社会という現実

 重い足を引き擦るようにして会社に到着したところで、同じように疲れた顔をして帰ってきた男とエレベーターの前ではち合わせた。同期の須田彰すだあきらだ。

「よう山内、お前も今帰り?」

「うん、結局契約取れなかったけどな。そっちは?」

「やーダメだね。今日もあとちょっとってとこまで行ったんだけどさぁ。お宅の洗濯機まだ使えますねって言ったら、それじゃあ買い換える必要ないわねって言われちまって」

 彰が後頭部に手をやった。彰も直樹と同じ営業職だが、成績はいつも直樹とビリを争っているような状況だ。人懐っこい性格のため相手の懐に入っていくのは得意なのだが、余計なことまで喋ってしまうせいか、契約は一向に取れていない。

「あーあ、毎日毎日嫌んなるよな」彰が天井を仰いだ。「好きでもない仕事やって落ち込んで、それで上司に嫌味言われて。やっぱり頑張って教師になればよかった」

 彰は元々教師志望だったが、採用試験に落ちて民間への就職に切り替えたとのことだった。教師への未練は未だにあるようだが、だからといって試験を受け直す気まではないようだ。

「まぁしょうがないだろ。俺らはそれで金もらってるわけだし。クビにならないだけマシだと思わないと」直樹が窘めるように言った。

「そうだけどさぁ……。何か不安にならない? 俺らいつまでこの生活続けるんだろうって」

「別に……。社会人なんてみんなこんなもんだろ。やりたいこと仕事に出来てる奴の方が少ないんだよ」

「はー、相変わらず達観してんなー! でも俺はそこまで割り切れねぇな。やっぱもっかい教採受けようかなー」

 彰のその言葉自体はもう100回以上聞いているが、実行に移したことは一度もない。他の可能性にすがることで、停滞しきった現状から少しでも目を背けたいだけなのだ。

 そんな会話をしているうちにピンポーンという音がして、到着したエレベーターの扉が開かれた。これから部長に報告に行かなければならないと思うとますます気が滅入る。彰もさすがに軽口を引っ込め、どう言い訳をしようかと頭を巡らせているようだ。まるで地獄への門のようなその扉を、二人はのろのろとした足取りで潜った。


 夜、人通りの少ない住宅街、申し訳程度の街灯しかない薄暗い道を、直樹はコンビニの袋を片手に歩いていた。軋むマンションの階段を登り、鍵を開けて塗装の剥げた扉を開く。

 部屋の電気を点けると、今朝家を出た時のままの光景が広がっていた。流しに突っ込まれた食器、床に脱ぎ出された洗濯物。いくら疲れて帰ってこようが他に片づけてくれる人はいない。毎日のことながら直樹はうんざりしてため息をついた。

 時刻は夜21時。いつものように20時頃まで残業をして、電車に揺られ、途中でコンビニに寄って帰ってくるとどうしてもこんな時間になる。それで晩飯を食べたり風呂に入ったりしていたらあっという間に23時を回る。趣味を楽しむ余裕などあるはずがない。

 部屋着に着替えたところで買ってきたコンビニ弁当を取り出し、レンジでチンする。3分ほど経ったところで弁当を取り出し、スマホを片手に食べ始める。日課になっているLINEのチェックをすると、2件新着通知が来ているのが見えた。


『久しぶり、元気?』


 付き合っている和美かずみからだ。直樹はもう1通のメッセージに視線を走らせた。


『芝公園の桜、満開みたいだよ。今度の土日どっちか見に行かない?』


 和美とは、大学のバイト先である飲食店で知り合った。年齢は自分よりも1つ下で、地元の中小企業に就職して今年で2年目になる。お互いが社会人になってからも月に2回のペースで会ってはいたのだが、最近は向こうも忙しいのか連絡が滞りがちだ。それでもこうして時々は連絡をしてきてくれるから自然消滅には至っていない。

 直樹は壁に掲げられたカレンダーを見上げた。今は4月の第1週目。異動やら何やらでどこの会社も否応なしに忙しい。そんな状況の中でも、和美はこうして自分を花見に誘ってくれた。かつての直樹なら、そんな心遣いを嬉しく思うはずだった。

 だが、直樹が実際にしたのはこんな返信だった。


『せっかくだけど止めとく。人多そうだし』


 芝公園と言うのは地元にある公園で、ちょっとした花見の名所として休日になると多くの家族連れが訪れる。ただでさえも仕事で疲れているのに、わざわざそんな人混みの中に行って余計な疲れを背負い込みたくなかったのだ。

 他のSNSなどもチェックしていると、5分くらい経ってから和美から返信がきた。


『了解。仕事大変だもんね。また落ち着いたら行こう』

 

 絵文字も何もない、無機質なメッセージ。落ち着く時が本当に訪れるかもわからないし、あったとしてもその時にはとっくに桜は散ってしまっている。和美だってそのことはわかっているけれど、角を立たせないためにこういう言い方をしているだけだ。

 直樹はしばらく携帯の画面を見つめていたが、やがて居たたまれなくなってそっとスマホの電源を落とした。

 和美には申し訳ないと思っている。忙しい合間を縫って連絡をくれて、何とか自分との関係をつなぎ止めようとしてくれている。それはありがたいことのはずなのに、今の直樹には重荷に感じられてならなかった。どうせ会ってもお互いに仕事の愚痴を吐き出し合うだけで、月曜からの仕事がますます憂鬱になって帰るだけだ。何の心配もなく、ただ毎日をふざけて過ごしていればよかった学生時代とは違う。


(学生の時は、社会人ってもっと楽しいもんだと思ってたんだけどなぁ……)


 企業の就職説明会で見た若手社員はもっとキラキラして見えた。忙しいながらも充実した生活を送って、自分も社会人になったらそんな毎日を送れるんだとワクワクしていた。

 でも実際には、毎日靴底を減らして歩き回って、愛想笑いを浮かべて心にもない言葉を並べて、それで門前払いされては上司に無能だと怒鳴られ、そんな虚しさの募る毎日が続いていくだけだ。あと40年もの間そんな生活を続けるのだと思うと途端に憂鬱になり、直樹は暗澹あんたんたる思いで衣ばかりの揚げ物を咀嚼した。

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