第一章 月の小舟
今朝も、目の玉の奥に見え隠れする風景がある。
……朽ちかけた小舟の中の枯れた梅と、顔は定かではないが、ふたりの老人らしい……首を切り裂かれて絶命している……血も乾き、もはや肉体に宿るものも無く全てが乾燥した極めて清潔な、月と砂漠の安穏で遠い風景……
おそらくそれはわたしたちの姿だとおもう。
でも、不吉とか怖いとは思わない。
それどころか、何かわけがありそうな死の風景に少し心が浮き立ったりする。
そんな風景を感じる時は目の玉の奥が軽く疼く。
後頭部を揉んでみたり、こめかみをぐりぐりしてみたりする。
でも、疼く所には手が届かないものだ。
八十歳にもなれば肩や首が錆びついてもおかしくはないのだから。
わたしは手拭いを帯の間に挟んだ。
肩を上下に動かし首もゆっくりと回す。
お湯の入った洗面器を両手で持ち、廊下を急ぐ。寝室の布団に正座した幾生(いくお)さんが、寝間着の上半身を脱いで待っている。
ラジオからニュースが流れている。
わたしは洗面器で手拭いを洗い、絞り、八十五歳の乾いた背中を拭き清める。
「あと何日もつか……」と幾生さんがため息交じりに言うので、わたしは励ました。
「そんな弱気をおっしゃらないで。しっかりしていただかないと治るものも治りません」
幾生さんのうなじから肩甲骨の下部にかけての三十センチほどの脊椎上に、たくさんの花が連続して流れるように咲いている。
脊椎に沿って発生した特殊な痣だ。
それは上から順に色を変えている。
うなじはしとやかに上品な紫、そこからほのかな桃色に変わり、肩甲骨のあたりでは黄色に変わる。
スターチスという花がある。
筒状に開いた紫、桃、黄色のがくの中心に白い花が咲く花だ。
幾生さんの痣はスターチスのよう。
わたしは素手を濡らして、美しく連なり咲いているその花びらを指先で洗い清めた。
「芽さん、何を勘違いしている。梅の話ですよ」
と言って幾生さんが庭の梅の木を見ながら苦笑した。
どこかで、うぐいすが鳴いたようだ。
遠くではかすかな潮騒。
その寄せて引く単調な連続音にわたしは少し眠くなる。
「よくなったら、また砂漠に出かけましょうね。はい、お立ちになって」
立ち上がった幾生さんの背後からわたしが寝間着を下ろす。
やせ細ったお尻、肢を丁寧に拭き清めていく。
その時、幾生さんが
「…ああっ」
と短い声を漏らした。
わたしも幾生さんの視線を追って、
「あら」
とつぶやいた。
遥かな空の高みから、梅の木の近くにタンッと音を立てて落下した物がある。
うぐいす。
ピクッと羽根を震わせ、動かなくなった。
わたしたち夫婦はそれを無言で眺めた。
「せきはいかがですか?」
と主治医の先生が聴診器を耳から外して幾生さんに問いかけた。
「もうほとんど」
と幾生さんは応える。
「食欲の方は?」
「おかげさまで」
先生は、(ふむ)とつぶやきカルテに何か書きこむ。
「先生」
と、今度は幾生さんが質問する。
「わたしは、あとどのくらいもちますか」
先生が苦笑してわたしを見た。
わたしは微笑を返す。
その笑みを確認して先生は率直に答えた。
「寿命のことは、わたしにはわかりません」
幾生さんは、うなずきもせずまっすぐに先生を見つめている。
「医者として言えるのは、軽い肺炎だということだけです。死に至る病ではありません」
幾生さんはそこに板でもさしているように背筋をまっすぐに伸ばしたままだ。
「今は胸の音もきれいですし、ほぼ完治と言ってよいでしょう」
先生はそう言って聴診器をナースに渡した。
幾生さんは庭に目を移し黙ってしまった。
わたしはナースに訊いた。
「喜代美さん、下宿探していたわね」
ナースの喜代美さんは、往診カバンに聴診器とカルテをしまいながら、
「ええ。なかなか見つからなくて困っているのです」
と応えた。
「うちでどうかしら。使っていない部屋があるのよ。年寄りと一緒じゃおいやかしら?」
「そんなこと。本当におよろしいのですか」
「どうぞ」
三日後の夜、八畳の和室に喜代美さんの荷が届いた。
質素な荷の量だ。
茶の間でわたしと喜代美さんはお茶を飲んだ。
喜代美さんは壁に架けられた額入りの写真を見あげて訊いてきた。
「おいくつの頃ですか?」
「六十年ほど前かしら。初めてふたりで撮った写真なの」
とわたしは応えた。
写真のふたりはピントが甘い。
これを見て、
「まるで幽体離脱のようですね」
と幾生さんはかつて言っていた。
「写真がとても珍しい時代でしたからね。それはもう緊張したわ。わたしたち、震えが止まらなかったのよ」
とわたしが言うのを喜代美さんは微笑で聞いている。
「もう怖くて怖くて。あれ以来、ふたりで撮ってないわ」
と言うと、
「え」
と喜代美さんは驚きあきれる。
「ずっと撮っていないのですか」
そこでわたしは声を潜めて神妙に言う。
「だって、写真ってタマシイ抜くでしょ」
像が幾重にもずれたふたりの写真は、その瞬間を見事に写し撮っていた。
タマシイを抜かれたばかりのふたりの表情は、惚けている。
「芽さんたら、おかしい」
喜代美さんの笑いの堰が崩れた。
ふたりで笑った。
その時、寝室から幾生さんのうめき声が起こった。
喜代美さんは職業的機敏さで部屋を飛び出した。
寝室では幾生さんが仰向けのまま嘔吐していた。
「いけない。吐いたものが咽喉に詰まっているようです」
そう言うと喜代美さんは躊躇なく幾生さんの口に自分の口を押し付けた。
吐しゃぶつを吸う。
吸い出したものをペッと吐く。
吸い出し、吐くを繰り返した。
十九歳の喜代美さんの舌が八十五歳の幾生さんの口腔の奥に出入りして幾生さんの口の中を掃除しているのが頬の動きでわかる。
わたしには遠くの潮騒が響いていた。
庭でわたしは雑草を抜く。
幾生さんは布団の中から壁の一点を見ている。
「…なんですか」
と幾生さんが言った。
「え」
わたしは雑草を抜くのに忙しい。
「なんですか、あれは」
「何がです?」
「あれですよ」
「あれではわかりませんよ」
「写真ですよ」
寝室の壁にかけられたふたりの写真。
わたしは黙々と雑草を抜いている。
幾生さんが不満気味に言う。
「あれは茶の間でしょう」
わたしは手を止めず応える。
「模様替えしてみたんですよ」
「ふうん」
と曖昧な息を漏らして幾生さんの写真への関心は失せ、天井を見上げた。
「お加減はいかがです?」
とわたしが訊くと、幾生さんはゆっくり起き上がって言った。
「もう床は上げていいです」
「はい」
着替えて寝室を出た幾生さんは、書斎で膨大な蔵書を吟味しはじめた。
わたしは、離れの風呂場で浴槽を洗う。
夜。
幾生さんと布団を並べて寝ていたわたしは、尿意を覚え布団を出た。
用を済まし手を洗っていると、庭から湯の音が聞こえた。
小窓を開けて庭を見た。離れの風呂場の窓が三分の一ほど開いていた。
喜代美さんの微かな鼻歌と湯気が、夜の庭に漂い流れている。
わたしはぼんやりとそれを眺めていた。
そのとき、喜代美さんの裸身の一部が、開いた窓から見え隠れした。
わたしは反射的に便所の明かりを消した。
闇の中で息を殺して風呂場を見つめ続けた。
遠い潮騒が風に乗って、すぐそばまで寄せて来た。
砂を踏みしめて歩く。
草履がきゅっきゅっと泣く。
口の中がざらざらする。
砂の丘が延々と連なる。
視界のすべてが砂だ。
遠くに幾生さんの後ろ姿を見つけた。
幾生さんはぼんやりと佇んでいる。
わたしは背後の牧村さんを振り返った。
「ほらあそこ」
牧村さんは破顔し、幾生さんを呼んだ。
「おおい」
振り返った幾生さんに、牧村さんが風呂敷包みを高く掲げた。
清酒だ。
わたしも小振りの籠を掲げた。
いくつかのぐい呑みとちょっとした肴が入っている。
砂漠で三人のささやかな宴を楽しんだ。
牧村さんが杯をあおってしみじみと息を吐いた。
「うまいな」
わたしもゆったりとした気分でお酒をいただく。
幾生さんは手に杯を持ったまま空を見上げている。
牧村さんが手酌で注ぎながら幾生さんを見て、首を傾げ、そして訊いた。
「首、どうした」
「ん?」
「その痣」
幾生さんはうなじの痣に手を触れる。
スターチスの花。
「あぁ、これか」
「昔はなかったな。どうした」
幾生さんはお酒を飲む。
のんびりと味を楽しんで、うむと呟いた。
「……風がな、吹いてきたんだ」
「風か」
「うむ。重い風だった」
「重いのか。それは厄介だ」
「あの夏の朝、気配に振り向くと重たい風が吹いて来た。地鳴りも一緒だった。あの山の稜線が大規模に光った。まばゆい光が炸裂して、周りの色彩は消え、不吉なキノコ雲が山の向こうに立ち昇っていた。帰らねばと思った。田舎道を急いでいると雨だ。ポツリ、ポツリと。次第に大粒になり、そして、黒い水滴が天から降って来た。開襟シャツは黒く染まり、首筋に黒い雨滴が付着し、痣になった」
「ふぅむ」
牧村さんはお酒を舐めながら考えている。
「風か」
そう呟いて手酌でお酒を注ぐ。
杯をあおる前にわたしを見て訊いた。
「芽さん。誰がこの世界を創ったか知っているかい」
「神様?」
とわたしが応えると、牧村さんはお酒を一口で飲み干して言った。
「ふむ。仏教ではそうは考えない。ブッダの思想体系であるアビダルマによれば、世界はサットヴァ・カルマンがつくる風によって生まれる、と考える」
わたしは相手にならないことにした。
肴に箸をのばす。
牧村さんはかまわず続ける。
「サットヴァとは、この世に生命をもって存在するあらゆる生き物を意味する。カルマンは、行為とか動作だ。まずなんの存在もない広く虚しい空間に、サットヴァ・カルマンのエネルギー、つまり、生きとし生けるものすべての、泣き、笑い、歓び、怒り、善、悪、それらのエネルギーが働き出す。すると、どこからともなく微かな風が吹き起こる。この風が世界のはじまりだというのが仏教の考えなんだ」
幾生さんが指を首筋に回し、痣を撫でている。
牧村さんは山の稜線を眺めて言う。
「人間の業というものが、風を起こし、世界を創る。と、まぁこういうわけだな」
わたしたち以外誰もいない。
どこまでも。
地の果てまでも続くと思われる砂の連続。
わたしは砂漠が好きだ。
どうして好きなんだろう。
これ以上美しい場所は他にあるだろうかとおもうのだ。
生命の気配はなく、厳しく拒絶し、すべてが死に絶えたこの清潔な美しさにわたしは魅了されるのだ。
のんびりと砂漠を見渡していた牧村さんが言った。
「ところで、今日の風はどうだ。極めて心地よい。完璧な風光だ」
「そうね。とても穏やかで、気持ちがゆったりしてくるわ」
わたしはそう応えた。
官能的な丘のうねりと風紋をかすめて飛ぶ砂粒が、わたしの耳元でささやく。
穏やかな潮風は実は震えているんだよ、と。
どうして震えているの。
穏やかすぎるからさ。
砂漠が大きすぎて海は見えないけれど、寄せては引く潮騒の存在感は強い。
そして青空は笑い、白い雲は物思いにふけっている。
優しい陽光は毛布のように暖かくわたしたちを包み込む。
静かでのどかな春の日。
そこを鳥が駆け抜ける。
去り際に、鳥は短い言葉を一つ落としていく。
こんな風の日は気をつけて、と。
「死ぬにはもってこいの日だな」
牧村さんが朗らかにそう言った。
幾生さんもわたしも、共感の微笑で風景を眺めた。
牧村さんは前方を見据えて誰かを呼んだ。
まるで目の前の砂にその人が座っているように。
「薫さん」
ここにはいない女性の名前を聞いて、思わずわたしは牧村さんを見た。
幾生さんも、杯を下ろして牧村さんに訊いた。
「誰だい? 薫さんて」
わたしはすぐに思い当たった。
「おたくの女中さんでしょ?」
牧村さんはそれには応えない。
まるで手紙を朗読するように話し始めた。
「薫さんは十八、わたしは八十五。年の差は六十七か。できるなら、年六十を投げ捨てて、可愛いあなたと恋をしてみたかった。とはおもえども、なんといってもかなわぬ恋です。このおもい、とうていかなわぬ。残念です。ひどく残念だ。人生の最後の最後におもいを残して去る事になるなんて。身悶えするほど残念でなりません。とはいえ、あなたは将来のある身、これから素敵な恋をすることでしょう。幸せにおなりなさい。嫉妬をしてもしようがない。わたしは人生の大先輩だからね、鷹揚に構えていましょう」
幾生さんは苦笑している。
酔ってるなという風にわたしを見るがわたしは笑えなかった。
牧村さんの告白は続いている。
「この一年間、わたし、とても幸せだった。これほどの年になれば、いつでも死ぬ準備はできているものだが、あなたに恋をして、一分でも一秒でも生き続けていたいと思った。わたし、家内以外の女性に、これほどのおもいを寄せた事は一度もなかったのです。これほど激しいおもいなど、わたしの人生には見当たらない。それが、ほんとうに、胸が張り裂けそうなほどあなたに恋をしてしまった。人生とはなんと素敵なものなのか。しかし、燃えるような恋をした瞬間、寿命も尽きつつあるとは。人生とはなんと皮肉なものか、なんと残酷なものか、なんと人の心を弄ぶものなのか。安心して死ぬ事のなんと難しい事か。薫さん。あなたの笑顔。美しいえくぼの笑顔を見ると、わたし、はらわたもちぎれんばかりだった。夜具の中でぴたりと寄り添い、睦まじく囁きあい、死の直前まで男女の契りに溺れたかった。……あぁ……薫さん……今度生まれかわったら、必ず必ず、あなたと結ばれるよう祈っています。必ずや生まれ変わって……」
牧村さんは、残りの言葉をお酒と共に飲み乾した。
わたしは、牧村さんから目を離すことができなかった。
幾生さんは、ぐい呑みを手の中で弄んでいる。
しばらくそうした後に口を開いた。
「うちで呑み直そう」
牧村さんは、酔いが覚めたように応えた。
「いや、もう失敬する」
「泊まっていけばいいだろう。わざわざ出て来てくれたんだ」
と幾生さんが引き止めるが、
「帰らねば」
と固辞した。
「そうか。では、車を呼ぼう」
「いや、駅までぶらぶら歩くさ」
わたしたちは、砂漠の入り口で牧村さんと別れ、帰宅した。
風呂場の前の井戸で手と脚の砂を洗い流した。
わたしはひどく疲れていた。
茶の間に座り込むと、普段の何倍もの重力に押しつぶされて、物おもいに沈んでしまった。
幾生さんも縁側で物おもっていた。
門の外に自転車が止まり、声がした。
「電報です」
幾生さんが玄関に向かった。
ほどなく電報を開封しながら茶の間に入って来てわたしの前に座った。
電文に目を走らせ、玄関を振り返り、わたしを見、立ち上がって玄関の方へ行きかけてやめ、数歩行ったり戻ったり、しばらく砂漠の方角を眺め、茶の間のわたしを見下ろし、声をかけようとしてやめ、縁側へ数歩戻り……
つまり、きわめて緩慢な右往左往をしていた。
と思ったら突然、庭に走り出た。
あとを追ってわたしも庭に出る。
幾生さんは梅の木の下に佇んで泣いていた。
涙を拭おうともせず、わけがわからないという風に首を振る幾生さんにわたしは尋ねた、いえ、確かめた。
「牧村さん、亡くなりましたね」
「どうしてわかりました」
幾生さんは驚いてわたしを見た。
「なんとなく。そう感じたの」
幾生さんが電報を差し出しながら言った。
「四時間前に、首を吊ったそうです」
そして、呆然と呟いた。
「……どうなっている……ついさっきまで一緒だったのに」
わたしは長く息を吐き、目を瞑り合掌した。
牧村さんの葬儀から戻ったわたしたちは、喪服を着替えることもなく茶の間でぼんやりとしていた。
わたしがお茶を淹れていると、幾生さんは庭に降りて梅を眺めている。
結局、わたしだけがお茶を飲み、幾生さんは先に休んでしまった。
夜も更けて、すっかり寝入っている幾生さんの隣でわたしはなかなか眠れなかった。
玄関の鍵を開ける控えめな音が聞こえた。
喜代美さんが帰宅したらしい。
寝室前の廊下を足音を潜めて喜代美さんが行く。
したしたしたした。
和室の襖が開き、喜代美さんが座り込む。
ふぅっ、とため息。
衣服を脱ぐ衣擦れの音、長く。
寝間着を着て帯を締める。
きゅっ。
やがて、部屋を出て行く気配。
庭石を踏む下駄の音。
風呂場の戸が開き、しまる。
遠くで、湯と桶の響き。
幾生さんがわたしの方へ寝返りを打つ。
わたしは、天井に顔を向けたまま寝たふりをする。
こちらをうかがっている視線を頬に感じる。
幾生さんは静かに起き上がり、寝室を出て行く。
わたしはゆっくり十まで数えて起き上がる。
寝室の襖を顔の幅ほど開いて辺りをうかがう。
庭の風呂場の窓は半分ほど開いていて、湯気が庭に漂い出ている。
その湯気の向こうに喜代美さんの裸身が見え隠れする。
闇に目が慣れてくると、梅の木の下に身体を小さくして風呂場の窓を覗き見ている幾生さんの姿がある。
じっと息を潜めて、喜代美さんの裸を食い入るように見ている。
喜代美さんの入浴が終わると、幾生さんは身体を小さく震わせて夜霧を振り払い、梅の木を離れた。
寝室へは戻らず、書斎へ向かった。
わたしは寝室を出た。
幾生さんは憔悴して書斎のロッキングチェアに座り込んでいた。
膨大な蔵書が、天井まで届く書棚に隙間なく収められてある。
わたしは書斎の入り口から幾生さんを盗み見ている。
幾生さんはロッキングチェアから立ち上がり、書棚から一冊抜き出した。
読もうとするが集中できないようだ。
洋酒をグラスに注ぎ、舐めた。
どこか遠くをさまよっている自分の心を探すように、探しても見つからないかのように、幾生さんの目の玉は不安そうに小刻みに揺れている。
夜は静かに眠り続けていて、この世にはわたしと幾生さんしか存在しない。
そのとき、書斎の入り口に立っているわたしの横を小さな影が通り過ぎた。
それは幾生さんの背後に歩み寄った。
気配に振り返った幾生さんは、驚き、困惑した。
「……誰だいきみは。どこから入ったの」
少年だ。
学生服を着た坊主頭の、十二、三歳の少年だった。
顎を上げて目の前の幾生さんをまっすぐ見上げている。
蜜の甘味も冷たい雨に打たれる辛さも知らない無辜な目をしていた。
少年は詠った。
「薫さんは十八、わたしは八十五。年の差は六十七。できるなら、年六十を投げ捨てて、可愛いあなたと恋をしてみたかった」
幾生さんはうろたえた。
「な、なんだ、きみは!?」
少年は、まだ声変わりを迎えていない柔らかな黄色い声で応えた。
「おれは、もうすぐ賽の河原を渡らねばならん。最期の別れに来た」
そう言って少年は蔵書を眺めながら歩き始めた。
「……まさか。ばかな」
幾生さんはそう呟いて頭を振り、目を瞬いた。
夢なら覚めろと。
「賽の河原には大勢のこどもがいた。成仏できないこどもたちがな。その一人の身体を借りてきたんだ」
と少年は言う。
「おれの身体は……なんというか……空気の塵のようなものになってしまったから」
「……きみは……本当に、牧村なのか」
悲しすぎるほど茫然としている幾生さんに、少年は微笑で応えた。
なんの杞憂もない、青空に嘘なんかあるはずがないと信じる笑顔だ。
「生まれ……変ったのか……」
と幾生さんは重ねて訊いた。
「それはこれからだ。今はただの幽霊にすぎん」
少年はそう言うと、一冊の分厚い洋書を書棚から抜き出した。
ページをめくり、読み始めた。
言葉を発しないし、幾生さんを見ることもない。
本に没頭している。
幾生さんが理を捨てるまでの長い間そうして待っていた。
やがて、幾生さんが口を開いた。
先ほどとはうってかわって柔らかくしみじみとした口調で少年に語りかけた。
「見事に、死んだな」
「まあな」
と少年は本から目を上げて言った。
「なぜだい。例の若い女中さんかい」
と訊かれると、少年は深く微笑んだ。
幾生さんは何か考えるように天井を見上げ、指を折って計算するようなそぶりをした。
「そうか、今生まれ変れば、年の差を十八にまで短縮できるわけだな」
わたしも計算をしてみる。
確かに、今生まれ変わればそうなのだが、牧村さんは赤ん坊じゃないの。
幾生さんもそれに気づいたのだろう。
バカな計算をしたものだと恥じ入った表情が見えた。
そこで矛先を変えた。
「……で、どうなんだい」
と訊く。
「なにがだ?」
と少年。
「死んで、どうだい。あの世はどうだい」
「それはわからん。俺はまだこの世だ。あっちには今夜あたり渡ることになるだろう。行ってみんことにはわからん」
「生まれ変れるのかい」
「さぁな。実際のところ、それもわからん」
「ふうむ」
「今は、なにもわからんのだよ」
少年はそう言うと手にした本を書棚に収め、他の本を吟味するようにぶらぶらと歩き始めた。
そして、
「何もわからん、何もかも不明な状態だ。だが、死んでみて、一つだけ明確にわかったことがある」
幾生さんは、こいつ何を言いだすのだろうと、首を少年の方へ突き出した。
「だから、いっそのこと、もう生まれ変わらなくてもいいかなと思い始めている」
と少年が言う。
女中さんとの年の差を縮めるために牧村さんは自死したというのに、死んだら気が変わったという。
幾生さんはすぐには質問したり相槌を打たない。
ここは間を空けるべきだと幾生さんは考えたようだ。
そう思わせるほど清冽で確信にみちた光が少年の目に宿っていた。
何か、とてつもないことが死んだ牧村さんに起こったのだ。
幾生さんは、それを負の方向に解釈したようだ。
「想像と違ったか。死んだことを悔いているのか」
と幾生さんが訊く。
「そうではない。逆だ。死んで頓悟した」
「……とんご……ああ、悟りか。一気に悟ったというのか」
「いや、悟りとはまた違うな。そう。体験したんだ。体感とでもいうか。明らかに、わかったんだ。我、発見セリ、ユリイカだ!」
「聞かせてくれ」
「死んでみると、俺は俺だが俺ではなくなる」
「禅問答だな」
「まあ黙って聞け」
「うむ」
「死んだ後、薫さんをおもったんだ。するとたまげた」
「どうした」
「思った途端、俺は薫さんになっていた」
「……ん…よくわからんな」
「薫さんと同化していた。薫さんの内部に俺はいた。薫さんの目線で世界を見ていた」
「………」
「恋愛の究極は、個が溶け合いひとつになることだというが、そういう観念的な話ではない。実際に俺が体験した具体的な事実だ。思っただけでその人になる、その人そのものになれる。この体験に比べたら、この世での恋とか愛などは小学生のママゴトだ。そんなレベルの話じゃない。彼女とひとつになりたいという思いが、死んだら完璧に実現する。実際の現象としてだ」
わたしは、少年牧村さんが放った言葉の意味を考えてみる。
幾生さんも、当の少年までもがじっと今の言葉を反芻している。
そんな長い時間がすぎて、再び少年が口を開いた。
「もったいないとおもったんだ。こんなことは、この世の生身では不可能だ。つまり、生まれ変わってしまって物質としての肉体に戻ってしまったらこんな体験はできないことになる。だから、生まれ変わらなくてもいいかなと思い始めている」
「霊だからこその体験ということか」
「うむ」
「ずっと幽霊でいるというのか」
「それはわからん。自分の意思で今の状態を維持できるのか、三途の川を渡ってあの世に行かねばならないのか、閻魔様に相談しなくちゃならんだろうな、気が重いよ」
と少年牧村さんは苦笑いするのだが、幾生さんは瞬間移動の話に取り憑かれてしまったようだ。
「なぜだ。なぜそんなことが可能なのだ。おまえはそれを合理的に説明できるのか」
少年は、今度はほとんど考えることもなく即答した。
「死んで、重力から解放されたからだとおもう」
「……重力……」
「死ねば完全に質量ゼロ、物質的には無になる。添加物なしの純粋の無であり何のしがらみもない、それが死んだ後の自分だ。いや、自分という意識や感覚さえ無だ。つまり、自我ゼロ。無重力は自我をとことん薄める。ゼロにまで。だからこそ、そんな状態だからこそ、相手をおもうと途端に瞬間移動して相手になってしまう。自我がないからだ。自分を縛るものがないからだ。だから、何にでもなれてしまう。どこにでも行けてしまう。論理が飛びすぎるだろうが、合理的ではないだろうが、俺はただ体験したことを報告しているだけだ。体験したからこそ即答できる。重力だ。重力に支配されて、わたしとあなたという関係が絶対的に存在し、物質に支配されたこの世では、真の恋愛は不可能なのだという事実を、俺は見つけたんだ。ユリイカ!」
重力………。
じゅうりょく………。
「わからん。哲学なのか、物理なのか。重力から解放されるというのはどういうことなんだ。まさに、生きて重力の影響を受けているわたしには分かるわけがないということか」
幾生さんはそう言って苦く笑った。
唐突に、少年が明るく訊く。
「いいものだろう?」
「何がだ」
と、浸っていた思考を破られた幾生さんが首をかしげる。
さらりと少年は話題を転換した。
「若い娘の裸だ」
幾生さんは油断していた。
驚くと同時に恥かしさに居たたまれない風だ。
抗議をしようと少年に一歩踏み出すが、何も言えない。
何を抗議すべきかわからない。
少年を指さし、その指を振って、訴えようとするが、言葉が出てこない。
何を訴えるべきなのかわからない。
しまいには顔を伏せてしまった。
少年は踏み台に乗って本を抜き出して、読み始めた。
目を本に落としたまま少年が言った。
「あの娘に惚れたか?」
幾生さんの伏している顔がみるみる朱に染まった。
耐えがたい侮辱にこれ以上我慢ならないと、顔を上げて激しい目で少年を見あげた。
すると、すでに少年は踏み台の上から幾生さんを見おろして待ち受けていた。
幾生さんはその視線にうろたえて怒鳴ってしまった。
「おまえとは違う!」
「どう違う」
少年の声は低く冷静だ。
どう違うのか、幾生さんは応えられなかった。
屈辱に目を伏せた。
少年は別の本を繰る。
さして本に興味があるわけではない。
幾生さんは目を伏せたまま呟いた。
「……湯を浴びる若い女の滑らかな肌の上を水玉が走り流れていく……わたしが見たのはそれだけだ」
少年は踏み台を降りて、豪華な革張りのロッキングチェアに深々と座った。
肘掛に腕を乗せて、脚をぶらぶらさせて、裁判官のように威厳を保ち、幾生さんの陳述を聞く姿勢になった。
幾生さんは続ける。
「……それだけのことだ……惚れた云々ではない」
たったそれだけ言って幾生さんの陳述は終わった。
少年はまだ幾生さんを見つめている。
幾生さんは目を伏せた。
沈黙に耐えられず、洋酒の瓶に手を伸ばした。
少年が口を開いた。
「で?」
「ん?」
少年の透徹したまなざしに促された幾生さんは完全に気おされて、
「……だから……わたしはそのように認識した…それだけだ」
と言った。
「認識か……お前らしい」
少年の目が悲しい色に染まった。
「まだわからんのか。認識なんて、重力そのものじゃないか」
それを聞いて幾生さんの顔が歪んだ。
泣き顔になった。
幾生さんは、少年の視線に怯えている。
少年は容赦がなかった。
「おまえは娘の裸を覗きながら勃起していた」
幾生さんは甚だしくうろたえた。
そして、怒気鋭く叫んだ。
「な、なんだ!」
少年の目は静かだ。
「勃起したという事実を受け入れろ」
幾生さんは、興奮して少年に歩み寄った。
震えていた。
「な、なんなんだ、おまえ!」
少年の胸倉を締め上げた。
「死んでまで、わたしを辱めに来たのか!」
「いけません、あなた!」
わたしは思わず叫んでいた。
幾生さんは、壊れたゼンマイ仕掛けの人形のようにきょときょとと周りを見回し、そしておそるおそるわたしを振り返った。
書斎の戸口に立つわたしと目があった。
幾生さんは滑稽なほど驚いて数歩後ずさった。
わたしは幾生さんの屈辱をいたわって優しく声をかけた。
「ほとけ様にそんなことなさっちゃバチがあたります」
「……いつから……そこに……」
幾生さんの声はかすれていた。
「ずっとです。お庭から」
幾生さんは惨めなほどうろたえ、羞恥と屈辱の汗を流した。
柱時計が鳴った。
とても長い時間に感じた。
時計の音が鳴り止んだ時、少年の姿は消えていた。
かすかな風が書斎を吹き抜けた。
その風に諭されるように幾生さんはロッキングチェアに身を沈めた。
わたしはというと、手を合わせて拝んでいた。
翌日、喜代美さんが仕事に出かけたのを見計らって、物置から道具箱を持ち出して作業を開始した。
庭の風呂場の外壁板のちょうど良い高さに節があった。
キリを突き刺して節をくり抜く。
くり抜いてできた穴の周辺にノミを当てる。
木槌でノミを小さく叩く。
息を吹きかけて木屑を取り出す。
さらにノミを当てる。
その作業を繰り返して穴を広げていく。
縁側に幾生さんが突っ立っているのが目の端に見えた。
何をしているのかとは訊かない。
訊けない。
わたしは、風呂壁の節穴を器用にくり貫き、丁寧にノゾキ穴をこしらえている。
気持ちが妙に浮き立ってくる。
「若い身体はそれだけで美しいんですもの。わたしだって覗きたくなりますよ。恥ではありません」
それは皮肉でも慰めでもない。わたしの本心だった。
それを聞いて縁側の幾生さんがどんな顔をしているのかわからないし関心もない。
今、わたしは穴づくりに没頭しているのだから。
穴の内側にヤスリをかけ、とくに覗き口は目を傷つけないように丁寧に丸みをつけた。
「できました。すごいでしょ。がんばったでしょ」
縁側の幾生さんを見ると、いたたまれない風情でぼんやりしていた。
いたたまれないのなら、さっさと書斎にでも行けば良いのに、いつまでもそこにいてわたしの作業を見ている。
だからわたしは、
「覗いてみますか」
と訊くが幾生さんは無言のままだ。
しようがない。わたしが覗くことにする。
覗き口に目を当てると。
大丈夫、まつ毛は当たらない。
浴室の洗い場も視界良好だ。
わたしは自分の仕事に満足した。
縁側の幾生さんを振り返って宣言した。
「完璧です」
幾生さんは顔を歪めた。
今までそんな表情を見せたことはない。
昨夜、あの少年にやり込められたときみせたのがわたしが見た最初だ。
たぶん、幾生さんにとっても初めての経験だったのだろう。
初めてだからどんな顔をして良いのかわからない。
わからないから歪んでしまう。
幾生さんは、
「どうしてあなたはそんなに無邪気なんです。その無邪気はわたしをとても傷つけるというのに」
そう言って、書斎へ去って行った。
夜、喜代美さんが風呂場へ向かったので、わたしは幾生さんにささやいた。
「さ、早く」
幾生さんは、布団の中で頑なに背を向けている。
「愚図愚図しているとお風呂からあがってしまいます」
「いやです」
と幾生さんは声を潜める。
「そんなことおっしゃらないで、さ、早く」
「もういいんです」
わたしは正座し、指をついて畳にひたいを押し付けた。
「お願いします。じゅうりょくを超えてください」
幾生さんは寝返りを打ってわたしを見た。
長くて深いため息をついた。
眉間の皺が深かった。
幾生さんは裸足で庭に降りた。
足音を消して風呂場に歩み寄る。
穴に近づくと腰をかがめて外壁の節をそっと抜く。
穴に目を近づけ、覗く。
這いつくばって。次第に覗きに没入する。
その姿を、わたしは襖の隙間から覗いている。
じゅうりょく……と念じながら、目を閉じて幾生さんが見ている光景を想像してみる。
湯気に霞む丸い視界の中に、喜代美さんの裸身が見え隠れする。
肩から浴びた湯が、ふくよかな曲線に添って流れ落ち、若い肌が水滴をはじき、はじかれた水滴が、乳房やへその窪み、ふとももを伝って走る。
美しい。
幾生さんの額の汗が流れ、目に落ちる。
それでも穴から目を離せない。
美しいからだ。
わたしたちは一緒に喜代美さんの肉体を愛でているのだ。
わたしは幾生さんに褒められたような気がした。
目を開けて庭を見ると、幾生さんの肩が大きく上下している。
息が荒い。
唾をしきりに飲み込んで喉の奥をしめらそうとしている。
咳が込み上げてきているらしい。
幾生さんは手で口を覆い咳を押し留めているが、ついに「ひぃ」という情けない声が口から漏れた。
浴室内の音が止んだ。
幾生さんは激しくうろたえている。
浴室の内と外で息を潜め合う。
壁一枚を隔て、気配を探り合う。
窓が、静かに、おそるおそる開く。
喜代美さんが、不安気に庭を伺う。
と、その表情が安堵に変わる。
わたしが庭の踏み石を急ぎ足で風呂場に向かっているからだ。
「わたしもご一緒していいかしら?」
と言うと、
「ああ、びっくりした。芽さんでしたか。ええ、どうぞ」
と喜代美さんが応えた。
わたしは風呂場へ入る寸前、ちらりと窓の下を見た。
無様に這いつくばり、隠れようもないのに必死に隠れようとしている幾生さんの姿が見えた。
蟲みたい。
じゅうりょくに押しつぶされた蟲みたい。
その蟲を、わたしは生命の底から愛おしいと思った。
わたしが歩く。
その前を幾生さんが歩く。
砂漠を散歩する。
夕方は風が凪ぐから少し歩こうと言い出したのは幾生さんだ。
それなのに今日にかぎって強い風が吹いてきた。
びょうびょうと。
相変わらず誰の気配もない砂漠は、いくら歩いてもついに海にはたどり着けないだろう。
幾生さんが振り向いた。
「どうしてそれを持って来たんです」
今日のわたしは、四角い風呂敷包みを背負っている。
「遠いところに捨てようと思いまして。幾生さんもお好きじゃないでしょ、このお写真」
タマシイを抜かれたあの写真を今日こそ葬るつもりだった。
幾生さんは意味を込めずに頷いて再び歩き出した。
「あら」
とわたしが呟くと、幾生さんも足を止めた。
防砂林の奥に火葬場がある。
「あんなところに焼き場があったんですね」
と幾生さんが言った。
十代の前半らしき少年が働いているのが見える。
かまどの灰をスコップでかき出して畑に撒いている。
「小学生かしら。よく働くわね」
その少年が、こちらに気づき、ぺこりと頭を下げた。
幾生さんは手を軽くあげて応え、わたしは腰を折って返礼した。
さらに歩いて行くと、砂漠に朽ちかけた小舟があった。
幾生さんがわたしを振り返って、
「砂漠に舟です」
と言った。
わたしは、
「渡りに舟ね」
と応える。
幾生さんは顔を崩した。
つまり、上等の笑顔だということ。
珍しいことだ。
「この舟で何を渡るのかね」
と幾生さんが面白そうに訊くので、
「そうねえ……三途の川かしら」
とわたしは応えた。
幾生さんの顔は、さらに崩れて、出会って史上、最高の崩れ方をした。
小舟の中で休むことにした。
舟の縁に写真を立てかけた。
風が、梅のひと枝を運んで来た。
花が一輪咲いていた。
「あら、ちょうどいいわ」
その梅の小枝を写真に供えた。
風は次第におさまり、入れ替わりに霧が出てきた。
わたしは、小舟がすっかり霧に包まれるのを心地よく感じていた。
甘い霧だった。
砂のうねりはもうすっかり見えない。
夕日が霧を紅く染めて、聞こえるのは遠くの潮騒だけ。
そして幾生さんのゆっくりとした呼吸。
心地よいバニラの静寂が世界からわたしたちを守ってくれている。
突然。
幾生さんが泣きはじめた。
涙と鼻水で顔を濡らし、知性が歩いていると若い頃から人に言われ続けてきたその端正な顔を大きく歪ませ、こどものように泣きじゃくる。
バニラの霧が八十五歳の男の身体にまとわりつく。
霧は幾生さんの肌を舐め、涙を吸い、髪を撫で、抱きしめる。
幾生さんは泣きながらウンウンと何度も首を振って頷いている。
わたしはそれを眺めていた。
まるでお能か歌舞伎を鑑賞するように長い間。
鳴咽が落ち着くと、幾生さんはひとつ咳払いをして声の調子を整えた。
そして、
「もう人間には生まれたくないです」
そう言った。
わたしは霧の向こうを眺めた。
「いくおさん」
幾生さんは応えない。
それはわかっていたのでわたしは続けた。
「死にましょうか」
幾生さんは、わたしを見た。
泣きはらした目で、申し訳なさそうに言う。
「芽さん、わたしのせいで捨て鉢にならないでください」
「いいえ、わたしは幼い頃から捨て鉢なんですよ。だって生きるのって、今わたしたちが乗っているような頼りない小舟に揺られて、とても大きな海を渡ってゆくのですから、じたばたしたってしようがないでしょ、流れるまま流れてゆこうという風に幼い頃からおもっていましたのよ」
わたしがそう言うと、幾生さんは(ああそうでしたね)と呟いて薄い微笑を浮かべた。
「だからときどき、芽さんは艶めかしく見えるんですね」
そして、幾生さんは居住まいを正して言った。
「わかりました。芽さんの提案に賛同します。死にましょう」
わたしたちは今、砂漠のふたり。
「幾生さん、もしまた人間に生まれ変わったら、また一緒になっていただけますか」
「ええ。なりましょう」
「ほんとうに?」
「芽さんとなら、また出会いたいです。本当なら、もう人間には生まれたくないのですけどね、でも、芽さんと一緒なら耐えられるでしょう」
幾生さんは、考える仕草をした。
「でも、ほとんどの人が過去の記憶を消されて生まれてくるといいます。生まれ変わって姿が変わっていても芽さんとわかるだろうか。芽さんも、わたしを見つけられますかな」
「ですから、わたしが幾生さんを殺します」
幾生さんは、わたしを見つめたまま無駄に考え込んでいる。
今のわたしの言葉の意味を解く鍵は、幾生さんの頭の中の膨大な蔵書の中にはないのに。
だからわたしは続けた。
「わたしが幾生さんを殺せば、あなたには強い想いが残るでしょ。その想いに導かれて、きっとまた会えるわ」
「殺されたという憎しみだけが残っているかもしれませんよ」
と幾生さんは言う。
「憎しみがいいんです。生半可な思いよりも強烈ですから。記憶がなくても無意識に引かれあうとおもうわ。なんとなく、という感じですね。そうでなければ、たとえ街でこんな近くですれ違っても、気づかずにそのまま遠ざかってしまって何億年も出会えなくなるかもしれませんもの」
「何億年もですか」
と、幾生さんは考えている。
「永遠の星の彼方に遠ざかってしまうのよ」
わたしがそう言うと、
「それは、むなしいですね」
と幾生さんはため息を漏らして考えている。
霧の向こうにその答えがあるとでもいうように、霧の永遠を見つめている。
そして、のんびりと口を開いた。
「で、どうやってわたしを殺しますか」
「どうしましょう」
わたしは人を殺したことなどないから、どうすれば人が死ぬのかなんてわからない。
幾生さんは、ちょっと考え、自分の頚動脈に指を伸ばした。
「ここを……しばらく押さえておけば死ぬでしょう」
「そうなんですか」
とわたしが言うと、幾生さんは小舟の中で仰向けに横たわり、見えない月を見上げて言った。
「ずっと大昔から、今夜、この満月の夜、わたしはこうなるように決まっていた。何億年も前から、芽さんに殺されるように決まっていたんですね。いま、無性にそんな気がします」
わたしも月を見上げた。
霧の層が邪魔していて月など見えるはずがなかったけれど、満月は確かに見えていた。
目の玉の奥では、はっきり見えていた。
「では。失礼します」
わたしは、そう言って幾生さんの首に手をかけた。
幾生さんが教えてくれた箇所、頚動脈のあたりを圧迫した。
幾生さんは目を閉じて安らかに死を待っている。
でも、次第に息が荒くなってきた。
胸をせり出した。
身体を捩る。
これではいけないと思ってわたしは大胆に幾生さんに跨って首をぎゅうぎゅう絞めつづけた。
幾生さんは苦痛に暴れる。
「だめ、暴れちゃだめ、早く逝って」
わたしは必死にすがりつく。
幾生さんは足掻き、もがき、じたばたして、暴れる。
脚が写真の額縁を蹴ってガラスが割れた。
ついにわたしを振りほどいた。
起きあがって肩で大げさな息をして言った。
「ああ、死ぬかと思った」
船底に置いたわたしの薬指が何かに触れた。
額縁のガラスの破片。
幾生さん、一緒にじゅうりょくを超えましょ。
わたしはガラスの破片をしっかり握り締めた。
幾生さんが、ぼんやりとこちらを見ている。
わたしは右手をまっすぐに伸ばして幾生さんにぶつかった。
ガラスの破片を幾生さんの首筋に突き刺した。
手首に強い衝撃を感じた。
ガラスを刺したまま、そこを支点にして体全体を投げ出して首を横に切り払った。
その勢いで船底に転がった。
喘いで首をのけぞらせて空を見上げると、見えた。
月だ。
霧が、月の周りだけ晴れていた。
紅い月。
よかった、月が見てくれている。
わたしの顔に生暖かいしぶきがふりかかり、ますます月は紅味を増していく。
砂漠の小舟の中で仰向けになったわたしは、さっさとガラスを自分の首に刺した。
突き刺した腕はそのまま支持点にして、体だけごろりと回転させる。
首の皮と肉と血管とがぶちぶちという音をたててちぎれていく。
死んだらどうなるのか牧村さんは教えてくれた。
今、わたしは死んだようだけれど、これが、じゅうりょくがなくなるということかしら。
でも、幾生さんはどこにもいない、幾生さんのことを思ったけれど、幾生さんにたどり着けない、気配もない、ああ月だわ、もうこうなったらわたしは月夜を渡る、あそこへ行く、行きたい、そう思った瞬間、夜空の彼方、紅い月の、静かの海のあたりに、わたしはいた。
牧村さんは正しかった。
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