エメラルドの海と見積書

 翌朝、羽田空港に赴いた由香里は、ロビーで友人2人と落ち合った。学生時代のサークル仲間である詩織しおり菜摘なつみだ。再会するのは半年ぶりで、まるで女子大生に戻ったかのように手を取り合ってはしゃぐ。

 それから飛行機に揺られること約3時間。3人はようやく那覇空港に到着した。降りた瞬間、むわりとした熱気が顔に降りかかったが暑さなんて何のその。空港に飾られたハイビスカスの花がリゾート気分を盛り上げ、3人の興奮は辺りの熱気に負けないほど高まっていた。

 バスに乗ってレンタカー乗り場まで行き、車を借りたところで3人は最初の目的地に向かって出発した。本島北部にある古宇利島こうりとうだ。

 古宇利島は那覇空港から車で1時間半ほどかけたところにあり、沖縄県内でも最も美しい海が見られる島として知られている。ターコイズブルーとエメラルドグリーンがグラデーションを描くその光景はまるで宝石が散りばめられているようで、あの海の中で泳げたらどんなに気持ちいいだろうと由香里はワクワクしていた。

 由香里が青い海に思いを馳せていると、不意に無機質なコール音が社内に鳴り響いた。由香里は顔をしかめて鞄をまさぐった。課長に言われて渋々持ってきた社用携帯の画面が光っている。由香里はため息をつきながら通話ボタンを押した。


「……もしもし?」自分でも驚くほど不機嫌な声が出た。


『あ、東さん? 原田です。今沖縄っすよね? すいません旅行中に……』


 通話口から原田の声がした。いかにも申し訳なさそうな口調だったので由香里は感情を和らげた。


「ううん。それよりどうしたの? 何かあった?」


『いや、大したことじゃないと思うんすけど、吉村課長が東さんに確認しろって言って。東さん、M社から見積書の提出頼まれてたんすよね? それがまだ届いてないって先方から督促があったらしくて』


「見積書? 確かに頼まれてたけど、あれは確か20日が締切だったはずよ」


『はい、依頼書確認したら締切は20日って書いてあるんすけど、他社はもうみんな提出してて後はうちだけらしいんすよ。だから出来れば早く提出してほしいって連絡があって』


 それなら最初からもっと早く締切を設定すればいいではないか。由香里はそう文句を言いたくなるのをぐっと堪えた。


「……わかったわ。休み明けに最優先でやるから、遅れてしまって申し訳ないと先方に伝えておいて」


『了解です。すいませんホントに』


「いいわ、原田君のせいじゃないから。じゃ、切るね」


 由香里はそう言って通話を終えたが、どこか釈然としない気持ちが残っていた。締切を過ぎたわけでもないのに、どうしてこちらが謝らなければいけないのだろう。


「由香里、大丈夫? 何かトラブル?」助手席の菜摘が振り返って尋ねてきた。


「ううん、ちょっとした確認。見積書がまだ届いてないって督促があったらしくて」


「え、でも締切前なんでしょ? なのにわざわざ休み中に連絡してきたの?」菜摘が怪訝そうに眉根を寄せた。


「あたしもそう思ったんだけど、課長が確認しろって言ってきたみたいなんだよね。夏期休暇明けに対応しますって引継書に書いてたはずなんだけどな」


「それ、読んでないんじゃない?」運転席の詩織が口を挟んだ。「何かあったら担当者に聞けばいいと思ってるのかも」


「でもあたし今夏休みなんだよ? 緊急のことならともかく、見積書くらいで連絡してこなくたって……」


「うーん、世代が違うのかもね。あたしの上司もそうだけど、あの年代は休日返上で会社に尽くしてきたタイプだから、休みの日でも連絡に応じるのが当たり前なんだよ、きっと」


「でも大変だね。今の感じじゃ、また何回か電話かかってくるんじゃない?」菜摘が気の毒そうに言った。


「いや、大丈夫だよ。後輩の子、すっごい申し訳なさそうにしてたし、そう何回も電話してこないでしょ……」


 そう言いながらも由香里は不安が募っていくのを感じていた。原田だけなら、よほどの緊急事態でもない限り連絡してくることはないだろうが、その裏には吉村課長がいる。詩織の言葉が本当なら、由香里が夏期休暇中だろうが構わずまた電話をかけさせるだろう。

 由香里はうんざりしてため息をついた。沖縄の海を前に弾んでいた心には、今や暗雲が垂れ込め始めていた。




 それから30分ほど車を走らせ、3人はようやく古宇利島に到着した。写真で何度も見たエメラルドに輝く海が眼前に広がっている。

 詩織と菜摘は興奮してスマホのシャッターを押しまくっているが、由香里は不思議と熱狂する気持ちにはなれなかった。旅行前には飽きるほど写真を眺め、この美しい光景を拝むことを心待ちにしていたのに、今こうして念願の海を前にしても何の感動も浮かんでこない。


「由香里、大丈夫?」


 由香里がぼんやりしているのに気づいた詩織が尋ねてきた。由香里ははっとして顔を上げると、取り繕うような笑みを浮かべた。


「うん、ごめんね。せっかく沖縄来たのに、こんな顔してちゃ駄目だよね」


「さっきの電話、やっぱ気にしてるんだ?」菜摘も会話に加わった。


「……うん。一週間も休んで迷惑かけてるんじゃないかと思って……」


「そりゃ、自分の案件他の人に対応してもらうのは申し訳ないけど、その人が休んだ時には自分が代わりに対応するわけだし、お互い様じゃない?」


 菜摘の言う通りだ。誰かが欠ければ誰かがそれを埋める。それが会社というものだ。だから休むことに遠慮する必要はないのだが、誰かが困っている現状を目の当たりにするとどうしても罪悪感が生じてしまう。


「由香里、あんまり気にしない方がいいよ。別にミスしたわけじゃないだしさ」


 詩織が慰めるように言った。由香里は頷いたが、それでも後ろめたい気持ちは晴れそうになかった。

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