第三章 月下の翡翠



 いつの頃からか眼球の裏側が疼くようになった。


わたしが学内のゴミ集積所の横にさしかかると、院内から回収されたゴミを収めたコンテナの中に風車が一本立っていて、風にカラカラ回っている。

傍のベンチには作業員らしき女性が一人座っている。

パーカーのフードをすっぽりかぶったままの姿で、肘を太腿に当てて、ひどく不自然なほどに上体を前屈させた姿勢で微動だにしない。

その不思議で頑なな背中が印象的だったのだ。

彼女は一本のスプーンを手にしている。

先端がグニャリと奇妙な形に曲がっている。

奇妙な形というのはつまり、一回りして結び目ができていたのだ。

わたしは歩きながら彼女から目が離せなかった。


道は緩やかにカーブしていて、彼女の姿が視界から消えると、わたしは左手に持っていた小さな標本ビンを右手に持ち替えた。

ビンを太陽に透かす。

液体が満たされ、そら豆ほどの白いまりものようなものが浮遊している。

わたしはビンをそっと白衣のポケットに滑らせると、実習が行われる附属病院へ向かった。


新生児室のガラス越しにふた組の家族が覗き込んでいる。

幸福な風景だ。

産科の女性講師は、わたしたち学生に講義する。

「母胎の中で小さな胎児が何かを思い出したように、突然脚を突っ張ったり、体をくねらせたり、ときには指のおしゃぶりを始めたりします。また、まだ目も開かない赤ん坊が、突然、何かに怯えて泣き出したり、何かを思い出したようににっこり笑ったりもします。そんな時、彼らは母の胎内で見残した夢の名残を見ているのだといいます。さぁ、質問。どんな夢か?」

学生たちはリアクションに困る。

胎児が見る夢を医者が把握する必要があるのかという反応だ。

ほとんどは苦笑とも失笑ともつかない表情でスルーしているが、中にはスマホに(胎児の夢)と入力して調べている真面目なのか手抜きなのかわからない学生もいる。

講師はべつに答えを待っているわけでもなく、少しタメを作ると高らかに言う。

「答え。進化の夢です。我々は何処から来て、何処へ行くのか。胎児がその答えを知っています。ね、産婦人科って奥が深いでしょ」

わたしは、白衣のポケットに入れたビンを布の上から撫でた。

進化の夢、これをリアルに感じているのはここにいる学生の中でわたしだけだろう。


わたしは医学部を卒業したら臨床医師ではなく、研究職に就こうと思っている。

テーマは生命記憶である。

主任教授に提出した進路選択レポートには、「人のDNAには遥かな太古の彼方からの累積されてきた記憶が刻み込まれているはずで、その記憶を遡って生命誕生の秘密や、その逆に遠い未来の生命の行く末を解き明かしたい。それはとりもなおさず医療の進歩という狭い範囲にとどまらず、哲学や宗教などの分野にもなんらかの答えを導くことができるのではないか」とちょっとカッコつけて書いたのだが、わたしの本心はと言えば、ただただその記憶と添い寝したい、それだけなのだ。

わたしは過去とか未来を解き明かしたいなんてさらさら思っていない。

それは、わたしが時というもの、時の連続というものを信じていないからだ。

太古の記憶は時の連続とは無関係にわたしの中に存在している。

わたしの中、あるいはわたしの横、あるいはわたしの前、後ろ、宿命の恋人に寄り添うように古代記憶はわたしに寄り添って、お互いを生きているのだ。


白衣のポケットに手を突っ込み、わたしは伏し目がちに硬く薄い背を少し丸めて猫背で歩く。

大学構内の中心にある池をぐるりと周る遊歩道を歩き、ゴミ集積所まで来て、ふと立ち止まる。

あの女性がまだベンチに座っている。

パーカーのフードをすっぽりかぶったままの姿で。

その不思議な背中はそのままだった。

苦悩がむき出しでそこにある、という感じ。

突然、女性の背中が緊張した。

こちらの気配というか視線を感じたようだ。

背中で探っている。

ゴクリと唾を飲み込んで、心を整える様子が見て取れる。

不自然な体勢のまま首だけ回して振り返った。

おそるおそるわたしを見た。

そこにわたしがいるのを半ば予想していたかのように、わたしを見た。

そして、彼女の顔はこわばる。

わたしも眼球の奥が疼く。

わたしたちは見つめあった。

お互い、目を逸らすことができなかった。

しばらくして彼女が先に口を開いた。

「お医者さんですか?」

「いえ、医学部の学生です」

 とわたしは応えた。

「助けてください」

「どうしました?」

「わたしの身体の中に、魚が棲んでるの」

再び、わたしたちはみつめあう。

今度はわたしが応える。

「大丈夫ですよ」

彼女はじっとわたしを見つめている。

なおも強く求めてくる瞳に、わたしは応えた。

「わたしも、同じような魚を体内に飼っていますから」

彼女の指先、グニャリと曲がって結び目を作っているスプーンが指から離れ、地面に落下し渇いた音を立てた。

その瞬間……つまり、スプーンが地面に激突し、その激突音の余韻が消えるまでの一瞬の間、わたしの脳内にパルスが走った。

眼球の奥深くが短く鋭く痛み、一瞬苦痛に顔を歪めた。

彼女は、そんなわたしの表情を観察するように凝視していた。


研究室の棚には様々な標本ビンが並んでいる。

どのビンも、ホルマリン溶液の中にそら豆ほどの白いまりもが浮遊している。

彼女はそれを見て歩いている。

わたしは、素足にスリッパをつっかけて、のんびりと顕微鏡の準備をしながら話しかけた。

「実習で初めて出産に立ち会った時、羊膜が裂けた途端に胎児が飛び出してきたんです。わたし、羊水のしぶきをもろに顔にかぶっちゃって。その瞬間、不思議な気持ちになったんです。なんだろう、うまく言葉にできないんですけど、ただ、直感的に、羊水というのは古代海水の面影を宿したものだと思いました。その中に漂っている頃の事を、一瞬思い出したんです」

彼女はぼんやりとわたしを見て言った。

「思い出したって、母親の羊水の中にいる頃のことを?」

「いえ。古代海水の中を泳いでいた頃です」

「いつごろの話?」

「四億年くらい前かしら」

と言ってわたしは笑うが、彼女は考え込んでいる。

わたしは顕微鏡にシャーレをセットし、ファインダーを調節しながら言った。

「今から四億年前、わたしたちの祖先は海から次々と陸へ上がってきたんです。そこからおよそ一億年をかけて魚類から両生類、爬虫類、そして哺乳類へと進化してきました。知ってますか? 人間の胎児は、羊水に漬かっている間、あの古生代の一億年を、わずか数日で再現するんです。どうぞ」

 彼女にファインダーを覗かせて、わたしは続ける。

「受胎三十二日目の胎児です。エラがあるでしょ。古代魚類の時期です。わたしたちの祖先は、エラを持った魚だったんですね。この子は体を張ってそのまぎれもない事実を訴えています。この魚でしょ?」

「そう。わたしの中に棲んでいるの、この魚」

「みんなの体の中に棲んでいるのに、すっかり忘れられてしまっている可哀相なおさかなさん」

わたしはそう言って、白衣のポケットから標本ビンを取り出した。

その中に浮遊する最新の胎児をピンセットで採取し、シャーレの上に置き、顕微鏡にセットする。

胎児の顔が正面からアップになる。

「これが受胎三十八日目。魚類から必死の思いで環境に適応して、やっと原始哺乳類にまで進化しました」

 おそらく、顕微鏡を覗くわたしは、母親の顔になっているだろう。

「海と陸の間を、想像の域をはるかに超えた長い年月漂泊し続けてきたのね。このまま行こうか、やっぱり海へ戻ろうか、って……長い長い迷いの旅だった……」

わたしは胎児に囁きかけながら、彼女に替わった。

彼女が観察している間、わたしは室内をぶらぶら歩いた。

ファインダーを覗く彼女は、目をうっとりと濡らして呟いた。

「……全てを知ってしまった、という顔だわ」

「はい。すべてを知っているんです。胎児はお腹の中で、四億年の全ての記憶をおさらいするんです。でも、生まれる瞬間、その記憶は羊水といっしょに流れ出てしまいます。全てを知った上で、全てをリセットして生まれてくる」

顕微鏡から離れた彼女は部屋の隅まで行き、椅子に座った。

わたしに背を向けて、ひどく不自然なほどに上体を前屈させた例の姿勢で微動だにしない。

その不思議で悲しい背中にわたしは声をかけた。

「……大丈夫?」

彼女の背中は震えている。懸命に何かに堪えている。

「わたし……リセットされていないの」

「……え?」

彼女の表情はよく見えない。

わたしは、震える背中を見つめていた。

「わたしの細胞のひとつひとつに、生命の記憶が激しく宿っているの。それがとても激しくて……」

言いながら彼女の呼吸は長く深い。

「それが時々うずくの。四億年分の記憶がうずく」

「……苦しい?」

とわたしは気遣う。

彼女は深い呼吸を繰り返しながら全身を捩る。

何かを絞り出すように、指を組み、両腕をぴんと伸ばし、絞るように捻じり捻じり捻じり尽くす。

絞り出されたのは、言葉だ。

「なつかしいの……ふかぁあああく、なつかしい」

わたしは息を飲んだ。

眼球の奥がチチッと痛む。

記憶のパルスが走った。

「……あの……」

何かを言おうとするのだが、イメージが、言葉が、具体にならない。

じれったい。

一番近くにあった言葉を選んだ。

「ひょっとして、どこかで……お会いしました?」


彼女が椅子から立ち上がり、わたしの前まで歩み寄ってパーカーのフードをとった。

彼女は翡翠だった。

髪は翡翠色で少年のような可愛い刈り上げショート。

切れ長で奥二重の涼しい目も同じ色、翡翠。

その深緑の瞳の中には音楽がある。

翡翠の中に息づく小さな耳は桃色で儚い。

鼻梁は大理石のように冷たく透明だ。

無邪気で熱くぽってりとしていて性的なものを感じさせる唇がアンバランスに調和している。

上品な翡翠と透き通るような白い肌と整った顔と立ち姿。

超自然的な水晶の結晶のような美しさに、わたしは半ば感動しながら言った。

「すみません、わたし忘れっぽくて、初対面じゃないですよね。わたし、芽といいます」

「幾生よ。幾たびも生きると書いて、いくお」

彼女は視線を逸らさずに名乗った。

おそらくわたしより二、三歳年上かもしれないし、それ以上かもしれないし、ひょっとしたら年下かもしれない。

典雅な落ち着きが年齢の推測を不可能にしていた。

わたしは記憶を探りながら言う。

「…いくおさん?……思い出せないわ。ごめんなさい」

そう言いながらも、会ったことがあると確信していた。

でもどこで、いつ?

わたしのDNAの生命記憶が疼いているとしか言いようのない不確かな確信。

幾生が手を伸ばして、わたしの手に触れた。

指ですっと手の甲を撫でた。

わたしは笑って手を引っ込めようとする。

幾生はそれを力を込めて握り止めて囁いた。

「もう少し触っていたいの」

ゴミ集積場で目と目があって、眼球が痛くなり、この研究室で会話を交わし、自己紹介しあって、指が触れる。

一時間も経っていないのに。

もちろん時間の問題ではないのだが、わたしは困惑していた。

幾生は、わたしの指に触れて

「とても、なつかしい」

と囁く。

なつかしい?

やっぱりどこかで会っているの?

幾生の手がゆっくりとわたしの手を包む。

「やっと見つけた」

そう幾生はつぶやいた。

わたしは弾かれたように手を抜き取って逃げようとした。

でも幾生が一歩前に出て逃げ口を塞いだ。

標本棚に押し付けられた。

幾生はまばたきもせずまっすぐにわたしの目を見つめている。

この至近距離の意味を考えた。

賭けとか冒険という言葉が現れて消えた。

消えずに残ったのは危険という言葉とひりひりする感覚。

動悸が激しくなる。

最後にこんな動悸を感じたのはいつだったろうとぼんやり考えて、こんなことはかつてなかったと気づいた。

過去に何人かの男性と付き合ったが、どの時も常識的な動悸だった。

でも今は、動悸のたびに体が溶け出していきそうになる。

発熱した肉体が液体になり、それでも熱さは冷めず、気化していく。

翡翠の瞳に見つめられて、わたしは恋におちてしまった。

とてつもない恋に。

目の前の幾生を見たい、見ることのできない幾生を見たい、すべての幾生を見たい。

一瞬にして幾生はわたしの認識の遥か彼方に存在していた。

目を閉じた。

それを合図に幾生の唇がわたしの唇に触れた。

そっと柔らかく。

そのままじっと触れていた。

もどかしくてわたしは薄眼を開けて見た。

幾生の目は開いていた。

薄目のわたしをじっと探っていた。

観察していた。

わたしは吐息混じりに囁いた。

「ずるい」

幾生はほんの少し目で笑うと、わたしの上唇を唇で優しくはさみ、舐め、吸い、やがて舌を入れてきた。

わたしはうろたえながらも身を托した。

突然、幾生が唇を離した。

勢いで、わたしは前のめりに求めに行く。

幾生が舌をゆっくりと延ばし、わたしの舌も延び、ふたりの舌の先端どうしが微かに触れ、次の瞬間、激しく絡み合う。

背骨の神経をかきむしられたような衝撃が走り、わたしはのけぞった。

スリッパは脱げ、素足の指は強い力で土踏まずの方へ引っ張られたままだ。

幾生の舌にわたしは翻弄された。

手玉に取られ、掌で踊らされ、してやられ、操られ、いいようにされた。

わたしはすでに腰も膝も背骨も抜けて幾生にしがみつくばかりだ。

幾生が、パーカーを脱いだ。

薄いTシャツ一枚。

ノーブラの胸のあたりの布を乳首が突き上げている。

わたしは、唇と舌で幾生の喉をなぞる。

ゆっくりと耳に向かい、うなじに達した。

幾生のうなじから脊椎にかけてたくさんの花が美しく連なり咲いている。

スターチスの花のような痣。

その花に唇を触れ、吸った。

柔らかく、優しく、ちゅっ。

その瞬間、幾生が短く細くピアニッシモに鳴いて、

わたしの白衣を握り締め、

スローな痙攣を繰り返しながら伸び上がり、

そしてゆっくりと、

おちた。


わたしのマンションのバスルームは白くて広い。

猫足のアンティークな陶器の白いバスタブ、白い陶器の便器、干してあるわたしの医療用白衣、いくつかの白いものたちがぽつんと存在するだけの白い空間が気に入ってこのマンションに決めたのだ。

今、バスタブの中には体を重ねたわたしと幾生がいる。

幾生はわたしの唇に舌をするりと侵入させ、わたしの舌をなぶる。

わたしが、

「今まで何人とキスしたの」

と訊くと幾生は少しのあいだおもいだすように考えて、

「一万人ぐらいかな」

と真面目な顔で応える。

キスをしながら、幾生の指がわたしの肌の上を遊ぶ。

滑るように。

探るように。

焦らすように。

のろのろと中心に迫ってくる。

わたしの全身が猛烈に幾生を欲し、さらに激しく唇にむしゃぶりつき、耳たぶをかむ。

うなじに咲くスターチスの花。

その花びらを食べるように唇でむしゃむしゃする。

幾生の指が、わたしのすべてのくぼみを愛撫する。

指の腹で、

爪の先で、

手のひらで。

やわらく、

鋭く、

鈍く。

脇の下、

へその周り、

膝の裏、

足の裏、

背骨の節に沿って。

その度にわたしは何度も湯の底に溺れそうになる。

ふたりの陽気な歓喜の声は浴室に響き渡り、わたしたちは湯の中を泳ぐように動いて、体を密着し絡ませる。

幾生がわたしの両脚を広げ、

肩に担いで、

その中心に顔を埋め、

わたしは唇をかみ、

悲鳴を上げ、

さらに幾生の指が、

わたしの中に挿入され動き始めると、

何度も腰をしならせ、

さらに指の律動は激しく爆発的なまでに高まり、

わたしは、飛び跳ねる魚のようにバスタブを激しく揺らし、

見上げた小さな窓の向こうの月が激しく痙攣し、

月が震え、

揺らぎ、

星はスパークし、

残像が空一面に流れ、

わたしは月に見られながら、

月に見せつけながら、

成層圏を突破し、

一気に真っ白い空間にポンと飛び出し、

眼球の裏側の奥深くに浮かぶ月に向かって激しく叫んだ。

「ゆるしてっ!」

その瞬間、わたしの眼球がクルッと反転し白目を剥き、まぶたが細かく痙攣するのを感じる。

激しいイメージが猛烈なスピードで展開する。

……砂漠……鮮血……紅い月……白衣の男に……抱かれる……落ちて行く……落ちていく目から見た月……青い月……

それらのイメージに、幾生の甘い囁きが子守唄のように重なる。

「四億年前、あなたは太古の海から地上に立ったのね。その時、最初に見たものは何かしら。見上げた空に、月はあったのかしら。氷のような満月? ナイフのような三日月? その時の、ぞくぞくした気持ち。今でも覚えてる?」

わたしは幾生の子宮に入りたい。

そこで身体を丸めて静かに眠りたい。

幾生の頬を頬で感じながらわたしは切なく鳴いた。

「わたしたちが愛するのは、その時から決まっていた事なの?」

でも幾生は、悲しい顔でわたしを見つめるだけ。

そして、

「今夜、かえる」

と言う。

「もう電車ないよ」

とわたしが引き止めるのに、幾生は静かな表情で、

「かえらなくちゃ」

 と小さく、でも潔い声で言うのだ。


 ゆるやかに、砂の尾根が、うねる。……風と砂が、官能的なやわらかな砂紋を作る……なめらかな斜面を、びょうびょうと風が渡る……街の夜景が青く、遠い……その青さの中をゆっくりと落下する……ささやきの中を落ちていく……夜景の天地が逆になる主観映像の中にわたしがいる……月の眺めに見とれながら、落ちる……

押し殺したうめきがわたしの口から漏れる。

自分の声で目が覚めた。夢を見ていた。

息が荒い。

額に汗の粒が浮いている。

わたしはベッドの中にいた。

遠くでカランと、乾いた音が聞こえる。

砂漠の朽ちた舟に、風に流されてきた枯れ枝がぶつかる音か。

再び、カラン、遠くで小さく響く。

落下する途中、目の端を通過したどこかの階の窓に吊るされた備長炭の風鈴の奏でる音か。

もう一度、カラン。

その瞬間、悟った。

いつが始まりで、それがどこなのかわからない。

でもわたしと幾生は、どこかの宇宙の二人だけの場所で、何らかの「最悪」を経験している。

そのことが互いの間に強力な引力を生み出している。

だから出会ったのは必然なのだということを頓悟した。

 カラン。

 見えた。

白く広いバスルーム。さっきまで幾生と愛しあっていたバスルーム。

見えたとたんにわたしの身体は縛られた。

身動きができないまま見続けた。

猫足のアンティークな陶器のバスタブの中に、幾生が首まで湯につかっているのが見える。

小ぶりで硬い右の乳房には、わたしが吸って吸って息の続く限り吸い続けた結果の、赤黒い吸引性皮下出血の痕が残っている。

幾生はスプーンをひょいと放り投げる。

タイル床に落ちる。

カラン。

床に当たる直前、宙でスプーンはグニャリと曲がる。

同じように曲がったスプーンが床にたくさん散乱している。

バスタブの底には思念前スプーンが沈んでいて、幾生はそれを一本一本つまみ上げては無造作に放り投げる。

すると生き物のように曲がるのだ。

カラン。

最後の一本を放り投げた幾生は、腹の底から息を吐いた。

ふぅう。

バスルームには洗濯したての医療用白衣が一着干してある。

高い位置にある小さな窓からは月が見える。

幾生はバスタブから出て、洗面台の下に放ってあるザックに手を突っ込み、タオルにくるんだものを取り出した。

拳銃。

それを手に、再びバスタブに身を横たえる。

首をコキコキとストレッチし、一つ深く息を吐き、口の中に銃口を突っ込み、さっさと引き鉄をひいた。

スターチスの花が散り、そこから血と脳漿が飛び散り、吊るされた白衣に前衛的な模様を描いた。


わたしを縛っていたものが解けた。

でもわたしはベッドから起き上がることができなかった。

叫ぶこともできなかった。

心の底が抜けて、そこから何かが流れ出している。

それはおびただしい量の記憶なのか。

流れ出るにつれてわたしの身体はゆるゆると縮んでゆく。

風船人形の空気が少しずつ漏れてしぼんでいくような感覚を意識しながら、受験が終わって大学に入学するまでの春休みにポルトガルに出かけたことを思い出していた。

十八歳のわたしは、リスボンの坂道を登り下りしながらサウダーデというポルトガルの言葉について考えた。

この言葉は色々な表情を持ち、その意味を正確に表現する日本語は見つからないらしい。

出発する前に読んだ事典にはこう書かれてあった。

「サウダーデとは、自分が愛情、情愛、愛着を抱いている人あるいは事物が、自分から遠く離れ近くにいない時、あるいは、永久に失われ完全に過去のものとなっている時、そうした人や事物を心に思い描いた折に心に浮かぶ、切ない、淋しい、苦い、悲しい、甘い、懐かしい、快い、心楽しいなどの形容詞をはじめ、これらに類するすべての形容詞によって同時に修飾することのできる感情、心の動きを意味する語である。もともとの語源はラテン語のsolitateという言葉で、孤独を意味する」

大学に入って医学を学び始めたわたしは、リスボンで購入したアマリア・ロドリゲスのCDをiTunesのプレイリストに登録し、ほとんど一日中繰り返し聴きながら、眼球の裏側の奥深くに生まれる疼きに耐えていた。

そう、いつからだろう、わたしは心のどこかにサウダーデな感情を抱えて生きてきたのだ。

それだけなら孤独と憂鬱に浸る少女にありがちな癖(へき)だが、わたしのそれは感情や癖というよりもリアルな体験の記憶らしかった。

らしかったとしか言いようがない。

意味も正体も理由もわからず、眼球の奥の疼きとともにそれは気ままにやって来て勝手に去って行くのだから。

わたしが医学部で「生命記憶」を目指すのもその辺りに理由があるのかもしれない。

そんなことを思っているうちにもどんどんわたしの身体は収縮を続け、サウダーデが流れ去り、その語源のsolitateつまり孤独も流れ落ち、わたしを形作るものが徐々になくなってシンプルになってゆく。

腕も足も胴体も首も頭もアイスクリームが溶けるように流れ落ち、最後に眼球が一つ残った。

やだ、目玉おやじじゃん。

でもそのおやじも眼圧の均衡が崩れて急速に萎れてしまう。

内部を満たしていた液体が流れ出し、ゼラチンやら糸のような神経束やら血管やら肉片らしきものも溶けて流れて、一粒の水滴が残り、ああわたしが終わっちゃう、と思っていたらそこにふわりと着地した一匹の蝿によってわたしであるその水滴がチュルッと吸い取られてしまった。


わたしは蝿の内部にとり込まれたが、蝿に訊くと、彼女は蝿ではないらしい。

「似て非なるものよ」

と彼女は言う。(どちらの性か、あるいは両性なのか確かめたわけではないが)

初対面の礼儀としてわたしは自己紹介をした。

「わたしは芽ですけど、あなたは?」

「ガスペグ」

 とすぐに応えが返ってくる。

「それは蝿とか犬とか生物の分類上の名前? それとも太郎とか花子という個体名?」

「わからない」

「親とか兄弟とか家族は? 恋人はいる? 性別は?」

「そのどれも、おそらく必要ないわ」

「どこに住んでいるの?」

「ずっと上の方」

彼女のアルゴリズムよりもわたしのそれの方が少しだけ複雑らしいので(複雑だから優越性があるというわけではないのだが)、わたしが主導権を取らせてもらうことにした。

主導権というよりも、わたしのしたいようにして良いということらしい。

そんなわけでわたし、芽=ガスペグは、開いた窓から外の闇へ飛び出し、深海から浮上するようにずっと上の方へ向かって羽ばたいた。

月へ。

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