて。いくおなんて人、ほんとに知らないの、何処の誰なのか、会った事も聞いた事もないし、どうしてそんな人が夢に出てくるのかわからない、わたし、頭おかしくなっちゃいそう、お願い、もうこんなことやめようよ」

夫はカードを一枚一枚、時間をかけて見つめている。

そうしながら訊いてくる。

「僕が贈った花は?」

「ベランダに」

「あれじゃなくて、黄色い薔薇だよ」

「……え……」

「ぼくが贈った黄色い薔薇だよ」

 この人、なにを言ってるんだろう。

「ぼくは、ずっと黄色い薔薇を贈り続けた。三日に一度。カードを添えて。店員が熊の着ぐるみで届けてくれるサービスを花屋がやっててさ。このカードだよ。僕の名前を書いて、バカみたいにね。でも、棄てられたって事か。花もカードも」

突然、

(このカードあなたなんでしょ)

という自分の質問の無意味さを悟った。

(いくおなんて人、ほんとに知らないの)

という自分の認識の嘘を悟った。

蛇のような泥鰌のようなぬるぬるした長い生き物が耳から入り込んで脳みそが浸かっている髄液の中を泳ぎ始めた。

次から次へとその長いものは耳から入り込んでくる。

 夫の声は遠い。

「で、勝ち残ったのがいくおのカードと紫のチューリップってわけだ」

わたしはのろのろと首を回し、ベランダを見る。

遠くから、遥か遠くから、夫の声が聞こえてくる。

「紫のチューリップか、なるほどね、花言葉は不滅の愛だってさ。fromいくおwith Love……はは……まったく、いくおさんは天才的な人妻キラーだね。負けた負けた。完敗だ」

わたしは亡霊を見るように紫のチューリップを見つめている。

 ……いくお……なにをしたいの?……

「で、いくおって、どこのどいつ」

夫が訊くが、わたしは、チューリップを見つめたまま、首を、横に、振る。

振り続ける。

「ふぅん」

夫は、けっして激しない。

そういう人だ。静かで優しくて誠実で……。

「これって、重大な裏切りだよ」

と夫は静かに優しく誠実に言う。

破滅へと導く死神がクスクス笑っている。

わたしは耳を塞いで目を閉じた。

夫の声は低く抑えられた。

「芽、君は裏切った」

硬く目を閉じたままのわたしは宣告を待つ。

長い間があって、告げられる。

「退場だね」

 死神が下唇を突き出して、ブーッ。


 赤ちゃんはバスルームで一人で産んだ。

お産で衰弱していた身体だが、どうにか出産一ヶ月後には体力は戻った。

そして、わたしの身体と同じように室内も荒れていることに気づいた。

食器は洗わずに放置され、様々なゴミで床は埋まり、ガラスは割れ、襖は破れ、インスタント食品の残骸で床は覆われていた。

なんて美しい滅びの風景かしら、とわたしは思った。

ダイニングテーブルの上に、郵送されてきた離婚届の書類が放置されてある。

夫の署名と押印。

わたしは息子のために遅ればせながらの誕生パーティを催すことにした。

ベランダで月下のティーセレモニーだ。

出席者はわたしと息子。

18階のベランダは風が強い。

白いテーブルの上の花瓶は倒れていた。

水はすでに枯れ、紫のチューリップは腐って原型をとどめず、錆びたテーブルと一体化していた。

わたしはティーカップをテーブルに置いて、息子を抱きあげた。

息子のうなじにはスターチスの花が連なり咲いている。

わたしはその痣に唇を押し付ける。

「幾生……」

幾生を高く掲げあやして、わたしは立ち尽くしてしまった。

幾生の向こうに月がある。

その紅い月の視線にわたしはとらえられてしまった。

目を逸らすことができなかった。

眉間から白い煙が立ち上る。

月から風が吹きおろしてくる。

びょうびょうと。

気流の鳴る彼方で幾生が笑っている。

赤ん坊の幾生なのか、白衣のいくおなのか判然としない。

室内に戻り幾生をベビーベッドに寝かせ、部屋の片づけを始める。

ゴミ袋に片っ端からゴミを放り入れ、食器を洗い、洗濯をし、掃除機をかける。

幾生と入浴し、ピカピカに磨き上げ、風呂からあがるとわたしは入念に化粧をし、お気に入りの洋服に着替える。

幾生を腕に抱き、パステル調の明るい居間を横切って、ベランダに向かう。

月からの風に髪をなびかせて佇む若く美しい母親、わたし。

ベランダは月光が降り注いで青かった。

夜景も青かった。

すべてが青い。

宙を見つめていたわたしの臓腑の深い所から濃くて暗くて腐った息のかたまりが、洩れた。

ふううっ。

わたしは幾生を抱いている腕を大きくスウィングして、幾生をベランダの外の青い夜に放り投げた。


リビングに戻った。

ゆっくりゆっくりリビングを歩き、玄関まで戻った。

ベランダを振り返った。

再び、濃くて暗くて腐った息のかたまりをひとつ吐き出した。

ふううっ。

スタート。

走れ。

短距離のスプリンターになれ。

両腕を大きく振れ、

胸を張れ、

腿を高く上げろ、

もっと高く、

九十度まで腿を上げろ、

床を蹴って前へ進め、

ダッシュ、ダッシュ、

全力疾走でリビングを駆け抜けろ、

ベランダが見えた、

次はハードルだ、

歩幅を整えろ、

右足を振り上げろ、

膝を曲げるな、

まっすぐ振り上げろ、

左足を腰の高さまで引き付けろ、

ひざと足首を直角に曲げるんだ、

腰の高さまで上げろ、

もっとだ、

そう、

その高さをキープしろ、

よしっ、

いいフォームだ、

そのまま手すりを飛び越えろ。


 わたしは青い夜にダイブした。

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